第148話 久しぶりの髪の手入れ
ごたごたはあったが、夕方のランニングまで普段と変わらず過ごし、美羽が晩飯を作っている最中に風呂を終える。
濡れた髪のままリビングへ行くと、クリスマスの時のように美羽が座って待っていた。
「ほら悠くん、こっちに来て?」
「料理はいいのか?」
いつもは料理をしている美羽に悪いと思い、髪を乾かしてもらっていない。
美羽も美羽で料理から手を離せないので、渋々ではあるが納得していたのだ。
心配になって尋ねれば、美羽がにんまりと瞳を細めて笑む。
「今煮込んでるから、少しくらいなら大丈夫だよ。それに悠くんの髪は乾くのが早いからね」
「……それならお願いしようかな」
これまで美羽は何度も煮込み料理を作っていたが、こうしてお世話されるのは一度もなかった。
おそらく、久しぶりの泊まりでテンションが上がっているのだろう。
僅かな時間ではあるが、それでも悠斗の髪を乾かしたいという世話好きっぷりに笑みを零し、美羽の前に座る。
「じゃあ行くよー」
美羽がドライヤーを使い、悠斗の髪を乾かし始めた。
髪を任せたのは正月以来だが、相も変わらずの手際の良さに感心する。
細い指が髪を梳く感覚が気持ち良く、目を閉じて浸っていると、すぐにドライヤーが切れた。
「もう乾いちゃった……。ざんねん」
「料理中だから有難いけどな。ほら、戻らないと煮込み過ぎになるぞ?」
もっとされていたかったのが本音だが、こちらに集中し過ぎて料理を失敗させる訳にはいかない。
本心を飲み込んで振り向きつつ美羽をキッチンへと促すと、不満そうに頬を膨らませた。
「うー。もうちょっとだけ」
「そうは言うがな。……ってまだ触ってるし」
悠斗の許可も取らず、向き合ったまま美羽が髪を触る。
美しい顔には物足りなさがこれでもかと溢れており、時間が許すならずっと触っていただろう。
しかし美羽とて料理へのプライドがあるのか、そう時間を掛ける事なく立ち上がった。
ただ、美羽の顔は名残惜しそうに曇っている。
「ねー悠くん。後で触っていい?」
「後でならいいぞ。乾かしてくれてありがとな」
「っ! うん!」
あんな顔をされては提案を断れない。
許可と感謝を伝えると、美羽の顔が一瞬で嬉しそうに綻ぶ。
鼻歌を歌いそうな程のご機嫌な後ろ姿に、くすりと笑みを落とすのだった。
「お風呂ありがとね」
晩飯を終え、美羽が風呂から上がってリビングへと顔を出した。
今の美羽は普段着ている部屋着よりも露出の少ないピンク色のパジャマを着ており、ちぐはぐさを感じて悠斗の顔に苦笑が浮かぶ。
「おう。それじゃあ今度は俺にもさせてくれ」
もう恋人なのだし、それ以前も機会があれば美羽の髪を乾かしていたのだ。
これまでとは違って悠斗から提案すれば、美羽が嬉しそうに顔を蕩けさせる。
「やったぁ! お願いします!」
髪を湿らせたままの美羽が悠斗の前に座り、無防備に背中を向けた。
悠斗は美羽のように手際が良くないので、せめて優しくしようと正月の時の事を思い出しながら淡い栗色の髪に触れる。
幸いな事に手順は忘れておらず、ゆっくりとではあるが美羽の髪から湿気が取れていく。
「やっぱり悠くんに乾かしてもらう方が気持ちいいね」
「そう言われて悪い気はしないな」
以前も美羽は喜んでくれたが、やはり今回も嬉しいようで小さな背中が機嫌良さそうに揺れる。
他人――それも恋人に――髪を乾かしてもらうのが気持ち良いのは悠斗にも分かるが、はっきりと言葉にされて胸が弾んだ。
髪を乾かし続け、ドライヤーを切って手入れをしていると、美羽がぽつりと呟く。
「本当は毎日やってもらいたいんだけどなぁ……」
「仕方ないさ。週末泊まりに来れるだけでも凄いんだ」
