第139話 今までの癖

「……ん。……くん」


 幼げではあるが聞き取りやすく、何度聞いても飽きる事のない声が聞こえてくる。

 そして、誰かがいたわるように体を揺さぶってきた。

 優しい声と手つきが、悠斗の意識をゆっくりと覚醒へ導く。


「悠くん、起きて?」

「……ぅ」


 重い瞼をこじ開けて声の主を視界に収めると、今日も可愛らしい顔が柔らかく表情を緩めた。


「おはよう、悠くん」

「ぉはよぅ、美羽。ふわぁ……」


 何とか挨拶を返し、起き上がって背伸びをしつつ大きな欠伸を落とす。

 未だに閉じようとする瞼を擦れば、美羽が微笑ましそうに笑った。


「ねぼすけさんだね?」

「昨日寝たのが遅かったんだよ」

「一年生のテストは終わったし、課題とかはなかった気がするけど、何かしてたの?」

「別に何も。単に眠れなかっただけだ」


 今日が楽しみだったからとは子供っぽくて言えず、視線を逸らしてぽつりと零す。

 けれど悠斗の態度から飲み込んだ言葉を把握したようで、美羽がくすぐったそうに瞳を細めた。


「朝ご飯を作りに来た事はあるのに、そんなに今日が楽しみだったんだ?」

「……悪いかよ」

「ううん、嬉しいよ。ありがとね」


 恥ずかしくて唇を尖らせる悠斗の頭を、子供を褒めるかのように美羽が撫でる。

 拗ねた態度すら受け入れられ、悠斗の胸に先程よりも強い羞恥が沸き上がってきた。

 それでも美羽の手つきが心地よく、いつまでも撫でられたいと思ってしまう。

 しかし朝は時間が限られている。断腸の思いで立ち上がり、美羽の手を振り払った。


「もういいだろ? 着替えるから、下に行っててくれ」

「ざんねん。またさせてね?」

「……お好きにどうぞ」


 決して嫌ではないので遠回しに許可すると、美羽が嬉しさを滲ませた微笑を浮かべる。

 おそらく、明日からは毎日寝起きに頭を撫でられるのだろう。下手をすると、頭を撫でられて起きるかもしれない。

 その度に恥ずかしいと思うのかもしれないが、電子音で起こされるのとは段違いに良い目覚めのはずだ。

 内心で感謝しつつクローゼットに向かうと、既にシャツや靴下等が準備されていた。


「これで間違いはないかな?」

「……いつの間に準備してたんだよ」


 扉の前で美羽がしてやったりという風に微笑む。

 朝飯だけでなく悠斗の着替えすら準備していた事に呆れると、はしばみ色の瞳が悪戯っぽく細まった。


「悠くんを起こす前だよ。この家の殆どの事はとっくに把握してるんだから、準備出来ない訳ないでしょ?」

「それはそうなんだけどな。……まあいいや、ありがとな」


 美羽からすれば、悠斗のシャツや靴下を準備する程度は朝飯前なのだろう。

 世話焼き具合が一段と高まった事に苦笑しつつ感謝を伝えれば、美羽が嬉しそうに破顔した。


「じゃあ下でご飯の用意をしてるからね。二度寝は駄目だよ?」

「そんな事しないから。ほら、行った行った」


 起こしてもらっておきながら二度寝をする訳にはいかない。

 美羽が出て行ったのを確認し、すぐに準備に取り掛かる。

 然程さほど時間を掛けずに準備を終えて下に降りると、魚の焼けるいい匂いがした。


「もう出来るから、待っててね」

「何というか、至れり尽くせりだ。本当にありがとな」


 リビングの椅子に座り、ただ料理を待つだけの時間。

 クリスマスイブの時も作ってくれたが、あれは条件が重なったからだ。

 しかし、これからは毎日こんな贅沢な朝を過ごせる。

 改めて感謝を伝えると、料理を持ってきた美羽が微笑を浮かべつつ首を振った。


「私がやりたいって言ったんだから、気にしないでね。はい、どうぞ」

「……ああ、そうか。美羽はもう食べて来たんだっけ」


 目の前のテーブルには一人分の朝食がある。焼き鮭に味噌汁、小さな冷奴と、これぞ和の朝食という感じだ。

 ただ、美羽と一緒に居るのに一人で食べるのは味気ない。

 思わずぽつりと呟けば、形の良い眉がへにゃりと下がった。


「流石に二食は無理だよ。遠慮せずに食べちゃって」

「分かった。それじゃあ、いただきます」


 丈一郎との時間を大切にして欲しいと言ったのは悠斗なのだ。

 ここで悠斗を優先してもらっては絶対に駄目なので、気持ちを切り替えて目の前のご馳走に箸を伸ばす。

 相も変わらずの美味しさに頬が緩んだ。


「うまい」

「良かった。ご飯のおかわりもあるから、いっぱい食べてね」

「そうさせてもらうよ」


 やはり美羽の料理は箸が進む。

 朝であってもおかわりを要求するくらいに美味しいのだが、今は少々食べ辛い。

 その理由は、美羽がご機嫌な表情で悠斗の食べる姿をジッと見ているからだ。


「そんなに見なくていいだろ?」

「特にやることないし、いいでしょ?」

