第119話 焦りと間違い

「買い物をお願いしてごめんね」


 美羽が帰ってきて早々に、申し訳なさそうな顔をしつつ頭を下げる。

 美しい顔には疲労が色濃く出ているので、相当大変だったらしい。


「美羽のせいじゃないんだから、謝らないでくれ。偶には俺も買い物に行かないとな」


 悠斗は哲也との会話が早々に終わったため、普段とそう変わらない時間に帰る事が出来た。

 しかし美羽はクラスの女子に引き留められてしまい、悠斗よりも遅い帰りになったのだ。

 結果として買い物をお願いされる形になったが、悠斗としては気持ちを切り替えたかったので喜んで行かせてもらった。

 とはいえ買い物やランニングを終えても、胸のもやは晴れないままなのだが。

 美羽も美羽で納得が出来ないのか、顔を曇らせている。


「本当にごめんね。すぐに準備するから――」

「そんなに急がなくていいって。むしろ、ちょっと休憩するか?」


 悠斗の内心がどうであれ、美羽への気遣いを忘れてはならない。

 気負わないようにと笑顔で告げれば、美羽が元気のない笑顔を浮かべた。


「なら、ちょっとだけ休ませてもらおうかな」

「そうしてくれ」


 美羽がのろのろとソファーへ行き、普段の綺麗な所作など忘れたとばかりにどっかりと腰を下ろす。

 気を抜いてくれる嬉しさに小さく笑みつつ、風呂の用意をして美羽の傍に座り込んだ。

 疲れていてもこちらの状況が気になったのか、美羽が心配そうに悠斗を見上げる。


「悠くんの方は大丈夫だった?」

「ああ。特徴は伝えたし、連絡先も交換した。怒られもしなかったよ」


 本来であれば怒られなければならなかったが、哲也が納得しているのだから、悠斗があれこれ言えはしない。

 何事もなく済んだ事を伝えれば、美羽がホッとしたように肩を下ろす。


「なら良かった。本当は私も一緒に居たかったんだけどね……」

「仕方ないさ。……でも、俺達の関係を伝えた。詳細は話さなかったし、人に言いふらす事もないだろうけど、ごめん」


 あの状況では美羽へ確認を取れなかったとはいえ、事後承諾してもらう形になったのだ。

 一言謝っておかなければならないと頭を下げれば、美羽が柔らかい笑みで首を振る。


「大丈夫だよ。もしかしたらそうなるかもって思ってたから」

「そうなのか?」

「うん。覗いていた人だとしても、学校で全く接点のない悠くんを紹介したんだから、覚悟はしてたよ」


 どうやら、美羽には何もかもお見通しだったらしい。

 敵わないなと苦笑すれば、美羽がくいくいと袖を引っ張ってきた。


「だから、そっちの方はいいの。それより、流石に疲れたから甘えていい?」

「もちろんだ」


 美羽が素直に言葉にするのは珍しい。もしかすると、悠斗の想像以上に疲れているのかもしれない。

 断るという選択肢など悠斗の頭にはなく、すぐに許可をすると美羽が肩へと頭を乗せてくる。


「はぁ……」

「随分お疲れだな。そんなにあれこれ聞かれたのか?」

「話す気はないって言ってるのに、少しでも隙を見せたら食いついてくるから、本当に大変だったよ……」


 呆れが混ざった声からは、美羽の苦労が垣間見えた。

 少しでも触れ合う場所を増やしたいのか、美羽がぐりぐりと顔を押し付けてくる。

 感情のままに行動する美羽が可愛らし過ぎて、美羽の居る方とは反対の手を伸ばして頭を撫でた。


「えへへ。落ち着く……」

「少しでも癒しになればいいけどな」

「少しじゃないよ。私にとっては一番なんだから」

「ありがとな」


 自信たっぷりに告げられた言葉に歓喜が沸き上がり、そのお礼として美羽を撫でるのに集中する。


「……嫌だって言ってるのに、どうして私の恋人事情を聞こうとするかなぁ」


 ぽつりと呟かれた言葉には、悲しみや呆れ、そして僅かな怒りがこもっていた。


「今まで誰とも付き合わなかった美羽に、ようやくそういう話が舞い込んできたんだ。どうしても気になるんだろ」

「そうやって周りが騒ぐから話が大きくなるし、悠くんにも迷惑が掛かるのに……」

「ハードルが上がるのは確かだけど、それに関しては俺が意気地なしなだけだ。……本当に、ごめんな」


 結局のところ、悠斗がちゃんと前に踏み出していれば済む話だったのだ。

 覗いた挙句あげく拡散した人や、哲也など様々な要因はあれど、この話の元凶が悠斗なのは間違ない。

 最近謝ってばかりだなと思いつつも謝罪すれば、美羽がふわりと柔らかく笑んだ。


「悠くんのせいなんかじゃないよ。ずっと待つって言ったんだから、焦らないでいいからね」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、美羽に悪いだろ」

