第98話 芦原家の一員

「ありがとう、美羽ちゃん」


 初詣も終わり、着物から普段着に着替えて夜ご飯の準備をしていると、結子が頭を下げてきた。

 悠斗は一足先に風呂に入っており、この場には美羽と結子、そして正臣しかいない。


「えっと、どうしたんですか?」


 夜ご飯の準備は既に話がついているので、今更かしこまって言う必要はないはずだ。

 何に感謝をされたのかと首を傾げれば、結子が柔らかく目を細める。


「悠斗の雰囲気が昔より明るくなってるのよ。美羽ちゃんのお陰だわ」

「そうだね。十一月に帰ってきた時もだけど、何よりも昔とは見違えるくらいに明るくなったよ」


 美羽としては特別な事をしたつもりはない。大切な人である悠斗を支えたかっただけだ。

 それでも悠斗を一番知っている結子達が言うのなら、間違いはないのだろう。

 嬉しさに美羽の頬が笑みを形作る。


「なら良かったです。……中学校の頃の悠くん、きっと大変だったでしょうから」

「もしかして、悠斗から聞いたのかい?」

「はい。バレーの事、篠崎さんの事。多分、全部話してくれたと思います」


 まだ隠している事があるかもしれないが、それでも構わない。悠斗の傍に居るという決意は少しも揺らがないのだから。

 大きく頷くと、正臣の顔がくしゃりと歪んだ。

 普段は穏やかなその顔には、悔しさと申し訳なさが溢れている。

 

「……そうか。なら、やはりありがとうだね」

「私がそうしたいと思っただけですよ。悠くんには、笑顔でいて欲しいですから」


 困った顔や慌てた顔も可愛らしいが、やはり悠斗には笑顔でいて欲しい。

 もう悠斗は十分苦しんだのだ。なぜ今も茉莉や中学校の同級生に責められなければならないのか。


(あんなの、許せないよ)


 今日の初詣もそうだったが、どうしてあんなにも悠斗に辛く当たるのか不思議でならない。

 そもそも好意を抱いている人が暴言を受けて、黙っていられる程優しくはないつもりだ。

 その結果今までにないくらいの怒りが沸き上がり、絡んできた男子にキツく当たったが後悔はない。


「……運動が出来ない人がバレーを続けるのがなぜ駄目なんでしょうか。幼馴染に好意を向け続けていた事が悪なんでしょうか。私には、そう思えません」

「そう言ってくれるだけで有難いよ。でも、その原因の一端は私達にもあるんだ。……本当に、悠斗には苦労を掛けてばかりだ」


 悔しさに顔を俯けながら言葉を零すと、正臣の沈んだ声が聞こえてきた。

 どういう事かと顔を上げると、結子も悲しそうに眉を下げている。

 美羽から見て、正臣や結子は理想の親と言ってもいい。なのに、悠斗の今を作った原因があるようだ。

 

「……聞いてもいいですか?」


 申し訳ないと思いつつも告げれば、正臣が顔を歪めて口を開く。


「ああ。私達は子供のいざこざに大人が割り込んではいけないと、過剰な教育は駄目だと考えて、悠斗には好きにさせていたんだ」

「もちろんご飯は作っていたし、一緒に遊んだり、出掛けてもいたわ。でも、学校の事には深入りしなかったの」

「だからなのか、悠斗はしっかり者に育ってくれた。……その結果、あんな事が起きてしまったんだけどね」

「篠崎さんの事、ですよね?」


 ある意味では放任主義に近いのだろう。自分の事を自分で考えなければいけない環境に置かれた事で、今の悠斗の優しい性格が作られたようだ。

 けれど、茉莉の件を自分で解決させるという教育方針が裏目に出てしまった。

 確認の為に尋ねれば、正臣が沈痛な面持ちで頷く。


「バレーを続けたいのなら止めはしない。幼馴染に好意を伝える為に頑張るならと応援もしていた。だからこそ、私も結子も深入りしなかったんだよ。……しかし、そのせいで悠斗は心に傷を負った」


 正臣達は突き放したりせず、辛くても頑張る息子を見守っていた。

 けれど、茉莉の目には悠斗が少しも映っていなかった。

 当時を思い出したのか、結子が大きな溜息を零す。


「あの日、悠斗は部屋に帰って塞ぎこんだわ。私達に理由を告げずにね。振られたにしては変だったから気にしてはいたけど、数日後には出てきてくれた」

「今回も自分で乗り越えようと思ったんだろうね。そして、その日に学校から帰ってきて――ついに悠斗に限界が来た」


 正臣が拳を強く握った。固く握りしめられた拳は震え、今にも泣きそうなくらいに顔が歪む。


「学校から帰ってきて泣きながら何もかもを口にした後、悠斗は『でも幼馴染に振られる話なんて、よくある事だ』と言ったよ。確かにそうかもしれない。しかし、そうやって納得させるような教育をした私達こそが悪なのではないか。そうも思ったんだよ」

