第128話 ご褒美のお返し

「……ん」


 さわさわと頭を撫でる優しい手つきに、ゆっくりと意識が浮上する。

 目を開けると、慈しむような笑みを浮かべている美羽が悠斗を見下ろしていた。


「おはよう、悠くん」

「おはよう。どのくらい寝てた?」

「一時間くらいかな。まだまだ焦る時間じゃないよ」


 普段美羽を送る時間に比べたら、確かに早い時間だ。

 それに美羽の手が気持ちよくて、膝から頭を上げる気力が湧かない。

 起きてからも膝に頭を乗せ続ける悠斗を、美羽はずっと撫でてくれている。


「ねえ悠くん。自信は持てた?」


 眠くはないがあまりの気持ちよさに再び目を閉じていると、穏やかな声が聞こえた。

 テストの結果のその先を尋ねてくる声に、今ははっきりと答えられる。


「ああ。最初は底辺だった俺でもここまで来れたんだ。少なくとも、勉強で悩むのは止めたよ」


 悠斗の成績では美羽や蓮に遠く及ばない。五十二位という順位がゴールではない。

 それでも、何も出来ないと顔を俯けていた悠斗にとっては確かな進歩だ。

 心の中にあるもやが僅かに晴れ、清々しい気持ちで答えると、美羽が嬉しそうに顔を綻ばせた。


「なら良かった。でも、覚えていてね。悠くんの価値は勉強が出来なくても落ちないよ。もちろん、運動が出来なくてもね」

「……ああ、そうだな」


 昔の悠斗なら、美羽の言葉を受け取る事など出来なかっただろう。

 けれど確かな結果を残した今なら、ある程度は受け止める事が出来た。

 ただ、全てを飲み込むにはまだ足りない事がある。


「だから、あと一つ。いや、二つだけ。美羽に迷惑を掛けるよ」

「分かってるよ。それに二つじゃなくて、何度でも迷惑を掛けてね」


 最近全く会っていないが、目的の人物は隣の家に居るのだ。その気になれば会う事が出来る。

 そしてホワイトデーの前にイベントもないので、後は過去を振り払うだけだ。

 もっと頼れという言葉が嬉しく、悠斗の頬が弧を描く。


「ありがとう。……そんな美羽にはお礼をしないと、なっ!」


 このままでは美羽の膝に溺れそうだったので、勢いをつけて体を起こした。

 膝から悠斗が居なくなった事で、美羽が名残惜しそうに顔を曇らせる。


「もっと撫でてたいのに……」

「また今度な。今日は終わりだ」

「今度やっていいのは嬉しいけど、けちー」

「代わりに次は美羽の番だから。ほら、おいで」


 むすっと唇を尖らせる美羽に苦笑しつつ、今度は悠斗が膝を叩く。

 美羽の表情が一瞬だけ華やいだが、すぐにきょとんとした顔になった。


「膝枕されるような事なんてしてないよ?」

「迷惑掛けてるお礼とか今回も八位を取ったご褒美とか、いろいろ理由はあるけど、俺が美羽にやりたいんだ」


 理由をでっち上げるのなら、いくらでも出来る。

 しかし、これから美羽には一番面白くない事をさせるのだ。

 今回くらいは心に正直になってもいいだろう。

 気恥ずかしくとも真っ直ぐに告げると、美羽が甘く蕩けた笑顔を浮かべた。


「なら、遠慮はしないよ。お邪魔します」


 先程膝枕をする側だった美羽が、おそるおそる悠斗の膝へと頭を乗せる。

 淡い栗色の髪がベッドに広がる光景はよく見ているはずなのに、間近で見ると一段と綺麗だ。

 緊張からか少しだけ強張っている美羽の頬に触れ、ゆっくりと撫でる。


「何度触っても思うけど、美羽の頬はすべすべだな」

「悠くんに気に入ってもらえて良かったぁ」


 先程の緊張などすぐに消え失せ、美羽がとろりと蕩けた笑顔を浮かべた。

 髪のケアをしているのは当然だとして、この感じだと肌のケアもしているのだろう。

 大抵は風呂上がりにするはずだが、以前の旅行や悠斗の家に泊まった際には見なかった。


(多分洗面所でやってたんだろうけど、見られたくないんだろうな)


