第138話 彼女のお願い

「美羽、そろそろ帰ろうか」


 美羽が膝に乗りながら読書をしたり悠斗のゲームを見ていたが、もういい時間だ。

 明日も学校なのでもう帰らせなければと声を掛けると、小さな唇が不満そうに尖る。


「まだ。もうちょっとだけ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけどな。これ以上居ると泊まる事になるだろ」

「別に泊まってもいいでしょ? 何か問題がある?」


 きょとんと無垢な表情で美羽が首を傾げた。

 既に恋人なのだし、悠斗と一緒に居たいという思いは嬉しい。

 けれど、こうしてズルズルと流されてしまうのは良くない気がする。

 決して嫌ではないのだという気持ちを込め、すぐ傍にある澄んだ瞳を見つめた。


「泊まりに来るのはいいけど、丈一郎さんを放っておくのは駄目だ」


 悠斗の家に入り浸っているせいで、美羽が丈一郎と会うのは朝だけなのだ。

 いくら恋人とはいえ、美羽と丈一郎の家族の時間を奪ってはいけない。

 朝の僅かな時間ではあるが大切にして欲しいと告げれば、美羽の顔が僅かに曇る。


「……確かに。冬休みは明けたし、連絡も無しに悠くんの家に泊まるのはおじいちゃんに悪いかも」

「だろ? という訳で――」

「だから、おじいちゃんに許可をもらってから泊まりに来るね!」

「あ、そういう?」


 美羽が満面の笑みで悠斗の考えの上を行く発言をした。

 あくまで悠斗の意見なのだから、丈一郎が許可すれば何も問題はない。

 呆れと感心を混ぜ込んだ呟きをすると、美羽が悪戯っぽく笑んだ。


「だって泊まりに来ていいんでしょ? なら、おじいちゃんと話し合わないと!」

「……まあ、それならいいか」


 美羽がいつ話すのかは分からないが、この家に泊まりに来るのだから、一度悠斗が挨拶に行くべきだろう。

 なるべく早くしようと決意しつつ、華奢な肩を叩いて促す。


「なら今日は帰ろうか」

「うん。そうだね」


 渋っていたとは思えない程にあっさりと、美羽が悠斗の膝の上から退いた。

 先程までずっと傍にあった温もりと甘い匂いがなくなり、寂しく感じてしまう。

 美羽を帰らせるくせに我儘だなと自分自身に呆れつつ、帰る準備を終えて家を出る。


「はい、悠くん」


 美羽が柔らかく笑みながら小さな手を差し出してきた。

 学校から帰る際は殆ど出来なかったが、美羽を送り届ける際は徒歩なので手を繋ぐ事が出来る。


「はいよ」

「……えへへ。やっぱり、こうして繋げるのはいいね」


 指を絡ませて東雲家へと歩き出すと、美羽がへにゃりと眉を下げて笑んだ。

 それだけでなく、悠斗の手の感触を確かめるように力を籠める。

 美羽の喜びがこれでもかと伝わってきて、悠斗の胸に嬉しさが込み上げてきた。


「確かに。恋人になってよかったな」

「ふふ、ずっと悠くんは見て見ぬフリをしてたからね」

「……悪かったよ」


 美羽がからかうように笑んで悠斗を責める。

 本気ではないのが分かるとはいえ、悠斗に出来るのは謝罪だけだ。

 渋面を作って頭を下げれば、美羽がくすくすと軽やかに笑う。


「別に怒ってないよ。でも、何だか長かったねぇ……」

「美羽と話し始めて半年くらいしか経ってないんだけどな」


 長い時間一緒に居た気がしてしまうが、まだ深く知り合ってから半年なのだ。

 それだけでなく、美羽の好意に気付きつつも見て見ぬフリをしていた期間はもっと短い。

 けれど、ずっと待たせていたと思えるくらい、濃く幸せな時間を過ごせた。

 美羽も同じ気持ちのようで、頬を緩めて上機嫌そうに唇をたわませている。


「そのたった半年だけで、私は大好きな人を見つけられたよ」

「俺もだ。大好きだぞ、美羽」

「……やっぱり、言葉にされるのは嬉しいな」


 気恥ずかしくはあるがきちんと好意を言葉にすると、美羽がにへらと溶けるように眉尻を下げ、幸せそうに微笑んだ。

 こうして想いを告げる事が出来るようになったのだから、前へ進んで良かったと心から思う。


「因みに、悠くんはいつから私の気持ちに気付いてたの?」

「確信したのはクリスマスかな。ああして慰めるのは好きじゃないと出来ないだろ」

「……にぶちん」


 何となくは予想していたが、美羽はクリスマスよりも前から好意を抱いてくれていたらしい。

 今度は本気で責めるような声色に、申し訳なさを込めた苦笑を返す。


「すまん。……じゃあ、いつからだ?」

「球技大会からだよ。あれも、ずっと前の事に思えるね」

「そうだな。にしても、俺がやったのは少し背中を押す事くらいなんだけどな」


 あの時は美羽の為に頑張りはしたが、多少力になれたくらいだ。

 感謝は分かるが、惚れられる程の事などしていない。

 腑に落ちずに首を捻ると、美羽が不満そうに眉を寄せた。


「私がずっと悩んでた事を解決してくれたんだよ? それに、私の為にあんなに頑張ってくれたんだもん。好きになるに決まってるよ。それに『ずっと覚えてる』って言ったでしょ?」

