第133話 結果報告

「ねえ芦原。もっとちゃんと東雲さんと話したら? さっきから何も言ってないじゃん」


 美羽達が下着売り場を出てからすぐに、茉莉の文句が悠斗へと放たれた。

 だが、今更この程度の言葉で傷つきはしない。

 そよ風のように流しつつ、胸を張って茉莉に応える。


「俺達はこれで満足してるんだよ。別にいいだろ」

「でもさぁ――」

「篠崎さん。私がさっき言った事。もう忘れたのかな?」


 美羽にしては本当に珍しく、氷のような感情の浮かばない無表情を茉莉へ向けた。

 どうやら先程の店で何らかのやりとりがあったらしい。それも、美羽の神経を逆撫でするような事が。

 悠斗にすら分かる程の威圧感に、これ以上は危険だと悟ったのか茉莉が勢いよく首を振る。


「ご、ごめんね! 私はただ――」

「あ、悠くん。あれ見たいな。いい?」


 茉莉の言葉を完全に無視し、華やいだ笑顔を浮かべて美羽がアクセサリーショップを指差した。

 笑顔は普段に近いのだが瞳は笑っておらず、その奥に怒りを覗かせている。


(こんなに怒るなんて何を言われたんだか……)


 滅多に怒らない美羽がこれほど感情を昂らせているのだから、余程の事を言われたに違いない。

 そして、その内容は悠斗をけなす事だったはずだ。

 クリスマスイブに怒られ、今日も散々悠斗達が文句を流しているにも関わらず、未だに美羽の逆鱗に触れる茉莉に心底呆れた。

 直哉には悪いが、美羽をここまで怒らせたのだから、悠斗とてそれなりの対応をさせてもらう。


「いいぞ。でもあんまり手持ちがないから、買うのは勘弁してくれ」

「大丈夫、見るだけでいいから! ありがとう!」

「あのさぁ――」


 あまりにも鮮やかに無視されたからか、茉莉が顔を顰めつつ何かを言おうとした。

 しかし、悠斗と美羽の視界にはもう茉莉は入っていない。

 美羽に腕を引かれてアクセサリーショップへ向かっていると、後ろから声が聞こえてくる。


「……おかしいよ。こんなのおかしいって! ねえ直哉!」

「……」

「何黙ってるのよ! ちょっとは面白い話くらいしなさいよ!」

「……そうだな。ごめん」


 今まで聞いたことのない金切り声が耳に届き、ちらりと後ろを振り返った。

 そこには、顔を真っ赤にして恋人に怒っている女性がいる。

 顔に呆れの浮かんだ彼氏が宥め、その唇が「潮時かな」と動いた気がした。

 




