第122話 想像もしていなかった立場
「浮つき過ぎだろ」
二月十四日、いわゆるバレンタインデーの朝。悠斗は教室内を満たすそわそわとした空気に愚痴を零した。
今日は蓮だけでなく、球技大会から話し始めた友人も居る。
「男としては大事な日だからなぁ。そういう芦原は滅茶苦茶嫌そうだな」
「クラスの女子とは多少話すくらいしか関わりがないんだ。それ以外の人からもだけど、いきなりチョコレートをもらう訳がないだろうが」
多少話した程度でクラスの女子に好かれているとは思っていないし、一目惚れなど更にあり得ない。
だからこそ望みがないのだと態度で示しているが、本当は別の事に顔を
その原因を、少し離れた男子生徒達が先程から話していた。
「今日は東雲さんの好きな人が分かるかもしれないな」
「付き合ってないって話だから、今日告白する可能性は高いよなぁ」
「駄目だとは思うけど、その場を見てみたいぜ」
男子だけでなく女子も美羽について同じような会話をしているので、余程興味があるのだろう。
不誠実な話もしているが、実際に行動しないと信じたい。
そもそも、美羽とてこんな状況になるのは分かっていたはずだ。
いつ渡されるのかを聞いてはいないが、わざわざ学校に持って来るとは思えない。
家で渡せばいいだけなので、周囲が期待しているような事は起きないのだ。
(俺が言える事じゃないけど、ほっといてくれよ……)
悠斗が未だに前へ進めないから、こうして美羽が見せ物のようになっている事は十分に理解している。
それでも、こうして詮索されるのは良い気分ではない。
唇を尖らせる悠斗の内心を正確に読み取ったのか、蓮が一瞬だけ苦い笑みを浮かべた。
しかし、すぐにからかうようなにやにやとした笑みになる。
「俺だけもらって悪いなぁ」
「そうか、元宮はいるんだっけ。俺は見てないけど、文化祭の時に来たんだよな?」
「おう。綾香は美人で可愛いぞー?」
おそらく、蓮はワザと話題を変えてくれたのだろう。
目線だけで感謝すると、小さく首を振られた。
バレンタインデーに彼女自慢をされるのは堪えるのか、元チームメイトが顔を顰(しか)める。
「やめてくれ。そういうのは俺と芦原に効くんだよ……」
「俺はこの空気が嫌なだけで、ダメージはないぞ。蓮が綾香さんを自慢するのはいつもの事だからな」
「この裏切り者が!」
学校で美羽と話せない代わりに、こういうくだらない会話で気を紛らわせられるのは有難い。
女子の混ざらない会話をしつつ、バレンタインデーの朝が過ぎていくのだった。
「はぁ……」
大きな溜息を落とし、目的の場所へと重い足を動かす。
バレンタインとはいえ、学校は特に何事もなく終わるはずだった。
だが、いつの間にか悠斗の靴箱に一つの手紙が入っていたのだ。
こんな日にこんな物を見せられては、可愛らしい字で手紙に記されていた場所へ行くしかなくなる。
「いっそ悪戯であってくれ」
恨みを買った覚えはないが、悠斗をからかうだけの悪戯なら今回ばかりは許せる。
それよりも、この手紙が本物だった方が問題だ。
もちろん美羽との約束を破るつもりはないので、結末は決まっている。
だからこそ、あまりにも気が進まずに全く足が進んでいない。
何とか足を引き摺(ず)って人気のない校舎裏へ行くと、一人の女子生徒が佇んでいた。
「……手紙をくれたのは君か?」
「う、うん! 私は1-Cの
確認を取ると、女子生徒――紬は緊張しているのがありありと分かる顔に笑みを浮かばせる。
肩まである黒髪に整った顔。目を引くような分かりやすい容姿ではないものの、守ってあげたくなる可愛さを持っている人だ。
誰かを騙したりする人とは思えないが、もしかすると罰ゲーム等で悠斗と会うのを強要された可能性がある。
念の為にジッと様子を窺うと、紬は気まずそうに眉を下げつつ、おずおずと悠斗を見上げた。
「え、えっと……」
「……すまん。俺は芦原悠斗。よろしくな、椎葉」
「よろしく、芦原くん!」
流石に疑い過ぎだと反省し、自己紹介を済ませる。
名前を呼んだだけなのに、紬は嬉しそうに顔を綻ばせた。
喜びがこれでもかと溢れた笑顔を見てしまい、悠斗の胸が鋭い痛みに襲われる。
平静を取り繕い、出来るだけ穏やかな表情を心掛けた。
「それで、俺を呼んだ理由は?」
長く話せば、それだけ紬へと情が移ってしまう。
すぐに終わらせるべきだと本題に移ると、紬は頬を朱に染めて居心地悪そうに体を揺らした。
「その、あの……」
不安に駆られた姿は、他の人からすれば背中を押したくなる程に可愛らしいのだろう。
しかし、悠斗の心は今までにない程に冷え切っている。
感情を殺してひたすらに待っていると、覚悟を決めたのか強い意志が込められた瞳が真っ直ぐに悠斗を見つめた。
「これ、受け取ってください!」
紬が後ろ手に隠していた小さな箱を悠斗へと差し出す。
