第167話 優しい人ほど
二年生になって、もう少しで一ヶ月が経つ。
美羽と悠斗のやりとりに周囲が慣れて来たからか、美羽の周囲に集まっている女子の一人がぽつりと呟く。
「そう言えば、美羽って休憩時間に芦原の所へ行かないよね」
美羽が悠斗の側に行けないのは、こうして周囲に人が集まっているからだ。
口に出すと恩着せがましくなるので胸に秘めているものの、それは間違いない。
悠斗が美羽の立場を気遣ってくれているからこそ、休憩時間にこちらを優先しているのもある。
なのに勝手な事を言われたのだ。思わず怒鳴ってしまいそうになったが、必死に堪えた。
しかも、偶々悠斗達が教室に居ない時を狙ったかのように話すのだから質が悪い。
「……そうだけど、それがどうしたの?」
「美羽が納得してるなら良いんだけど、もうちょっと芦原は美羽の事を優先してもいいと思うんだよねー」
「そうは言うけど、お昼と放課後は私を優先してくれてるよ」
そうでなければ、周囲が美羽と遊べない事に不満を抱かないはずだ。
最近美羽と遊んで欲が満たされたからだと思うが、少しはこちらの気持ちも考えて欲しい。
苛立ちを抑えきれず、言葉へ少しだけ乗せたせいか、前の席に座っている紬の肩がびくりと震えた。
「それはそうなんだけど、あれだけ有名になったのに今は普通だなって」
「そんなものでしょ? 私は結構満足してるよ」
悠斗とほぼずっと一緒に行動し、週末は泊まりにも行けるのだ。今の距離感に不満などない。
強いて挙げるなら、この立場が非常に面倒臭いくらいか。
そもそも、美羽は有名になりたくて学校で告白を受けたつもりなどないのだ。
さらりと流せば、普段悠斗への陰口を言えないからか、近くの男子が会話に入ってくる。
「というか、芦原は東雲が柴田から告白された時に覗いてたんだろ? それでいいのか?」
彼からすれば、単に疑問に思っただけなのだろう。あるいは、悠斗を悪く言う空気をこれ幸いと思ったのかもしれない。
とはいえ流石に気を遣って、出来るだけ遠回しに「あいつは覗いた奴なのに、どうして付き合ってるんだ?」と尋ねてきた。
ある意味では度胸のある、地雷を踏み抜いた発言に周囲が固まる。
(またかぁ……。正直、
悠斗に心配を掛けさせまいと思って殆ど伝えていないが、彼のように美羽を問い詰める人は何人も居た。
また、ホワイトデーの時に説明はしたが、聞いていない人が居るのは分かっている。
どれだけ美羽と哲也が納得しても、不満を持つ人が居る事も。それが、例えクラスメイトであってもだ。
ましてや彼は悠斗を普段から快く思っておらず、一緒に居る友人と悠斗へ苛立ちの視線を送っていた。
仲良く出来ない人が居るのは分かっているつもりだが、それならば関わらないで欲しい。
(というか悠くんも同じクラスなんだから、少しくらい分かってあげられないのかな……)
すぐ側に悠斗が居るのだから、悠斗の人となりを見てあげて欲しかった。
少なくとも、楽しんで覗きをするような人ではないと分かるはずなのに。
悔しさと怒りが込み上げてきて、美羽の思考を真っ赤に染めた。
そして、こういう時に美羽がどう対処するか、去年から一緒だった人達は知っている。
だからこそ、彼女達は顔に焦りを浮かべた。
「美羽と柴田が許してるんだし、それでいいでしょ?」
「いくらなんでもその突っ込みは無粋じゃない?」
味方と思っていた周囲が一斉に責めたからか、彼が不機嫌そうな顔になる。
「いや、でもさ、覗き魔なんだろ? 東雲とは――」
この状況ですら悠斗の悪口を続けるつもりの彼の態度に、ぶつりと何かが切れた音がした。
その先の言葉を聞く気など起きず、平坦な声で遮る。
「ねえ」
「お、おう」
「ちゃんと三人共が納得してるから、余計な口を挟まないでくれるかな? そもそも、同じクラスなのに悠くん達が仲良くしてるのが見えないの?」
「でもさぁ――」
「余計な口を挟むなって言ったのが聞こえなかった? というか、私の前で悠くんを馬鹿したんだから、覚悟は出来てるよね?」
「……」
何の感情も込めずに言い放ったからか、男子生徒が絶句した。