「それじゃあ俺達はスーパーに寄ってくから」


 茉莉達とのダブルデートを終え、家の近くまで来た。

 今日の晩飯の材料を買っていないとの事だったので、スーパーへの道で茉莉と直哉に別れを告げる。

 どうやら茉莉は落ちついたようだが、その表情はむくれており、不機嫌さを隠そうともしていない。

 しかし挨拶は返してくれるようで、視線は合わないものの、ぽつりと呟かれる。


「さよなら、東雲さん」

「あぁ、うん、さよなら」


 美羽と茉莉が出掛ける前とは全く違う、冷え切った挨拶を交わした。

 悠斗は直哉と目だけで挨拶し、拍子抜けするくらいあっさりと別れる。

 全て終わったのだという達成感を覚えつつ、美羽へと頭を下げた。


「今日はありがとな。面白くなかっただろ?」

「悠くんとショッピングモールを見て回るのは楽しかったよ」

「……本当に、ありがとう」


 茉莉と直哉に関しては意識して話から抜いたのだろう。

 途中から茉莉に対して露骨に不機嫌になっていたが、それでもここまで付き合ってくれた美羽への感謝を込めて頭を撫でる。

 人形のように整った顔が、すぐにふにゃりと蕩けた。


「えへへ。最高のご褒美だよ」

「なら、帰ってからもっと撫でようかな」

「やったぁ! 早く帰ろう!」


 天真爛漫な笑顔で、美羽がぐいぐいと手を引っ張っていく。

 こうして悠斗を前へと連れて行ってくれる小さな姿に、何度救われたか分からない。

 だからこそ、今日の集大成として美羽へと結果を伝える。


「過去は振り切ったよ。もう大丈夫だ」

「なら良かった。多分、篠崎さん達と一緒に出掛ける事はないだろうし、安心出来るね」


 美羽が悠斗の隣に戻ってきて、ふわりと柔らかく微笑んだ。

 悠斗から見ても茉莉は全く楽しめていないようだったし、特に最後は酷かった。

 おそらく、美羽の言う通り誘われる事はない。

 清々しい気持ちのままスーパーに到着し、美羽と一緒に食材を選ぶ。


「今日は何がいい?」

「煮付けが食べたいな。丈一郎さん直伝のやつ」


 毎日ではないが、美羽は時折丈一郎から教わった料理を振る舞ってくれる。

 どれもこれも絶品だが、その中でも気に入っている魚の煮付けをリクエストした。

 今日はめでたい日なのだから、我儘を言っても許されるだろう。

 悠斗の予想通り、美羽が顔を綻ばせながら頷いた。


「任せて! 今までで一番美味しいものを作るね!」

「これはご褒美が頭を撫でるだけじゃ済まなさそうだな」


 もう美羽の頭を撫でるのが普通になってきている。

 もちろん飽きたりはしないし、美羽も毎回喜んでくれているので何度でもやってあげたい。

 けれど、今日はもっと豪華な事でお礼をしたいのだ。

 ぽつりと言葉を零すと、はしばみ色の瞳が輝いた。


「ほんと!? なら、やって欲しい事があるの!」

「今日は特別だ。大抵の事は許そうかな」

「ふふー。そこまで言われたら悩むなぁ……」


 とろりと顔を蕩けさせ、美羽が妄想に浸る。

 こういう場合はロクな事にならないものの、もう今更だ。

 美羽が喜んでくれるのならと何も言わず、にへらと緩みきった笑みを浮かべる美羽と買い物を続けるのだった。





「さて、それじゃあ悠くんからご褒美をもらおうかな」


 晩飯を終えて自室に戻ると、美羽がベッドの上で意地悪そうに笑んだ。

 間違いなく悠斗の心臓に悪い事が起きるのだろうが、もう覚悟は決めている。

 何を言われても大丈夫だと示す為に、美羽へ笑顔を向けた。


「おう、遠慮なく言ってくれ」

「……分かった。じゃあ、言うよ?」


 美羽が言い辛そうに深呼吸する。美羽のこういう姿を見るのは珍しい。

 かなりハードルの高い要求なのだと実感し、少しだけ決意がぐらついた。

 しかし、これは美羽へのご褒美なのだと思いなおしてジッと待っていれば、覚悟が出来たのか美羽が意を決した表情になる。


「ぎゅー、して欲しいな」

「……えっと、それだけか?」


 正直なところ拍子抜けだったので、確認の為に尋ねた。

 手を繋いだり頭を撫でるのは、未だに緊張こそしている事もあれど、出来るようになっている。

 それに、美羽を抱き締めた事もあるのだ。今更畏まって言う程の事とは思えない。

 だが美羽からすれば大事のようで、人形のように整った顔立ちに必死さが宿る。


「重要な事だよ! 悠くんを抱き締めるのは最近したけど、逆は殆どなかったもん!」

「ああ、そういう事か」


