第135話 大騒動
授業は瞬く間に過ぎていき、放課後となった。
バレンタインの時よりかは落ち着いているが、それでもざわついている廊下をゆっくりと歩く。
さほど時間を掛けずに「1-A」と表示してある教室に着いた。
「……いよいよだな」
美羽には事前に連絡してあるので、この先で待ってくれているはずだ。
ここから一歩でも踏み出してしまえば、もう後戻りは出来なくなる。
覚悟を今一度するために深呼吸をして、扉に手を掛けた。
「すまん。美羽はいるか?」
ちょうど扉の近くに男子生徒が居たので、断りを入れて美羽を呼んでもらう。
急に話し掛けたからか、それとも美羽を名前で呼んだからか、男子生徒がびくりと体を震わせた。
「え、だ、誰だ?」
「1-Eの芦原だ。東雲美羽は居るか?」
「い、いるけど……」
緊張で淡々とした口調になってしまい、悠斗が怒ったと勘違いしたのか、びくびくしながら彼が視線を滑らせる。
申し訳ない事をしたなと内心で後悔しつつ視線の先を追うと、女子に囲まれている小柄な少女と目が合った。
「それじゃあ行くね」
悠斗が教室の扉を開けた音か、男子生徒との会話が聞こえていたのだろう。
美羽が悠斗によく見せる自然な笑みを零して立ち上がり、帰り支度をし始めた。
「芦原って、Eクラスのかっこいい人だよね?」
「そうそう。少し前の球技大会で話題になった人」
「美羽に何の用事なんだろ?」
「そりゃあ今日はホワイトデーなんだから……。あれ?」
「もしかして、あの人が!?」
ホワイトデーに女子を呼び出す理由など一つしかない。
ましてやお礼をしに来たという事は、美羽からチョコレートを受け取っているという事だ。
美羽の周囲の女子がその考えに至ったようで、黄色い声を上げた。
「ねえねえ、あの人が美羽の!?」
「わー! 全然知らなかった!」
どうやら女子からは概ね好意的に受け止められているようで、瞳を輝かせながら帰り支度を終えた美羽を引き留めている。
やはりというか、想像通りというか、凄まじい盛り上がりだ。
そして女子とは反対に、男子からの反応は良くない。
「アイツが東雲さんの?」
「何だよ、チョコのお返しをするからって見せびらかしに来たのか?」
こちらも悠斗の予想通り、驚きに目を見開いていたり、刺々しい視線をしている人が殆どだ。
その中でも、呆けたように口を開けている哲也が一番目を引く。
哲也には負けていられないと、今度は悠斗の番だと、強気な笑みを向けた。
へらへらとしていてはこのクラスの人達に悪い印象を持たれてしまうと思い、すぐに表情を引き締める。
数々の視線に晒されながら待っていると、ようやく美羽が傍に来た。
「ごめんね。お待たせ、悠くん」
嬉しさを滲ませた笑みに、名前どころか愛称呼びに、教室の中がざわつく。
もはやどんな会話をしているかすら聞き取れないが、聞かなくても分かる。
凄まじい喧騒の中でも、普段と全く同じように笑んでいる美羽へ笑いかけた。
「そんなに待ってないから気にすんな。……それと、移動しないか?」
「うん、分かった。そこで、だね?」
「おう」
短く応えると、美羽が嬉しそうに顔を綻ばせる。
いくら周囲に示す為とはいえ、ここで伝えるのはあまりにムードがない。
出来るだけ静かな場所がいいが、悠斗が知っている場所など数回行ったあの場所だけだ。
美羽と教室を出て肩を並べつつ歩くと、後ろから数えるのも馬鹿らしいほどの足音が聞こえてくる。
「野次馬根性丸出しじゃねえか」
興味があるのは分かるし、悠斗が言えたものではないが、あまりにも露骨過ぎてつい口に出してしまった。
ムスッと唇を尖らせる悠斗の横で、美羽がくすくすと軽やかに笑う。
「でも、これで私が誰のものかハッキリさせられるね」
「……俺が言う前に自分で宣言するなよ」
確かに好都合ではあるが、何もしていないうちに言わないで欲しい。
嬉しくはあるので美羽を撫でようと手を僅かに上げ、けれど何もせずに戻した。
小さな動きでも悠斗が何をしたかったのか分かったらしく、美羽が上機嫌そうに唇をたわませる。
「ふふ。それは後でして欲しいな」
「分かったよ。やるべき事をやってからだな」
隣を歩いているのに、手を繋ぐどころか悠斗の服を摘ままれもしない。
少しだけ寂しく思いつつ、けれど美羽に触れるのは想いを伝えてからだと足を前へと進める。
暫く歩いていると余程話題になったのか、別のクラスの人も混じり始めた。
かなりのざわつきが後ろで起こっており、先生等に注意されないか心配になる。
「あの芦原って奴、この前東雲が告白されるところを覗いてたんだってさ」
騒々し過ぎる喧騒の中でも、棘のある一言がするりと耳に入ってきた。
その言葉によって、悠斗の後ろに居る生徒達のざわつきが更に大きくなる。
来るかもしれないと予想はしていたが、このタイミングで出て来るとは思わなかった。
とはいえ、むしろ良いタイミングなので利用させてもらう。
「前も言ったけど、覗いて悪かったな」
「いいんだよ。正直に言ってくれたし、柴田くんにも謝ったんでしょ?」
「ああ。一応許してもらったよ」
後ろにも聞こえるように、ワザと大きな声で美羽と会話した。
当事者である美羽と柴田に許してもらっているのなら、他の誰も悠斗を咎められない。
そう思ったのだが、後ろから「ちょっといいか」と男子生徒の声が聞こえてきた。
振り返って確認すると、見覚えのない男子生徒だ。