この一ヶ月間の美羽の印象から、冷淡な対応をすると思わなかったのかもしれない。
しかし、悠斗の敵は美羽の敵だ。容赦はしないし、どうせならと最近溜め込んでいた思いを言葉にする。
「あのさ。覗きが覗きがって悠くんに文句を言うけど、それなのに私と悠くんを覗いた人達には何も言わないんだね?」
「それは――」
「それっておかしいよね? 同じように、あの時見てた人全員に文句を言わなきゃいけないよね?」
「ご、ごめ――」
「まさか言えないの? もちろん言えるよね? だって悠くんを馬鹿にしたんだから。さあ、この場にも居るんだから言ってあげなよ。大丈夫。誰が見てたのか分からないなら、私が教えるから」
「う……」
「言えって言ってるでしょ。何で黙ってるの? 悠くんの悪口は言えるくせに、他の人への文句は言えないの?」
「美羽、ストップストップ!」
美羽の視線をクラスメイトが遮り、彼との間に立って姿を見えなくした。
まだまだ言いたい事があるのだ。この程度で胸に灯った炎が消えはしない。
「何で止めるの?」
「ちょっと、やり過ぎかも」
彼女がゆっくりと体をずらすと、男子生徒が見えるようになる。
彼の目には美羽への恐怖がありありと映っており、顔色は青を通り越して真っ白だ。
これでも悠斗が受けている陰口に比べたら優しいのだが、やり過ぎたらしい。
よくよく考えたら八つ当たりに近いかもしれないが、美羽は事実を言っただけだ。
ままならないものだと重い溜息をつき、彼から視線を外す。
「まあいいや。これからは休み時間の度に悠くんの所に行くね。もう遠慮しなくていいでしょ」
結局何が悪かったのかと思うと、美羽の宙ぶらりんな態度がいけなかったのかもしれない。
誰にも文句を言わせないように、悠斗との仲を疑えないように、休み時間も悠斗の元に行けば良かったのだ。
周囲を放っておくという発言を受けて、先程悠斗を僅かに責めた女子の顔が引き攣った。
「ご、ごめん、美羽。私――」
「いいよ、もう怒ってないから。それと、悠くんだけじゃなくて、私が誰と一緒に居ようと勝手にさせてもらうね」
いろいろと吐き出して、既に怒りは収まっている。これは単に決意表明でしかない。
さらりと告げて授業の準備をし始めると、紬が振り向いて驚愕に目を見開いた。
「……え?」
最後の一言が何を意味していたか、紬には伝わったのだろう。
一瞬だけ笑みを向ければ、紬の顔が申し訳なさそうに曇った。
単に美羽がやりたいからなのだが、相変わらず優しいなと僅かに目を細める。
周囲の人達は何をすればいいか分からず、呆然と立ち尽くしていた。
「「……」」
急に空気を悪くした事で、美羽の立場が危うくなるかもしれない。
しかし、周囲に気を遣った上で悠斗の文句を言われるなら、美羽は喜んでこの立場を捨てる。
結局の所、美羽には立てない場所だったと納得していれば、悠斗と蓮、そして哲也が教室に入ってきた。
重苦しい空気の教室を悠斗が見渡し、最後に淡々と準備をしている美羽へ視線を向ける。
何が起きたか把握したようで、仕方ないなぁという風な苦笑を浮かべた。
(後でな)
悠斗の口の動きから言いたい事を読み取り、小さく頷く。
いくら美羽でも、この状況で悠斗の元に行って、はしゃぐつもりはない。
そして、チャイムが鳴るまでクラスメイト達が美羽の傍に居たが、最終的に散っていった。
授業が始まる直前、再び紬が美羽の方へ振り向く。
「本当に良かったの?」
「うん。私は悠くんや紬達を大切にしたい。だから、いいの」
「……ありがとう、美羽」
紬が眩しいものを見るように目を細めた。
美羽は単に怒りをぶつけただけだ。そんな風に見られる資格はないと眉を下げる。
「お礼を言われる事じゃないから。さ、前を向かないと先生に怒られるよ」
「ふふ、そうだね」
紬の柔らかな微笑みに、心が少しだけ軽くなった。
やはり美羽は多くの友達より、少ない友達と話す方が性に合っている。
紬が美羽に背を向け、重苦しい空気の中、授業が始まるのだった。
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