「そんな事はありません! 正臣さんと結子さんのせいじゃないです!」


 少なくとも、正臣と結子が気に病む必要などどこにもない。

 声を張り上げて否定すると、正臣が力なく首を振った。


「……その後、悠斗が急に高校を変える事に賛成し、出来る限りの応援をした。けれど、合格が決まってから私が単身赴任になった」

「悠斗は正臣さんに付いていく事を勧めてくれたの。……もしかすると、こんな息子には構わないでいいと思ったのかもしれないわね」

「……否定は出来ませんね」


 悠斗の自信の無さはかなり根が深い。

 当時はもっと心が荒んでいただろうから、そのような考えをしていた可能性は十分考えられる。

 同意を示すのが申し出なくて苦笑しつつ応えると、結子の顔が苦しみに彩られた。


「悩んだけど、行く事にしたの。多分、私が居ても解決にはならないと思って。一人になって、少しでも癒されて欲しいと思って」

「東雲さんが来てくれたから、ある意味では正解だったかもしれないがね。でも、だからこそ、私達は一人息子の心を癒す事すら出来ない親なのさ」


 正臣ががっくりと項垂れる。悠斗に似た穏やかな顔は、憔悴しているように見えた。

 確かにそう思うのは無理ない。けれど、少しだけだが美羽は悠斗の想いを知っている。

 悲観しないで欲しいと、必死に言葉を紡ぐ。


「大丈夫ですよ。悠くんが言ってました『自慢の親だ』って」

「……そうか、ならいいんだ」


 正臣の握った拳が解かれ、ようやくその顔に笑顔が浮かんだ。


「でも悠斗を変えた一番は東雲さんだ。あの子の事を受け入れてくれて、ありがとう」

「当然の事をしたまでですよ。悠くんはこれからもずっと側に居たい人ですから」

「あらあら、そこまで来たの? これは楽しみだわぁ」


 目尻に涙を浮かべた結子がころころと笑う。

 明確な言葉にはしなかったが、美羽の想いは伝わったはずだ。しかし、結子だけでなく正臣も柔和な表情をしている。


「こういう事は今言うべきではないかもしれないが、これからも悠斗をお願い出来るかな? もちろん無理にとは言わないし、どのような形でも構わない。出来る事なら、悠斗の傍に居て欲しいと思うがね」

「任せてください。悠くんが嫌だって言っても傍に行くつもりですから」


 もう悠斗と過ごすのが美羽の当たり前の生活になっている。

 今更離れるつもりはないし、本気で嫌がられない限りは近付いていくつもりだ。

 この先どうなっても、例え先に進めなくとも、それでも悠斗の傍に居たい。

 大きく頷くと、正臣の大きな手が美羽の頭に触れた。

 どこか悠斗を思わせる優しい手つきが、やはり悠斗の父なのだなと思わせる。


「本当に、悠斗は良い子を見つけたね」

「これからも悠斗をよろしくね、美羽ちゃん」

「はい!」


 こんなにも温かな人達に頼られたのだ。一段とやる気が沸き上がってくる。

 すぐ正臣が手を離すと、ちょうどリビングの扉が開いた。


「……三人共キッチンで何してるんだ?」


 風呂上がりの濡れた髪のまま、悠斗が訝し気に美羽達を見つめる。

 夜ご飯の用意をしている美羽と結子だけでなく正臣もいるのだから、変に思うのも無理はない。


「世間話だよ。私達が居ない間、悠斗がどんな生活をしてるか聞いてたんだ」

「げ。変な事言ってないよな、美羽?」


 柔らかな微笑を浮かべて正臣がリビングへと戻っていく。

 悠斗が露骨に嫌そうな顔で尋ねてくると、悪戯心が沸き上がってきた。


「大丈夫だよ。クリスマスにデートに連れていってくれた事を少し話しただけだから」


 本当は何一つ伝えていないのだが、悠斗の顔に焦りが浮かぶ。

 同時に、結子の瞳が輝いた気がした。


「おい! 全然大丈夫じゃないだろうが!」

「さあ美羽ちゃん、お話の続きをしましょうか」

「はい」

「やめろ! 無視するなー!」

「はいはい、悠斗はこっちだよ」


 正臣が悠斗を遮り、通せんぼする。

 この優し過ぎる家族の一員になれた気がして、嬉しさが込み上げてくるのだった。

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