赤い包装で綺麗にラッピングされたそれは、明らかに市販の物ではない。
本命であろうチョコレートが現れた事で、悠斗の予想は完全なものとなった。
朝方に初対面の人からチョコレートなどもらえないと言っていた自分自身を殴りたくなる。
(俺が、誰かに好かれてたのか……)
一度も話した事のない人が悠斗を見てくれた。それだけでなく、好意を抱いてくれたのだ。
今までの悠斗であったら、この場で大声を出してしまう程に喜んでいただろう。
誰でもない、悠斗という存在が認められたのだから。
実際のところ、嬉しさは確かにある。それでも、悠斗の心に沸き上がるのは申し訳なさだ。
拳を強く握り締め、奥歯を噛んで覚悟を決める。
「それは、受け取れない」
「……どうして?」
断る側の人間が迷っては駄目だと、表情を消してはっきりと断った。
即答されるとは思っていなかったようで、紬が大きな目を見開いて驚きを露わにする。
「ここで初めて話したから? 初対面の人のこんな物は嫌だった? なら、まずは話だけでも――」
「違う。例え初対面でも、作ってくれるだけで嬉しいよ。でも、受け取れないんだ」
手作りのチョコレートを作るのがどれだけ大変なのか、悠斗には分からない。
けれど、こうして想いと一緒に悠斗へと渡す行為が、とても勇気の要る事だというのは分かる。
未だに美羽へ想いを伝えれない悠斗からすれば、尊敬に値する程だ。
嘘偽りのない言葉を口にすると、紬が泣きそうに顔を歪ませた。
「どうして!?」
「好きな人が、いるんだ。後ろ向きで、逃げてばっかりの俺を支えてくれる、とても大切な人が。その人に想いを伝える為に、それは受け取れない」
美羽からお願いされたから受け取れない、というのもある。
それよりも、ここで受け取ってしまえば悠斗は美羽に想いを伝える資格を失ってしまうような気がした。
だからこそ、悲しまれるとしても、紬の気持ちを受け取ってはいけない。
僅かな希望すら折るように告げると、紬が顔を俯けた。
「……芦原くんを見たのは、秋の球技大会だったの。かっこよかった。最後の最後まで絶対に諦めない姿が、本当に、かっこよかったの」
「俺を見てくれて、ありがとう」
「それから芦原くんを偶に見るようになって、普段は物静かな人なんだなって分かった。でもお昼とかに友達と話してる時には楽しそうに笑ってて、素敵だった」
「……そんな所まで見ていてくれたんだな」
ぽつぽつと呟かれた言葉には、悠斗の事を真摯に想う気持ちが込められている。
美羽以外にも悠斗を見てくれた人がいたのだと改めて分かり、悠斗の胸が暖かくなった。
もしかすると、何かが違えば紬と付き合う未来があったのかもしれない。
しかし、もう悠斗は見つけたのだ。傍に居たいと、隣に立ちたいと思う人を。
悠斗を支え、待ってくれている美羽の為に。そして何より、この勇気ある少女へと最大の誠意を返したい。
すぐに表情を引き締め、深く頭を下げる。
「本当に、ありがとう。でも、やっぱりそれは受け取れない。……椎葉とは付き合えない」
「……っ。そう、だよ、ね」
ふらりと紬の体が揺れ、チョコレートを持つ手から力が抜けた。
紬の声は震えており、もうすぐ感情が決壊してしまうだろう。
その時の姿を見てはいけないと、華奢な体を支えたい欲望を抑えて
「それじゃあ、行くよ」
「う……。ん……」
もう悠斗には紬に言葉を掛ける資格がない。
小さな頷きを確認し、しっかりと足に力を入れて校舎裏を立ち去る。
「……っ。……っ」
後ろから聞えてきた小さな
しかし、これは悠斗の受けるべき痛みなのだ。この痛みから逃げる事だけは絶対にしてはいけない。
自転車置き場まで来たが何もする気が起きず、壁に寄り掛かってひたすらに胸の痛みを感じる。
「俺は、しっかり出来ただろうか……」
謝罪をしては紬に失礼だと思い、一度も謝らなかった。笑顔を向けては期待させてしまうと思い、一度も笑わなかった。
本当にあれでよかったのかという疑問がぐるぐると渦を巻き、悠斗へとまとわりつく。
それに告白を振る側ではあったが、決して気持ちの良いものではなかった。
本来の告白は、あれほど苦しむ可能性があるのだ。悠斗がどれだけ恵まれているかを思い知る。
「みんな凄すぎだろ。かっこいいなぁ」
振られるかもしれないという恐怖を持ちつつも、想いを言葉にした哲也と紬は溜息が出る程に尊敬出来る人達だ。
だかこそ、美羽へ想いを伝えられていない情けなさが改めて圧し掛かってくる。
「焦っても駄目だけど、いい加減どうやって伝えるか決めないとな……」
美羽は悠斗の納得のいく形で言葉にして欲しいと言ってくれたが、未だにどうすればいいか思いついていない。
痛む胸をそのままに、冷えた自転車置き場で悩み続ける悠斗だった。
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