第134話 前に進めた証明の為に
「ただいま」
ホワイトデーの前の日曜日。悠斗にしては珍しく買い物に出掛けていた。
買い物を終えて我が家に声を響かせると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「おかえり、悠くん」
今日も柔らかい笑顔で迎えてくれた美羽が、悠斗の持っている不自然に膨らんだ鞄を見て笑みを深めた。
しかし美羽は何も聞きはしない。それどころか、いつもと違って鞄を持とうと手を伸ばさず、くるりと悠斗に背を向ける。
「すぐランニングに行く?」
「ああ、そうするよ。……ありがとう、美羽」
他人が見れば、悠斗が嫌われたと思うかもしれない。
しかし、今の悠斗にとっては先程の美羽の態度が有り難かった。
もし美羽が手を伸ばしていたら、悠斗は拒否していただろうから。
気遣い上手な少女の背中へ感謝を告げると、美羽がちらりと振り返って小さく笑んだ。
「明日は鞄を持たせてね」
「もちろん。明日からも頼むよ」
鞄の中身を持つのは今ではないという意思に、そして明日からは以前と変わらず鞄を持つという世話焼きっぷりに胸が暖かくなる。
そのまま二階へと上がり、ランニングウェアに着替えた。
部屋を出る前に、鞄の中身を取り出す。
「これは隠しておかないとだな……」
何を買ったのかとっくにバレているとはいえ、その時まで隠し通すのが男の義務だ。
机の引き出しにしまい、鍵を掛けておく。
美羽ならば見て見ぬフリをするだろうが、念の為だ。
「さて、行きますかね」
下準備はこれで終わり、後は当日を待つだけとなった。
まだ前日ですらないのに、緊張で心臓の鼓動が僅かに早くなる。
鼓動の意味を変える為、部屋を出るのだった。
「……いよいよ明日だね」
運命の日の前日となった夜。美羽を東雲家へと送ると、玄関前で美羽がぽつりと呟いた。
可愛らしさの溢れる顔に悠斗への心配が浮かんでいるのが、夜の闇の中でも分かる。
「本当にいいの? 悠くんが嫌なら、私は別に――」
「いいんだよ。これは俺が選んだんだ。誰かに強制されてじゃない」
悠斗の心を救ってくれただけでなく、ずっと傍で待つつもりだった美羽。
振られる恐怖を持ちながらも勇気を出した哲也と紬。
先日まで心に鋭い棘として刺さっていた直哉と茉莉。
様々な出来事があり、参考にした人達もいたが、これは間違いなく悠斗の選択だ。
未だに悠斗を気遣う美羽へきっぱりと伝えれば、端正な顔が嬉しそうに蕩けた。
「なら、明日教室で待ってるね」
「おう。ちゃんと迎えに行くよ。待っててくれ」
この期に及んで逃げたりなどしないという意思を言葉に表し、淡い栗色の髪を撫でる。
すぐに手を離すが、次に美羽に触れられるのが全てを終えた後だと思うと名残惜しくなった。
しかし、ここでいつまでも立ち止まってはいられない。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ、悠くん。それと、いってらっしゃい」
断腸の思いで美羽に背を向けようとすると、別れの挨拶だけでなく、悠斗を送り出す温かな言葉が耳に届いた。
少しでも力になりたいという美羽の想いが胸に染み、悠斗の体に力が
「いってきます!」
夜も更けているので大声ではないが、それでも美羽が聞き逃さないように告げると、愛しい少女の顔が満面の笑みへと変わった。
すぐに美羽へ背を向けて東雲家を後にするが、先程までの名残惜しさはとっくに無くなっている。
東雲家が遠ざかり、随分と暖かくなった夜の下、何とはなしに空を見上げた。
「……綺麗なもんだな」
今日の空は雲一つなく、散りばめられた星が輝いている。
そういえば、こうして星空を見上げたのはいつぶりだろうか。
普段ならば気にもしない淡い光だが、確かな輝きに背中を押された気がした。
眠さを感じつつも目は冴えており、まだまだ時間があるにも関わらず心臓は僅かに鼓動を早めている。
その理由である、鞄の中の物にそっと触れた。
「……忘れてないな」
三月十四日の重大な日にこれを忘れてきてしまっては、笑い話にもならない。
あまりにも気になり過ぎて、学校へ来る途中に何度も確認したほどだ。
ホッと安堵の息をつきつつも心は全く落ち着いておらず、忙しなく周囲を見渡す。
「ホワイトデーとか、俺達には関係ないよなぁ」
「だよな。勝ち組の人が羨ましいぜ」
けらけらと笑いつつ、クラスメイトが冗談半分でお返しを用意している人をやっかむ。
今までであれば内心で彼らに同調していたが、今回は彼らの会話が耳に痛い。今日の悠斗は嫉妬される側なのだから。
「おはよう。今にも死にそうな顔してんなぁ」
息を殺して教室の隅っこに座っていると、今日も今日とて爽やかな笑顔の蓮が強く肩を叩いてきた。
悠斗が今日何をするか知っているはずなのに、それでも茶化してくる蓮を思いきり睨みつける。
「当たり前だろ。大事な日なんだからな」
今回は結果が決まっているとはいえ、昔はその場に立つ事すら叶わなかったのだ。
それだけでなく、悠斗の学校生活が確実に変わってしまう。
既に覚悟は出来ているものの、それでも緊張は悠斗の中から出て行かない。
大きく息を吐き出すと、蓮がからからと笑った。
「そこまでビビらなくてもいいだろうが。単にお前たちの仲を知らしめるだけだろ?」
「簡単に言ってくれるなぁ……。間違いなく大事になるんだぞ?」
「それでも前に進むと決めたんじゃないのか?」
「……そうだな。いろいろ世話を焼いてくれて、これを一緒に選んでくれて、本当に助かった。ありがとう」
球技大会や冬休み中の事だけではない。入学してから強引に話し掛けてくれた事や、底辺だった悠斗の勉強を見てもらった事も含めて、蓮には本当に世話になった。
蓮がいなければ、悠斗は今でも教室の隅で縮こまっていただろう。
また、机の縁に掛けてある鞄の中身についても蓮には協力してもらった。
その際に、今日の事についても多少話してある。
もちろん蓮の手を借りるつもりはないが、恩人への悠斗なりのけじめだ。
深く頭を下げると、蓮が大人びた笑みを浮かべた。
「いいってことよ。代わりと言っちゃあなんだが、悠が前へ進めたっていう証明をしてくれ」
「もちろんだ。蓮に助けてもらった事が無駄じゃないってのを証明するよ」
悠斗は本当に色んな人に救われた。ここまで来れたのは、決して悠斗の力だけではない。
大きく頷いてみせれば、蓮が眩しいものを見るように目を細める。
「……もう、大丈夫そうだな。頑張ってこい、親友!」
「おう。いい報告をしてやるよ!」
悠斗を送り出す弾んだ声に、溌剌とした笑顔で応えるのだった。
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