「私はね、こうしていられるだけで嬉しいの。その上で悠くんが頑張るって言ってくれたんだから、それだけで十分なんだよ」


 悠斗の負い目を見抜いたのか、美羽がソファから腰を上げ、悠斗の前に立って頭を撫でてくる。

 優しい指使いと穏やかな声色に、いつもなら胸にくすぶる靄が晴れるのだろう。

 けれど、たった一回のデートしかしていないという事実が、哲也という悠斗に出来ない事をやってのけた人が現れた事が、悠斗の背中を無理矢理押す。


「それでも、やっぱり駄目だ。なあ美羽、俺は美羽の事が――」

「悠くん。その先の言葉を言う前に、よく考えて欲しいな」


 普段の幼げで柔らかい声ではなく、僅かに怒りを孕んだ声が悠斗の言葉を遮った。

 悠斗を撫でる手はそのままに、けれど澄んだはしばみ色の瞳は恐ろしい程の真剣さを秘めている。

 これまでとは全く違う美羽の剣幕に当てられて、何も言えなくなった。


「私の事を考える前に、悠くん自身の事を考えて欲しいの」

「俺の事なんて別にいいだろ」

「よくない。悠くんはここでさっきの続きを口にして、それで納得出来るの? 心の底から笑えるの?」

「そんなの、どうだって――」

「お願い、ちゃんと考えて。私は悠くんに笑って欲しいの。それが、私の望みだよ」

「……」


 こちらを真っ直ぐに見下ろす瞳は、悠斗を想う気持ちに溢れている。

 優しくも厳しい美羽の態度と言葉に、悠斗の胸に沸き上がった焦りが急速に冷えていった。


「俺、は……」

「ねえ悠くん。悠くんの望みは何? 私に、どうして欲しい? ちなみに、傍に居るのは確定事項だから無しだよ」


 美羽が先程までの剣幕を引っ込め、穏やかに微笑む。

 本当の望みを先に言われてしまい、次に美羽へ望むものは何かと必死に考える。

 思考は長く続かず、悠斗の望みはあっさりと閃いた。


「美羽が笑ってくれる事だ」


 多くのものは望まない。美羽が隣で笑ってくれたらいい。

 自信を持つ為に頑張ってきたのは、悠斗が外でも美羽の傍に居たいからだ。

 けれどほんの数回の外出の際に必ず喜んでくれたように、美羽がいつでも笑ってくれる事こそが本当の望みなのだ。

 複雑に絡まった感情の奥底にある想いを口にすると、美羽が瞳を可愛らしく細める。


「ほら、私が悠くんに望む事と一緒でしょ? さっきも言ったけど、私は悠くんに笑って欲しい。でもあのまま言葉を続けてたら、悠くんが心から笑えない気がしたの」

「俺が、笑う為に……」

「焦ったからじゃなくて、私に悪いからじゃなくて、悠くんの納得のいく形で私に言葉を伝えて欲しいの」


 状況に流されず、悠斗が胸を張れるやり方をして欲しいと、美羽が微笑を浮かべつつ懇願してきた。

 あのまま続けていたら、例え美羽が受け入れてくれても、悠斗は胸を張れなかっただろう。

 とんでもない間違いをするところだったと今更ながらに理解し、申し訳なさに胸が鋭く痛んだ。


「……分かった。変な事をしようとして、ごめん」

「いいんだよ。そもそも、周りの事なんて放っておけばいいの。誰が何と言おうと、私達には私達のやり方があるんだから」

「そうかもしれないな。ありがとう、美羽」

「こんなの当然だよ」


 これ程までに情けない事をしても、美羽は悠斗を赦してくれる。

 特別な事など何もしてないと言わんばかりの穏やかな微笑に、先程までの焦りや申し訳なさが消え失せ、ようやく胸が軽くなった。

 

「よし! そんな美羽にお礼だ。して欲しい事があったら何でもするぞ!」


 間違った道から悠斗を引き戻してくれた美羽へ感謝を示す為に、今日の疲れを癒してもらおうと気持ちを切り替える。

 笑顔を浮かべて美羽を真っ直ぐに見つめると、可愛らしい顔が華やいだ。


「ホント!? なら、いっぱい撫でて欲しいな!」

「任せろ!」


 先程までの暗い空気を吹き飛ばすように、今度は悠斗が手を伸ばして淡い栗色の髪を掻き回す。


「ひゃー!」


 美羽は悲鳴を上げつつも全く抵抗せず、楽しそうな笑顔を浮かべてされるがままだ。

 ひとしきり美羽の髪を乱した後で、再び綺麗に整えていく。


「……本当にありがとう、美羽。もう大丈夫だから」

「悠くんは気にし過ぎだよ」

「違いない」


 問題は山ほどあるが、この穏やかな空気があればきっと乗り越えられるだろう。

 それはそれとして、悠斗を咎めるような呟きに何も否定出来ず苦笑を返すのだった。

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