第118話 広がる噂
「はぁ……」
「いやぁ、ざわついてるねぇ」
教室内が普段よりも騒がしく、悠斗と蓮が眉をひそめながら周囲を見渡す。
やはりというか、昨日の悪い予想は当たってしまった。
「東雲に好きな人が出来たって言うのはそりゃあ良い話のネタだろうけど、お前からすると穏やかじゃないな」
「それも確かにあるけど、やっぱり広めやがったな……」
あの男子生徒が広めたのか、それとも悠斗達以外にもあの場に人が居たのか、それは分からない。
どちらにせよ、美羽の願いが届かなかったのは確かだ。
何も出来なかったやるせなさに溜息をつけば、蓮が苦笑を浮かべた。
「広めた奴の事を知ってるんだもんな。そっちの意味でも納得出来ないよなぁ」
何かあれば悠斗よりも蓮の方があの男子生徒を特定しやすいだろうと考えて、蓮には既に詳細を伝えてある。
もちろん美羽には昨日のうちに許可を取ってあるし、詳細と言っても蓮には柴田の名前や状況は一切話していない。
しかし、どうやら噂を拡散した人は柴田の名前も広めたしまったようで、悠斗が話す前に蓮も耳にしていた。
人の事は言えないが、覗いた上に拡散するなどあまりに人の心が無さ過ぎて、悠斗の胸に怒りが沸き上がる。
「それもあるけど、柴田や東雲の事を考えてやれよ。他人が茶化すもんじゃないだろうが」
「そこの気遣いが出来るのが凄いというか、お人良しというか……。まあ、悠斗らしいな」
「こんなの普通だろ。極論、今回の件に俺の感情は余計な物なんだからな」
悠斗が美羽を想っている事など、今回の件に関係はない。
もちろん後々になれば関係するが、今は噂を流した人に一言物申したいだけだ。
ただ、それを行う人は悠斗ではないし、その権利もない。
けれど覗いてしまった人として出来る事をしておきたいと、蓮に頭を下げた。
「取り敢えず、どの学年でどんな名前なのかを把握したい。俺の持ってる情報は大した事ないけど、協力してくれるか?」
「もちろん。と言っても顔が利くのはバレー部の人くらいだけどな」
「十分だ、ありがとう」
関係のない事なのに、出来る範囲でとはいえ協力してくれる蓮に再び頭を下げる。
簡単にはいかないだろうし、流れてしまった以上噂を消せはしない。
それでも、蓮が動く事で少しでも事態が好転して欲しいと願うのだった。
「いやぁ、悪いね」
放課後、学校から少し離れたレストランへ美羽に呼び出された。
とはいえ、呼び出した本人はクラスの女子に捕まったらしく、この場にはいない。
代わりに、気まずそうに苦笑する柴田が悠斗の向かいに座っている。
「いや、俺こそすまない。俺はあの場に――」
「まあまあ、まずは自己紹介からしよう。俺は柴田
「あ、あぁ、すまない。芦原悠斗だ。よろしく」
取り敢えず謝罪しなければと話を切り出してしまったが、柴田――名前は哲也と言うらしい――に言われて自己紹介すらしていないと気が付いた。
慌てて悠斗も名前を告げれば、哲也が穏やかな笑みを浮かべる。
「にしても、まさかわざわざ名乗り出て来るとは思わなかったよ。隠れていても良かったんじゃないか?」
「正直、話が大きくならないなら黙ってるつもりだった。でも俺だけが犯人を知ってるなら、動かない訳にはいかないだろ」
「本当に正直だね。そういう芦原が噂を流したんじゃないのか?」
くすりと小さく笑みつつ、哲也がじっと悠斗を見つめた。
強い意志の込められた瞳からは、僅かな嘘すらも見逃さないという意思が伝わってくる。
覗いたという罪悪感に苛まれて
「違う。もし俺が流したと分かったら、煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「……」
悠斗の言葉に哲也は何の反応も示さず、ひたすらに悠斗を眺める。
穴が開きそうな程に強い視線を受け止め続けていると、哲也がふっと表情を和らげた。
「分かったよ。でも、芦原がやったとは思ってないから大丈夫だ」
「そんなにあっさり信用していいのか?」
美羽伝いとはいえ、哲也とは会ったばかりだ。ましてや悠斗は覗いていたのだから、そう簡単に信用出来ないのではないか。
しかし、悠斗の心配を吹き飛ばすかのように哲也が明るい笑みを浮かべた。
「もちろん。文句を言われるかもしれないのに、わざわざ名乗り出てきてくれたんだ。今回の件で悪さをしたとは思えないよ」
「……ありがとう。柴田」
理屈で考えるなら確かにそうだが、割り切れる人は多くない。
深く頭を下げると、哲也が苦笑を浮かべた。
「それに、自分の事を疑えと言ってくる人に悪い人はそういないよ」
「同情を誘ってるだけかもしれないけどな」
どのような理由であれ、覗きを行った悠斗は罰せられるべきだ。
決して信用されるような人ではないとアピールすれば、哲也がからからと笑う。
「その時は俺の見る目がなかっただけだ」
「随分あっさりしてるな」
「余裕がないだけだよ。昨日振られて、一日後には拡散されてたんだからね」
「……そうだよな」
この件で一番辛いのは哲也なのだ。おそらく、内心では相当に傷付いているのだろう。
どんな言葉を掛ければいいか分からずに沈黙していると、哲也が「ところで」と空気を変えるように声を発した。