普通なら、親の目の届かない場所で男と二人きりになる状況など許すはずがない。
美羽とてこれ以上の我儘を言えないのは分かっているようで、小さな頭が縦に動いた。
「だね。おじいちゃんには本当に感謝してるよ」
「ホント、あの人には頭が上がらないな。……まあ、心臓に悪い事を言われたけど」
昼間の出来事を思い出し、吐息混じりに小さく呟く。
悠斗を弄る為とはいえ、まさか丈一郎と生々しい会話をすると思わなかった。
もちろん言いつけを破るつもりはないが、改めて恋人と二人きりというのを意識してしまう。
(そういえば、美羽は匂いを嗅がれて嫌がったっけ……)
日中は心のままに行動した結果、汗の匂いを嗅がれるのは嫌だと抵抗された。
その際に「風呂上がりならいい」と言われた気がする。
ならば今の状況は美羽の願いに沿っているので、嫌がられないはずだ。
「終わったぞ」
「気持ち良かったぁ。ありがと、悠く――」
「えい」
しっかりと手入れを終え、美羽が確認する前に華奢な体を思いきり抱き締める。
それだけでなく、乾いたばかりの艶やかな髪へと顔を埋めた。
悠斗の唐突な行動は予想出来なかったのか、腕の中の少女がびくりと体を震わせる。
「え、な、何!?」
「昼間抱き締めた時に風呂上りならいいって言ってただろ? だから、今やってるんだ」
「あぁ、そういう事だね。うん、いいよ」
予想通り悠斗の行動は許され、美羽が体の力を抜いて胸へと寄り掛かった。
美しい髪だけでなくうなじにも近くなり、風呂上がりの凄まじく良い匂いが鼻孔へと入ってくる。
(俺と一緒のものを使ってるはずなのに、どうしてこんなに良い匂いなんだろうな……)
美羽の甘いミルクのような匂いとボディーソープの匂いが合わさり、悠斗とは全く違う匂いに感じてしまう。
男心を容赦なく
本能のままに嗅いでいると、美羽が居心地悪そうにもぞりと動く。
「嗅がれるのは良いんだけど、そんなにされると恥ずかしいよ……」
「すまん。でも、本当に良い匂いなんだ」
「……ならいいや。やっぱりお風呂上がりの方がいいでしょ?」
「こっちも良いけど、あれもあれで良しだ。というか美羽も同じ事をしたし、多少汗を掻いてるくらい気にしないけどなぁ……」
風呂上がりの美羽は凄まじく良い匂いだが、日中が悪かった訳ではない。
美羽とて仕返しに悠斗の匂いを嗅いでなかなか離れなかったのだから、分からないはずはないのだ。
しかし納得出来ないのか、美羽が耳まで真っ赤にして俯く。
「……やっぱり、やだ」
「分かったよ。なら、今は堪能しようかな」
嫌がっているのだから、意見を押し付けては駄目だ。悠斗が気にしていないのを分かってくれるだけでいい。
気持ちを切り替え、細い腰に手を回して美羽を強く抱き寄せる。
風呂から上がってそれほど時間が経っていないからか、今の美羽は体温が高い。
甘い匂いと合わせて、離れたくないと思ってしまう。
抱き締めているはずなのに、これでは悠斗が甘えているようだ。
それでも構わないと開き直り、抱き締め続けていると、くすりと小さな笑いが聞こえた。
「いっぱい堪能してね。後でたっぷり私もするから」
「……するのか」
「当然だよ。満足するまで悠くんの髪を触ってないもん」
どうやらもう少しで美羽の番になるらしい。
ここまで好き放題している悠斗には、止める権利などない。
「お手柔らかに頼む」
「やーだよ」
からかうような弾んだ声に苦笑を落とす。
その後宣言通り美羽の番となり、たっぷり匂いを嗅がれたり頭を撫でられるのだった。
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