 悠斗にケアをしている姿を見せなかったのは、おそらく女性としてのプライドのはずだ。

 勝手に想像しただけで本当のところは分からないが、何であれ美羽が望まないのなら見るつもりはない。

 何度も撫でていると美羽の緊張が解れたので、次へ進もうと栗色の髪からちらりと見える耳へと手を伸ばす。


「ひゃあっ! な、何するの!?」


 悠斗が耳に触れた瞬間、美羽が素っ頓狂な声を出してびくりと体を跳ねさせた。

 過敏な反応に悠斗もつられて驚いてしまい、美羽の耳から手を離す。


「いや、美羽が耳かきしてくれたから、俺もしようかと思って」


 手を繋ぐどころか、頬を撫でたり添い寝すらした事があるのだ。

 耳を触るだけで非難の声を上げられるとは思わなかった。

 そんなに変な提案かと首を傾げれば、美羽がぐっと喉に何かを詰まらせたような仕草をする。


「それは、そうだけど……。くすぐったいから、だめ」

「……そうか。分かった」


 悠斗は触られても気持ち良さしか感じなかったが、美羽は違うのだろう。

 頬を染めてほんのりと睨まれてしまえば、やりたいとは言えない。

 残念ではあるが納得すると、美羽は眉を寄せて何か悩んだ素振りを見せた後、仕方ないなあという風な笑みを零した。


「……やっぱり、やっていいよ」

「嫌なんじゃないのか?」


 美羽のされたくない事はしたくない。決して意見を押し付けるつもりはないのだ。

 けれど、美羽は美しい顔に苦笑を浮かべる。


「本当に駄目だったら言うから、それまでは大丈夫だよ」

「は、はぁ……。そう言うなら、遠慮なく」


 悠斗の言葉を聞かずに美羽が横向きになったので、よく分からないが触れていいようだ。

 先程の反応からすると、いきなり耳かきするのは危険過ぎる。

 まずは触れられる感触に慣れさせるべきだと、ハッキリと見えるようになった白く小さな耳へと手を伸ばした。

 外側なら大丈夫だと思ったのだが――


「ひうっ!?」


 それでも美羽は過敏に反応し、びくびくと体を震えさせる。

 耳まで真っ赤にするだけでなく、ぎゅっと目をつむって刺激に耐える姿にぞくぞくとしたものが這い上がってきた。

 悪戯したくなってしまったが、これは美羽の善意でやっている事なのだ。美羽が必死に耐えているのを忘れてはならない。


「ん……。ぅ……。ぁ……」


 出来るだけ優しく触っていると、くすぐったさが限界に来たのか美羽が口を抑えた。

 しかし声は漏れ出ており、手で遮られているせいで妙な艶めかしさを感じる。


(これ、ただ耳を触ってるだけだよな?)


 あまりにも美羽の反応が色っぽくて、何だか別の事をしている気分になってきた。

 心臓が鼓動を早め、悠斗の頬へと熱を送りだす。

 とはいえ外側に触れるだけでは進まないので、覚悟を決めて耳の穴に触れる。


「んぅー! ぅー!」


 美羽が目を見開き、くぐもった声を上げた。

 普段であれば澄んでいる瞳は涙に濡れており、少し触れただけとはいえ、流石にやりすぎだと分かる。

 最初は悪戯したくなったが、ここまでくると申し訳なさが凄まじい。

 これ以上は無理だと判断して、耳から手を離した。


「……ごめん、美羽。ここで終わりにしよう」

「ふぇ……? ゆ、くん……。おわ、ったの?」


 必死に耐えていたせいで何が何だか分からなかったのか、美羽が息も絶え絶えに尋ねてくる。

 普通なら苦しそうだと思ったはずだが、部屋着のだぼっとした服と合わせて、誘っているように見えてしまった。

 ここで手を出すのはいくらなんでも有り得ないと、必死に笑顔を作る。


「ああ、お疲れさまだ」

「よかったぁ……。くすぐったくて限界だったよぉ」


 美羽がホッと大きく息を吐き出しつつ体の力を抜くので、相当我慢していたのだろう。

 美羽の為にも、悠斗の為にも、悠斗が美羽の耳に触れる機会はない方がいい。


「俺が耳かきをするのは止めとくか。そこまでくすぐったいと辛いだろ?」

「そうさせてもらおうかなぁ。他の人に触られるのがこんなにくすぐったいとは思わなかったよ」

「そういう体質なんだろうな。無理させてごめんな?」

「嫌じゃなかったから大丈夫だよ。気にしないで」

「分かったよ」


 本当のところは耳かきすら出来ていないのだが、世の中には知らない方が良い事もある。

 耳かきをするだけなのにドッと疲れた気がして、美羽にバレないように細く長く息を吐き出すのだった。

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