 美羽の言う通り、悠斗を支える為に美羽が抱き締めてくれる事は多かった。

 けれども、悠斗が美羽を抱き締めたのは一ヶ月以上前だった気がする。

 そう考えると、確かに今日の頑張りに相応しいのかもしれない。

 あまりにも可愛いらしいおねだりに笑みつつ、ゆっくりとベッドに上がる。

 端正な顔にほんのりと緊張の色を滲ませている美羽の傍に座り、腕を広げた。


「ほら、おいで」

「……っ。お邪魔します!」


 美羽が頬を幸せそうに緩ませ、悠斗の胸に潜り込んでくる。

 折れそうな程に小さな体は、腕の中にすっぽりと納まった。


「お疲れ様だ。俺の我儘を聞いてくれて、本当にありがとな」


 今日のお礼を改めて伝えつつ淡い栗色の髪を撫でると、美羽の体から力が抜けていく。

 すぐに悠斗へ凭れ掛かる形になったが、美羽があまりに軽すぎて全く辛くない。

 少し強めに抱き締めると、ベッドに匂いが移っているせいで嗅ぎ慣れているが、それでも悠斗の心臓の鼓動を早める甘い匂いが強くなった。

 どうやら美羽も強めに抱き締められるのが気に入ったようで、安心したような吐息が口から洩れる。


「……今日頑張ったのは悠くんなのに、ごめんね」


 悲しみの混じった声から察するに、悠斗を励ましたい気持ちもあったようだ。

 それでも甘えたい気持ちが勝ったので、こうしておねだりしたらしい。

 どんな状況でも悠斗を気遣う美羽に苦笑し、絹糸のような髪を梳くように撫でる。


「ぶっちゃけそんなに辛くなかったよ。拍子抜け過ぎて、美羽に悪いと思ったくらいだ」


 直前までは美羽に慰められる程に不安だったが、いざ一緒に行動すると過去はあっさり振り切れた。

 悠斗にとっては大切な事だったものの、付き合わせた美羽は苛立ちを覚えていたので申し訳ないと思ったほどだ。

 なのでまだまだ悠斗は元気だし、美羽をこうして支えられるのは本当に嬉しい。

 気に病まないでくれと小さな背中をゆっくりと撫でれば、美羽の体が僅かに震えた。


「ふふ、悠くんは強くなったねぇ」

「そうでもないさ。俺が頑張れたのは美羽のお陰だ。だから、今はゆっくり癒されてくれ」


 美羽が居なければ、悠斗は間違いなく今も過去を引き摺ったままだった。

 恩人である想い人へあやすように撫でる事で感謝を示すと、美羽が悠斗の胸に頬ずりする。


「……最初はね、むかついたの。どうしていちいち文句を言ってくるんだろうって」


 ぽつりと呟かれた声には怒りなどこもっておらず、諦観が込められているように思えた。

 背中を軽く叩いて続きを促すと、美羽がとつとつと語り出す。


「気になって尋ねると、私とは考え方が全然違う人だって分かった。……何を言っても届かない人なんだなって思ったの」


 どうやら美羽達は下着店で踏み込んだ話をしたらしい。

 しかし同性である美羽ですらさじを投げたのだから、茉莉の考えは余程のものだったのだろう。

 その時の事を思い出したのか、美羽の大きな溜息が胸に当たった。


「だから、もう割り込んで来るなってちゃんと伝えたんだけど、それでも関わってくるから無視しちゃった。……みっともなくて、ごめんね」


 きちんと自分の意思を伝えたにも関わらず首を突っ込んで来られたら、誰だって怒る。

 それに、悠斗とてひたすらに非難してくる人を擁護するほど、善良な人間ではない。

 気に病まないで欲しいと、ゆっくりと撫で続ける。


「もういいんだ。歩み寄ろうとしてくれて、頑張ってくれて、ありがとな」

「……うん。でも、話して良かったって思う事もあったよ」

「良かった事?」


 今回の件は悠斗には収穫があったが、美羽に収穫があったとは思えない。

 全く分からず首を傾げると、美羽が悠斗の胸から顔を離す。

 幼げではあるが整った顔立ちは、恐ろしいくらいに真剣だ。


「私は、ああいう人にはならない。悠くんの傍に居る人としても、一人の人間としても、絶対に。それを悠くんに誓うよ」

「それなら安心だ」


 分かりきっていた事だが、美羽は茉莉のようにはならない。

 それを真っ直ぐに宣言されて、悠斗の胸に歓喜が沸き上がる。

 頬を緩め、美羽を再び抱き寄せた。


「あと少し、待っていてくれ」

「うん」


 もう悠斗の心に引っ掛かりはない。後は、この気持ちを態度で示すだけだ。

 一週間と少し先の事を思いつつ、美羽を撫で続けるのだった。

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