「見られてると食べにくいんだよ」

「我慢して欲しいなー」

「……はぁ」


 苦言を呈しても、美羽にさらりと流される。どうやら意地でも悠斗の食べる姿を見ていたいらしい。

 やる事がないというのは分かるし、嬉しそうに微笑んでいるので強くは言えなかった。

 溜息をついて食事を再開すると、美羽がくすくすと笑い声を漏らす。


「最初はこうだったから、何だか懐かしいね」

「確かにな。でも、すぐに美羽も一緒に食べるようになったけど」


 最初は美羽が悠斗の分の晩飯を用意するだけだった。

 随分昔の事のように思えて苦笑を落とせば、美羽が懐かしむような微笑を浮かべる。


「おじいちゃんのお陰だね」

「あの人には頭が上がらないな」


 同性ならまだしも異性である悠斗の家に、美羽が夜遅くまで居る事を許すなど普通はしない。

 様々な理由があったとはいえ、美羽とこうして一緒に過ごせるのは丈一郎が許可してくれたからだ。

 そんな人に何の報告もしないのは不誠実だと思う。


「だから、今度の土曜日は丈一郎さんに挨拶しに行こうと思うけど、いいか?」

「多分大丈夫だよ。……何だか違う報告みたいだけどね」


 真っ白な頬を朱に染め、美羽が恥ずかしそうに呟いた。

 言われてみれば、付き合っただけで恋人の家族に報告するのはやりすぎな気がする。

 それでもお世話になっている人なのだから、恥ずかしいなどと言っていられない。

 とはいえ美羽の指摘は心臓に悪く、悠斗の頬にも熱が宿る。


「……言うなよ。緊張するだろ」

「ふふ、かっこいい所を期待してるね?」

「善処するよ」


 大事になったり怒られはしないと思うが、それでも小言くらいは言われるかもしれない。

 怖くはないので、せめて彼氏としてまともな姿を見せなければと意気込み、朝食を終える。

 片付けをしようと思ったのだが、家を出る時間が迫ってきていた。

 申し訳ないと思いつつ、後片付けを引き受けてくれた美羽に玄関で頭を下げる。


「片付けを任せてごめんな」

「こんなの大した事じゃないよ。でも、ご褒美が欲しいな」

「なんなりとどうぞ」


 澄んだ瞳に期待込め、美羽が悠斗を見上げた。

 こんなにもお世話をしてくれたのだから、多少無茶なお願いでも叶えたい。

 遠慮しないでくれと笑みを向けると、美羽が上目遣いでおずおずと口を開く。


「ぎゅー、して欲しいな」

「お安い御用だ。今日はありがとな」


 鞄を床に置き、小柄な少女を抱きしめる。

 玄関前の段差で身長差が多少無くなっているが、それでも美羽の頭は悠斗の胸元だ。

 ありったけの感謝を込めて淡い栗色の髪を撫でると、美羽が体の力を抜いて寄り掛かってくる。


「悠くんに抱き締められると、落ち着く……」

「ちょっとしか出来ないけど、少しでも癒されてくれ」

「……うん」


 時間があまりないのが分かっているからか、美羽はこれ以上我儘を言わなかった。

 すぐに体を離すと、端正な顔に名残惜しさが浮かぶ。

 悠斗とて、出来る事なら撫でていたい。しかしこのままでは学校に行けなくなるので、せめてもの慰めとして再び美羽の頭を撫でる。


「それじゃあ、お互い大変だろうけど学校でな」


 悠斗と美羽が付き合った事は知れ渡っているはずなので、休憩時間は難しいが昼休みは一緒に居られるだろう。

 朝から大勢の人に絡まれるとは思うが、時間は作れるはずだ。

 すぐに会えると励ませば、美羽の顔に元気が戻った。


「うん! 行ってらっしゃい、悠くん!」

「行ってきます」


 夕方にいつも聞いている言葉だが、朝に聞くと一段と元気が出る。

 明るく微笑む美羽に送り出され、意気揚々と自転車のペダルを踏んだ。

 何も考えずに学校まであと半分の距離に来ると、ふと頭に疑問が浮かぶ。


「……あれ? 何で自転車使ってるんだ?」


 いつもの癖でつい自転車通学をしてしまったが、よくよく考えると美羽と一緒に行けない理由はない。

 悠斗は美羽と外でも一緒に居る為に頑張ったのに、これでは美羽と学校で会える時間が減ってしまう。

 それに昨日美羽と一緒に帰れたからか、自転車を使う事に何の違和感も覚えなかった。

 流石に昨日のような事はもう出来ないので、今日は駅で別れるしかない。


「しまったなぁ……。美羽は気付いてたかな」


 気付いていなかったかもしれないが、例え気付いていても悠斗が自転車を使うのならと、あえて言わなかった可能性がある。

 どちらにせよ、これは彼氏である悠斗の落ち度だ。


「はぁ……。やっちまった」


 申し訳ない事をしたと後悔でがっくりと肩を落としつつ、今日の夜にでも相談しようと思うのだった。

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