隣を見るときょとんとした表情をしているので、美羽も面識がないらしい。
「どうしたの?」
「そいつにバレンタインデーのチョコレートをあげたんだよな?」
「そうだよ。何か問題があるかな?」
何もおかしな事などないと言わんばかりに、美羽が穏やかな笑みを浮かべながら小首を傾げる。
けれど、悠斗の目には明らかに作ったような笑みに見えた。
美羽の言葉に、男子生徒が苛立ったように眉を吊り上げる。
「そいつは告白を覗いて、しかも名乗りもせずに東雲に好きな人が居るって噂を流すような奴なんだぞ。何でチョコをあげたんだよ」
「覗いたのは偶然だった。でもすぐに離れなかったのは俺が悪かったと思う。だから美羽と柴田に謝ったんだよ」
おそらく、悠斗が覗きを行ったという事実で今の彼の頭は一杯なのだろう。悠斗が噂を流したと当然のように思っている。
美羽と会話していたので割って入るのはマナー違反だが、ここは悠斗の口から説明すべきだ。
不快そうに顔を顰める男子生徒に、ゆっくりと事情を話していく。
「さっき美羽に言った通り、もう二人からは許してもらった。それと、俺は噂なんか流してない」
「それを誰が信じるんだよ。お前が東雲を独占したいからじゃないのか?」
「少なくとも、覗かれた俺は信じてるけどね」
悠斗の発言に男子生徒が聞く耳を持たず、喧嘩腰の言葉をぶつけられると、後ろの集団の中から穏やかな声が聞こえた。
すぐに穏やかな笑みを浮かべた哲也が出てきて、男子生徒が目を見開く。
しかし哲也の発言でも納得出来なかったのか、彼が唇を尖らせた。
「……何でだよ」
「俺は芦原が覗いていたのを謝られるまで知らなかった。でも、怒られるのも覚悟で自分から会いに来たんだぞ? そんな人を疑えない」
「これで私と柴田くんが許したのが分かったよね? まだ何か言いたいの?」
哲也は諭すような口ぶりだが、美羽はしつこい男子生徒が癪に障ったらしい。言葉の端々に圧があった。
当たり前の話だが、美羽は当然として、哲也にも顔を知られたのだ。
そんな状況で哲也に追い打ちを掛けてしまえば、恨みを買われるのは分かりきっている。
下手をすれば、美羽に嫌われてしまうだろう。
多少ではあるがようやく分かってもらえたようで、男子生徒の表情が怒りから困惑へと変わった。
「……じゃあ、誰が流したんだよ」
「それを俺の口から言っても信用出来ないだろ? だから言わない。覗いたのは事実だから胸は張れないけど、少なくとも噂を広めた人よりかは誠実でいるつもりだ」
いくら哲也と美羽の後押しがあったとしても、今の悠斗は疑われる立場だ。信用されにくいのは分かっている。
それに、どういう経緯であれ覗いたのは確かなのだから、悠斗は決して善良な人間になれない。
けれど、やってしまった事への償いはしたつもりだ。
探られて痛くなるような腹などないと真っ直ぐに男子生徒の目を見れば、彼が僅かに目を逸らした後に頭を下げた。
「言いがかりを言って悪かった」
「いや、俺が覗いたのは間違いないんだ。そう言われてもおかしくはないさ」
この場に居るという事は、この男子生徒は美羽に気があったのだろう。
想いを寄せている美羽が不誠実な事をした人と一緒にいては、納得など出来ないはずだ。
気持ちは分かるので怒りはしないと笑みを向ければ、男子生徒がはあ、と溜息をつく。
「……すまん」
「謝らないでくれ。それじゃあ、もういいか?」
「ああ」
男子生徒が人だかりの中に入っていき、見えなくなった。
他の人の疑問も解消されたのか、悠斗達に質問してくる人はいない。
それどころかざわつきが収まったので、手助けしてくれた哲也へと頭を下げる。
「ありがとな、柴田」
「気にしないでくれ。それに、謝ってくれた芦原は許したけど、噂を広めた人を絶対に許すつもりはないからな」
「私も絶対に許さない。そういう人は嫌いだし、話したくもないよ」
哲也と美羽がちらりと人混みへと視線を向けつつ、周囲にも聞こえるように大きな声を出した。
悠斗も人混みの方を見ると、哲也の告白を覗いていた男子生徒が顔を青くしている。
その隣の生徒が、不思議そうな表情で彼の肩を叩いた。
「そういえば、お前はどうして芦原が覗いてたって知ってるんだ?」
「え? い、いや、人から聞いたから分からないよ……」
先程はつい口に出してしまったのか、それとも悠斗を妬んだからなのかは分からない。
どちらにせよ、些細ではあるが悠斗の復讐は終わりだ。
彼が知り合いだろう生徒に質問され、焦っている姿に黒い笑みが零れる。
「……ふ」
「ざまあみろ、かな?」
「言わないようにしてたんだから、声に出すのは止めてくれ」
「俺も東雲も大変だったんだし、これくらいはいいだろ。ああスッキリした」
「まぁ、そうだな」
美羽や哲也も似たような笑みをしているので、思いは一緒だったらしい。
三人で笑いあっていると、哲也が唐突に真面目な顔になった。
「俺があれこれ言う資格はないけど、頑張れ」
「ありがとう、柴田」
哲也はあえて美羽に何も言わず、悠斗へのみエールを送ってくれた。
お礼の言葉に笑みを返せば、哲也があっさりと悠斗に背を向けて去っていく。
「さて、行くか」
「はーい」
緊張などしておらず、むしろご機嫌な笑みを浮かべている美羽と再び歩き出すのだった。
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