第147話 触れ合うがゆえに
「おっと、言い忘れていた」
昼飯を終え、美羽が自室で外泊の準備をしていると、唐突に丈一郎が呟いた。
しわがれた頬はからかうように緩んでおり、何となく嫌な予感がする。
「……何でしょうか?」
「美羽が泊まりに行くのは構わんし、何をしても口を挟むつもりはない。だが、子供を作るのは卒業するまで待て」
「いや、何言ってるんですか!? まだ作りませんよ!」
凄まじく心臓に悪い発言に、
まだ悠斗は学生なのだし、それはあまりに早すぎる。
そもそも、美羽とはキスすらしていないのだ。丈一郎の心配している事など、いつするか分からない。
しかし、丈一郎は至って真面目に――瞳は僅かに笑っているが――口を開く。
「そうは言っても、これからもっと美羽と一緒に居る時間が増えるのだ。そう遠くないうちにするだろう。一応釘を刺しておかんとな」
「……そうかもしれませんね」
祖父の立場としては一言注意しておきたいのだろう。
それに、きちんと言葉にしてくれるのは、それだけ心配してくれているという証明だ。
丈一郎の気持ちは嬉しい。しかし、ここで頷くと美羽にあっさり手を出す男と思われるかもしれない。
そうなれば、今までの信用が地に落ちる。
眉を顰めて玉虫色の返答をすると、丈一郎の目がすうっと細まった。
「何だ? 付き合っておきながら美羽は手を出す魅力もないという事か?」
「そんな訳ないでしょう!? 美羽は凄く魅力的ですよ!」
美羽は魅力に溢れている。最近こういう考えはしないように心掛けているが、悠斗には勿体無いくらいに。
正直なところ、恋人になってからだけでも手を出したいと思った事は何度もある。
ただ、今までは欲望を理性で縛り付けていただけだ。
必死に否定すれば、丈一郎の頬が今日一番の弧を描く。
「儂の前で美羽に手を出すなどとよく言えたな? 覚悟は出来ているんだろうな?」
「じゃあ何が正解だったんですか! 勘弁してくださいよ……」
丈一郎への返答がどうあがいても袋小路に詰まってしまい、悲鳴のような声が出た。
唯一の救いは、丈一郎の表情から明らかに悠斗をからかっているのが分かる事だ。
これが全て大真面目に言われていたら、悠斗は逃げ出していただろう。
疲れが一気に押し寄せてきてがっくりと肩を落とすと、丈一郎が小さく笑った。
「祖父のいびりというやつだ。美羽が居ない間なら思いきり出来るからな。これくらいは言っても許されるだろう?」
「……そうですね」
どうやら、美羽が居た時の悠斗へのからかいは手加減していたらしい。
納得は出来るし今は遠慮する必要がないとはいえ、ここまで悠斗を弄るとは思わなかった。
意地の悪い笑みに溜息を返すと、準備を終えたのか美羽がリビングに戻ってきた。
「おまたせ、悠くん。……あれ、何か疲れてない?」
「気にすんな。洗礼を受けただけだよ」
きょとんと首を傾げた美羽の髪を優しく撫で、心配はいらないとアピールする。
「……ん」
美羽がふにゃりと表情を緩め、されるがままになった。
このまま撫で続けたいが、じとりとした視線を受けて美羽の頭から手を離す。
ちらりと視線の主の様子を窺うと、鼻で笑われた。
「そういう事だ。さっさと行かんか」
どうやら悠斗達のやりとりは不問にするようで、しっしっと手で追い払われる。
用事も全て終わったし、丈一郎も拘束するつもりはないようなので、荷物を纏めてリビングを出る。
玄関まで見送りに来てくれた丈一郎へと振り返ると、美羽に似た柔らかい笑みをしていた。
「偶には食べに来い。またな」
「はい。お邪魔しました!」
「行ってきます、おじいちゃん!」
不器用な優しさに笑みを返し、美羽と共に東雲家を後にするのだった。
東雲家を後にし、折角外に出たのだからと晩飯の買い物を終えて芦原家に帰り着いた。
美羽が泊まりに来てはいるものの、荷物が多い以外の生活は変わらない。
今日も今日とて悠斗の膝に座り、悠斗がゲームをしている画面を見たり本を読んだりしている。
「毎回思うけど、本が読みにくくないか?」
ゲームをしているのだから、悠斗はどうしても手を動かさなければならない。膝の上は本を読む場所には適さないのではないか。
今までは思っていても口に出さなかったが、思いきって質問すると、美羽が僅かに眉を下げた。
「んー。偶に読みにくいかな」
「なら離れた方がいいと思うんだが」
「やだ。くっつきたい気分なの」
「……さいですか」
何も隠さない素直な気持ちをぶつけられて、素っ気なく応えたものの悠斗の頬が緩む。
