第137話 これまでとは違う距離

「ただいま」


 普段よりも随分遅い時間に帰ってきて、我が家へと声を響かせる。

 いつもであれば悠斗を迎えに来てくれる少女は、今は悠斗の後ろだ。


「おかえり、悠くん」

「まだ美羽は家に入ってないけどな。でも、ありがとう」


 妙な距離感だが、美羽に迎えられるのはやはり嬉しい。

 今度は悠斗の番だと、スリッパに履き替えて美羽を迎える。


「ほら、美羽も。おかえり」

「ただいま、悠くん!」


 こうして美羽と一緒に帰ってきたのは、茉莉達とのダブルデート以来だ。

 そして恋人になれたからか、弾んだ声を上げた美羽の顔が一段と華やいでいる。

 二人同時に学校から帰ってくるのも悪くないと思いつつ、リビングへと向かった。


「買い物袋は冷蔵庫の前に置いておいてね」

「もちろんだ。この冷蔵庫は美羽のものだからな。母さんから許可ももらってるし」


 悠斗とて飲み物等が欲しくて冷蔵庫を開ける時はある。それでも、この家の冷蔵庫の主は美羽だ。

 勝手に弄って怒られたくはないので苦笑を浮かべると、美羽が嬉しそうにはにかんだ。


「もう悠くんよりも冷蔵庫の中に何があるか知ってるからねぇ」

「そういう事だ。それじゃあ、ランニングに行ってくるよ」

「あぁ、待って! 食べ物を冷蔵庫に入れたらすぐに準備するから!」

「……助かるよ」


 普段とは違って学校終わりに一緒に帰ってきたせいで、美羽が忙しくなってしまった。

 これくらい自分で出来るので断った方が良い気もするが、美羽は譲らないだろう。

 恋人になっても相も変わらず世話焼きだなと笑みを零し、ソファに座って待つのだった。





「分かってはいたけど、付き合ったところで俺達って変わんないよな」


 美羽に送り出されてランニングをし、帰ってきてから美羽が沸かしてくれた風呂に入った。

 風呂から上がって少し経つと晩飯が出来たので、普段通り美羽と一緒に食べている。

 今更ではあるがとっくの昔に恋人らしい事をしていたのだなと、豚の生姜焼きを食べつつぽつりと呟いた。


「そうだね。でも、変わったところもあるよ?」

「あるか? 俺には分かんなかったぞ?」


 悪戯っぽく笑む美羽に問いかければ、甘く蕩けた笑顔が返ってくる。


「前よりもご飯を作るのが楽しくなったの。もちろん前も楽しかったけど、今日は彼氏に作ったからね」

「……彼女の手料理を毎日食べれて、俺は幸せ者だな」


 恋人に作ってもらったと考えると、普段でも絶品の料理が一段と美味しく感じられた。

 女性が料理を作るべきだとは思っていないが、美羽が恋人で本当に良かったと思う。

 胸に沸き上がる熱を言葉をとして伝えると、白い頬にさっと朱が混じった。


「そこまで言われると照れちゃうなぁ」

「もう抑える必要もないからな。これからも作ってくれるか?」

「もちろん! 喜んでだよ!」


 今まではあくまで友人としてだった。けれども、これからは正式に恋人としてになる。

 改めてお願いすると、美羽が溌剌とした笑みで大きく頷いた。

 その後は以前と変わりなく、美羽と一緒に片付けをして自室へと上がる。

 これまでと同じく悠斗のベッドで寛ぐかと思ったのだが、美羽がおずおずと悠斗を見上げた。


「今日はゲームするの?」

「どうしようかな。適当に本を読んでもいいかもな」

「だったらやりたい事があるの! 本を持ってきて!」

「はぁ……。分かった」


 瞳を輝かせて美羽が催促してきたので、取り敢えず本を数冊持ってくる。

 すぐに美羽がベッドへと上がり、壁際をぽんぽんと叩いた。

 ここに座れという事らしく、訳が分からないまま素直に従う。

 壁に寄り掛かって胡坐あぐらを掻くと、美羽が目の前に来て背を向けた。


「それじゃあ、お邪魔するね?」


 そのまま美羽が悠斗の方へと座り込み、胡坐の中にすっぽりと納まる。

 今まで一度もなかったくっつき方をしたからか、美羽がまるで抱き枕になったかのように思えた。

 美羽も美羽で悠斗へと体重を掛けるだけでなく、至近距離から楽し気な上目遣いでこちらを見上げる。


「えへへ、やってみたかったの。だめ?」

「別にいいけど、収まりが良過ぎて抱き締めたくなるな」


 もう恋人なのだし、そもそも抱き締めた事があるので嫌がられないはずだ。

 小柄とはいえあまりにも細い腰に腕を回して、美羽を引き寄せる。


「ひゃっ」


 先程よりも密着すると、短い悲鳴を上げて腕の中の少女が僅かに身を固くした。

 間違ってしまったかと後悔し、すぐに腕の力を緩める。


「嫌だったら離すけど?」