「確かに言ってたな。……なんだ、俺が美羽を好きになったのと一緒じゃないか」


 悠斗が嫌がったので言わなくなったが、美羽としては今でも忘れない程に強い思い出だったようだ。

 よくよく考えれば、クリスマスに悠斗の過去を美羽が受け入れてくれたのと同じ事なのかもしれない。

 あの時悠斗は既に好意を抱いていたが、美羽の立場であれば球技大会は好意を抱くに相応しい出来事だったのだろう。

 何度も言われているが、改めて悠斗の成果が示されて頬がだらしなく緩む。

 同じタイミングで好意を抱いた事が嬉しくてぽつりと呟けば、美羽がはしばみ色の瞳を大きく見せた。


「そうなの? 私はあの時もらってばっかりだったけど」

「全部解決して、美羽がもう家に来てくれなくなると思ってな。……失くしそうになって、ようやく気付けたんだ」

「もう。解決したからって何もかも失くす訳ないでしょ?」

「次の日も美羽は来てくれたからな。分かってるよ」


 あの時ですら浅い関係ではなかったのだという、不機嫌そうな顔に微笑を返す。

 結局、悠斗の悲しみは全部無駄になり、今までと同じ――むしろ今まで以上に――親密な関係を美羽と築けた。

 感謝を込めて美羽の手を少し強く握ると、美しい顔に笑顔が戻る。


「ならよし。でも、鈍感な彼氏さんには罰が必要かな」

「無茶振りは無しで頼む」


 美羽に鈍感と言われると何も言い返せない。

 受け入れつつも念の為に釘を刺せば、美羽が悪戯っぽく笑んだ。


「明日から悠くんの朝ご飯を作らせて?」

「それは俺への罰じゃないっての。というか、大丈夫なのか?」


 全く罰ではなく、むしろ有難い要求だ。朝から美羽の顔を見られるだけでなく、美味しい朝食を食べられるのだから。

 ただ、いくら美羽が世話好きでも、あまりに負担が大きいのではないだろうか。

 心配になって尋ねると、悠斗の不安を吹き飛ばすような溌剌はつらつとした笑みを美羽が浮かべた。


「元々おじいちゃんに合わせて早起きなのは知ってるでしょ? それに、一度やったよね?」

「それはそうだけど……」

「大丈夫。無理をしてる訳じゃないし、おじいちゃんを蔑ろにもしない。だから、いいかな?」


 目を細めた柔らかい微笑みからは、悠斗の想いがしっかりと伝わっている事が分かる。

 世話好きにも程があると小さく溜息をつきつつ、柔らかく細められた瞳を真っ直ぐに見つめた。


「分かったよ。でも、絶対に無理しない事。約束だ」

「うん、約束する」


 元々疑ってはいないが、きちんと美羽が頷いたので大丈夫のはずだ。

 夕方は当然として、これからは学校だけでなく朝も美羽と一緒に居られる事に悠斗の胸が弾む。

 明日の朝を待ち遠しく思っていると、東雲家に着いた。

 

「……もう着いちゃったね」

「何だか、早かったな……」


 東雲家へは十分程度なので、多少話しているだけで着く。

 それでも、今日は美羽と歩く時間が短い気がした。

 散々帰らせようとしたにも関わらず、これで終わりだと思うと悠斗の胸に名残惜しさが沸き上がる。

 それは美羽も同じらしく、端正な顔には寂しさが見え隠れしていた。

 しかしここで引き留めては駄目だと、断腸の思いで小さな手を離す。


「……じゃあ、またな」

「その前に、お願いがあるの」


 僅かに濡れた瞳で、美羽がおずおずと悠斗を見上げた。

 不安なような、期待しているような表情の恋人の願いを叶えないという選択肢はない。


「何だ?」

「ぎゅー、して欲しいな」

「もちろんだ」


 美羽のあまりにも可愛らしい我儘に笑みを零し、腕を広げる。

 小柄な体躯がするりと悠斗の胸に入ってきた。


「しあわせぇ……」

「……そうだな」


 厚着をしているので、美羽の柔らかさはそれほど感じない。三月に入ってだいぶ暖かくなったが、それでも深夜は寒い。

 それでも、この腕の中の愛しい存在を抱き締めているだけで心が温かくなる。

 明日の朝までの僅かな時間ですら離れるのが惜しく、美羽の存在を確かめ続けた。


「……よし! ありがとう、悠くん! おやすみ!」


 それほど時間は経っていないが、離れられなくなると思ったのか、美羽が勢いよく悠斗から距離を取る。

 お互いに離れたくないのに、無理矢理別れようとしたのだ。ここで引き留めるほど愚かではない。

 必死に笑顔を浮かべ、玄関前で手を振る美羽に同じように手を振った。


「おやすみ、美羽」


 未練を振り払うように美羽から背を向け、東雲家を後にする。

 丈一郎には悪いが、泊まって欲しかったなと今更ながらに後悔するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る