こんなにも可愛らしい我儘を言われたのだ。引き剥がせる訳がない。
ただ、昼間に丈一郎から茶化されたせいで、普段よりも美羽を意識してしまう。
(今更だけど、何でこんなに細いのに柔らかいんだよ。良い匂いするしさぁ……)
ゲームのコントローラーを握っているので、強く抱きしめてはいない。
それでも、美羽の腰が折れそうな程に細いのが分かる。
しかも思いきり寄り掛かられているせいで、容赦なく柔らかい感触が伝わってきているのだ。
口にすると確実に怒るので言わないが、パッと見の体つきは子供なのに、どうして女性らしさもあるのかと不思議に思う。
そして、極めつけは甘いミルクのような匂いだ。
悠斗のベッドに匂いが移っているので毎日嗅いでいるが、それでもずっと嗅いでいたくなる。
美羽を意識してどうしようもなく心臓が高鳴り、コントローラーを置いて強く抱きしめた。
「ど、どうしたの?」
「……いや、なんか、こうしたかったんだ」
腕の中から聞こえた困惑した声に、返答とも言えない返答をする。
とはいえ心のままに行動した結果なので、止める気はない。
改めて美羽の細さと柔らかさを実感していると、腕の中の少女が小さく震えた。
「ふふ。よく分からないけど、いっぱい抱きしめてね?」
元々抵抗などしていなかったが、美羽が甘さを滲ませた柔らかい声を発して力を抜く。
無防備に体を委ねられ、興奮で体が反応してしまった。
僅かに体をずらして美羽から遠ざけつつ、淡い栗色の髪に顔を埋める。
流石に予想外だったのか、美羽がびくりと跳ねた。
「ひうっ!? 何?」
「こうしてると、凄くいい匂いするからさ。……駄目か?」
今まで以上に美羽の匂いが強まり、心臓が早鐘のように鼓動を早める。
そのくせ普段から嗅いでいる匂いなので、安らぎもするのだから不思議なものだ。
小さな耳のすぐ側で懇願すれば、美羽の体がむず痒そうに揺れた。
「駄目っていうか……。汗臭くない?」
「んー? ……うん、汗臭くなんかないって。というか人間なんて汗を掻くもんなんだし、それくらい気にしないんだが」
うなじに鼻を近付けると、ほんのりと汗の匂いがした。しかし、臭いとは少しも思わない。
むしろ心がくすぐられ、もっと嗅いでいたいとすら思った。
美羽の不安を取り除こうと思って告げたのだが、腕の中の少女がいきなり暴れだす。
「やー! 嗅がないでー!」
「ちょ、お、おい!」
「お風呂上がりならいいから、今はやだー!」
「分かった、分かったから!」
ここまで悠斗のやる事を否定したのは初めてだ。どうやら、美羽としては絶対に譲れない所らしい。
失敗したと思ってすぐに美羽を腕の中から解放する。
離れるかと思ったのだが、美羽は悠斗の膝に乗ったまま物言いたげにこちらを見つめた。
「今はだめ。悠くんだって汗の匂いを嗅がれたら恥ずかしいでしょ?」
「汗だくの時に嗅がれたら嫌というか申し訳なくなるけど、今は別にそうでもないぞ?」
流石に思いきり汗を掻いた時に嗅がれるのは恥ずかしいし、美羽も嗅ぎたくないはずだ。
だが、今は汗を掻いている訳ではないので、嗅がれるのは構わない。あくまで汗のみで判断するならだが。
しかし問題があるのは別の場所なのだ。
出来る事なら今だけは止めて欲しいものの、悠斗が許可したと受け取ったようで、美羽の瞳に挑戦的な炎が灯った。
「なら今からお返しするね?」
「……それはいいけど、あまり近付かないでくれると助かる」
「それは無理だよ。というか、悠くんもやったんだからお相子だと思う」
「う……。そ、そうだよな」
散々匂いを嗅いだ悠斗には美羽の行動を止める権利などない。そもそも、近付かないで匂いを嗅ぐのは不可能だ。
美羽に近付かれるのは諦め、悟られないように僅かに腰を引く。
どうやら悠斗の行動に美羽は何の疑問も抱かなかったようで、悪戯っぽい笑みを浮かべながら悠斗の胸にすり寄ってきた。
「それじゃあ行くよー。すぅ……」
美羽が悠斗の胸に顔を寄せながら、思いきり息を吸い込む。
この前の電車の中は満員だったので何も感じる余裕がなかったが、部屋で二人きりの状況は非常にまずい。
先程美羽の髪に顔を埋めた時よりも、体の血が下に集まっている。
(頼むから気付かないでくれ……)
なかなか離れようとしない美羽を胸に抱きつつ、ひたすらに願うのだった。
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