「嫌じゃないよ、びっくりしただけ。というか、むしろ悠くんに包まれてるみたいで安心する」


 すぐに表情を蕩けさせ、美羽が体の力を抜いて悠斗へと身を委ねる。

 安心しきってくれているのは嬉しいのだが、悠斗の視点だと部屋着から綺麗な鎖骨や胸元が丸見えだ。

 肩を通って胸元まで向かっているライトグリーンの紐すらバッチリと視界に入っているので、抱き締めた側ではあるが心臓が高鳴る。

 どうしたものかと思考していると、美羽が不思議そうな顔になった。


「変な顔してるけど、どうしたの?」

「……なあ、この体勢はやっぱり止めないか?」


 遠回しに告げたのだが、あまりに回りくどくて美羽が理解出来なかったらしい。

 悠斗のよこしまな視線などどこ吹く風のように、きょとんと首を傾げる。


「どうして? 本当は嫌だったの?」

「嫌な訳あるか。ずっとしていたいくらいだっての」

「ならいいよね。私はこの体勢好きだよ?」

「胸元が見えてもか?」


 隠していてはらちが明かないと思ったので、恥ずかしいが思いきってバラした。

 悠斗の指摘に、美羽の顔が一瞬で真っ赤に染まる。

 すぐに離れるかと思ったのだが、居心地悪そうに体を揺らした後、潤んだ瞳で悠斗を見上げた。


「……別に、いいよ。悠くんなら、特別」

「じっくり見るぞ?」

「えっち。……でも、そんな悠くんも好きだから、許してあげる」

「……そうかよ」


 責められつつも肯定されてしまえば、どんな反応をすればいいか分からなくなる。

 とはいえ上から眺めてもいいと許しが出て、好意を素直に言葉にされて、嬉しさに頬を緩ませた。

 美羽はというと、一瞬だけ恥ずかしそうに悠斗を睨んで読書をし始める。

 これまでと同じ部屋なのに確実に変わった距離感の中、落ち着かない心臓を放って悠斗も読書に取り掛かるのだった。





「幸せ過ぎて忘れてたけど、悠くんのプレゼントを開けていい?」


 美羽が悠斗の膝の上で読書をしていると、唐突に声を発した。

 付き合えたからか、悠斗の膝の乗り心地が良かったからか、すっかり忘れていたらしい。

 プレゼントを忘れられた悲しさと、プレゼントを忘れる程に美羽が幸せなのが分かり、悠斗の顔に何とも言えない笑みが浮かぶ。


「おう、いいぞ」

「ちょっと待っててねー」


 美羽の温もりと甘い匂いが傍から消え、寂しさを感じているうちに美羽が一階へと降りていった。

 すぐにパタパタと軽い足音が上がってきて、悠斗の部屋の扉が開く。

 ご機嫌な表情の美羽が、何の遠慮もなしに悠斗の膝に座った。


「……この体勢で開けるのか?」

「もちろん。だめ?」

「まあ、いいけどさ」


 こんなにも密着していると開けにくいのではと思ったが、美羽は問題にしていないようだ。

 はしばみ色の瞳を輝かせながら、綺麗に包装を解いていく。

 たかが包装なのに妙に大切に扱う美羽が可愛くて笑みを落としていると、箱の中に敷き詰められた、小さくはあるが様々な色のクッキーが出てきた。


「すごい……!」

「市販のクッキーだよ。大した事ないって」


 感嘆の声に、そこまで喜ばれるものではないと苦笑を返す。

 悠斗の手間など殆ど掛かっていない。もちろん蓮に相談して悩みはしたが、美羽とは比べるだけ失礼だ。

 しかし、美羽はむっと顔を顰めて首を振る。


「悠くんがくれたものなんだよ? 喜ぶに決まってるでしょ!?」

「そ、そうか、すまん」


 美羽の剣幕が凄すぎて、考える前に謝罪が口から出た。

 これ以上卑下するのは危険だと第六感が訴えている。

 謝罪をした後はジッとしていると、すぐに機嫌が直ったようで、美羽が淡く笑みながらクッキーを摘まんだ。


「はい、あーん」

「いや、美羽にあげたんだが」

「いいの! 私が食べさせたいの! はい、あーん!」

「……あーん」


 どう考えてもちぐはぐなのだが、受け取った側の美羽がやりたいなら好きにさせるべきだ。

 諦めて口を開ければ、細い指がゆっくりとクッキーを口の中に入れる。

 美羽の指に気を付けつつ咀嚼すると、バターの甘い味が広がった。


「うまい」

「ふふ、悠くんが買ってくれたものだからね。じゃあ次は私だよ。あーん」


 悠斗の膝の上で今か今かと悠斗の指を待ちわびる美羽があまりにも可愛くて、悠斗の頬が緩む。


「あーん」

「あーん。んー、おいひぃー!」


 バレンタインデーの時と同じなようで、一段と近い距離での触れ合いに心が温かくなるのだった。

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