「芦原は東雲とどういう繋がりなんだ? 覗いた人だって紹介されたけど、偶々なのか?」
「偶々なのは本当だ。まあ、結局覗いたから言い訳にもならないけど。それで、俺と東雲は……」
哲也が美羽を想っていたのなら、学校で悠斗が美羽と関わりを持っていない事くらい分かる。
それを美羽も分かっているからこそ、哲也へと覗いた人と説明したようだ。
しかし、悠斗が先に美羽へ謝罪した事で悠斗達の関係が気になったらしい。
どうやって説明すればいいか分からず、言葉に詰まってしまう。
そんな悠斗の態度から何かを察したのか、哲也の顔に悲しみと苦しみが混ざった複雑な笑みが浮かんだ。
「もしかして、学校以外で東雲と深い知り合いなのか? それも、他の人とは明らかに違うくらいに」
「……」
「出来れば、正直に答えて欲しい。俺への気遣いとか、そんなのはいいから芦原の気持ちが知りたいんだ」
恐ろしく真剣な声が悠斗の耳に届く。
変な事を言えば哲也を更に傷付けてしまうかもという気持ちすら、完璧に把握されてしまった。
申し訳なくて逃げ出したくなるが、ここで逃げてしまえば美羽の隣に居られない。
「っ!」
パンと勢いよく頬を叩き、気合を入れなおす。
これが学校での最初の一歩だと、真っ直ぐに哲也を見つめた。
「東雲――いや、美羽とは学校外でよく話してる。それと俺も、柴田と同じ気持ちを美羽に持ってるんだ。ただ、俺に自信がなくて、まだ学校では隣に居られてない。……美羽には申し訳ないけど、待ってもらってる」
「……」
哲也からすれば、これ以上ない追い打ちのはずだ。
しかし学校で接点のない美羽と悠斗の関係を話すには、そして哲也の気持ちに応えるには、ここまで話さなければならないと思った。
様々な情報が一度に押し寄せて来たからか、哲也が目を見開いて硬直する。
その顔が、少しずつ泣きそうに歪んでいった。
「そっか、なるほどな……」
哲也が顔を
ぐっと唇を噛み、テーブルの上の両拳を強く握り込むのが見えた。
「……すまん。ちょっと、キツい」
「……だよな」
悠斗のせいでこうなったのだから、謝罪をしようかと思った。
けれど、その姿に悠斗が声を掛けては駄目だと、何かが悠斗の口を固める。
それでも怒鳴られるかもしれないと覚悟して待っていると、哲也が大きく息を吐き出した。
「すぐには気持ちの整理が出来ないから、取り敢えず逃げ出した人の顔とかを教えてくれ」
「分かった。逃げ出したのは――」
怒らないのかと尋ねようとしたが、哲也はそれを望んでいないような気がする。
すぐに逃げ出した人の特徴を伝えると、痛みを押し殺したような顔で哲也が頷いた。
「俺も探してみるけど、最終的には芦原に確認してもらう事になる。連絡先を交換しないか?」
「そうだな。……因みに、特定したらどうするんだ?」
怒鳴るのか、注意するのか。悠斗にはその選択を見守るしかない。
とはいえ気にはなったので連絡先を交換しつつ尋ねると、哲也が瞳に怒りを灯した。
「今のところはどうしようもないから放っておく。でも、次はない」
「……そうか。改めて、覗いてすまない」
話があれこれと飛んで正式に謝れなかったので、テーブルに手と頭を付けて謝罪する。
許しを得るまで顔を下げていると、「顔を上げてくれ」と短い声が聞こえた。
ゆっくりと哲也の顔が視界に入ってくると、何とも言えない苦笑をしている。
「芦原の立場なら気になるだろうから、仕方ないな。多分、逆の立場だったら俺もしてただろうし」
「でも、俺は――」
「いいんだ。人の恋路に割り込んだ男が、ただ振られただけの話なんだから。今は、そう納得させてくれ」
悠斗の声を遮り、哲也が作ったような笑みを浮かべた。
内心では悠斗を怒っているだろうに、それでも冷静な態度を作る哲也を心の底から尊敬する。
悠斗が逆の立場なら、間違いなく怒鳴っていただろうから。
「……分かった」
「俺はこれで帰るから、飲み物代は置いておくよ。それと、今日の話は誰にも言うつもりはないから安心してくれ」
話が纏まり、哲也が席を立つ。整理のついていない心で、好きな人が想っている男と食事など出来ないのだろう。
その行動を止める権利などないし、一緒に食事をしても気まずいはずだと無理矢理笑みを浮かべて哲也を見上げた。
「本当に、ありがとう。それじゃあな」
「芦原から聞いた人と一致する人が居たら教えるよ。またな」
目を細めて挨拶をし、哲也が店を出て行く。
後ろ姿が見えなくなってから、大きく息を吐き出した。
「全然、嬉しくないな……」
悠斗が詳細を伝えた事で、哲也にはチャンスがない事を改めて理解してもらったはずだ。
ライバルが一人居なくなって嬉しいはずなのに、悠斗の心は言葉に出来ない黒い靄(もや)で満たされている。
情けなさや申し訳なさでぐちゃぐちゃな心のまま、頼んだにも関わらず口を付けていなかったドリンクを口に含む。
「……はぁ」
少しも美味しくないドリンクを喉に流し込み、溜息をつくのだった。
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