第92話 年越し

 風呂を終えてからは特にやる事もなく、丈一郎や美羽とのんびりとしていた。

 そしてあと数分で一年が終わるという所で、年越しそばを食べている美羽がぽつりと呟く。


「もう年が明けるねぇ……」

「なんかあっという間だったな」


 高校生活というよりかは十月に入ってからだが、たった三ヶ月で悠斗の生活は大きく変化した。

 それこそ一瞬で過ぎたと思うくらいに充実していたと、自信を持って言える。

 美羽も同じ気持ちのようで、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。


「だねぇ。それに、こんな幸せな生活が出来るとは思わなかったよ。ありがとう、悠くん」

「俺の方こそ、本当にありがとう、美羽」


 美羽が悠斗を赦してくれた今だからこそ思うが、辛かった中学校の三年間は悠斗に必要なものだった。

 もちろん、この三ヶ月も掛け替えのないものだ。

 様々な思いを込めて感謝の気持ちを口にすれば、くすりと軽く笑われる。


「ふふ、なら良かった。来年もよろしくね」

「こちらこそ、来年もよろしくな」

「……儂は仲間外れか?」


 これからの挨拶をすると、丈一郎の不満そうな声が聞こえてきた。

 あまりにも穏やかな空気過ぎて普段と同じように接してしまったが、丈一郎の目の前だ。

 じっとりとした目に射抜かれ、すぐに頭を下げる。


「そんな事はありません。来年もよろしくお願いしますね」

「ふん。取って付けたような言い方をしおって」

「いや、その……」


 決してそんな事はないのだが、美羽を優先した手前、強くは言い返せない。

 引きった笑みで乾いた声を発すると、美羽が微笑ましそうに丈一郎を見た。


「もう、いじわるしちゃだめだよ。来年もよろしくね、おじいちゃん」

「意地悪などしておらん。来年もよろしくな。美羽」

「うん!」


 丈一郎がすぐに表情を和らげて美羽に挨拶した。

 出会った当初の印象とは違う、少し表情は硬いが孫思いな祖父に小さく苦笑する。

 悠斗に対してそこまで怒っていなかったのか、丈一郎が穏やかな表情で悠斗を見つめた。


「悠斗も、来年もよろしくな」

「……はい、よろしくお願いします」


 信頼のこもった声を掛けられて、悠斗の胸に歓喜が湧き上がる。

 こうして丈一郎と和やかな会話が出来るようになったのは、球技大会で頑張ったからだ。

 些細ではあるが、決して悠斗の行動は無駄ではなかったのだと改めて実感する。

 震える声で丈一郎へ挨拶すれば、テレビの中の人がカウントダウンを開始した。


「……」


 誰もが無言でカウントがゼロになるのを見守る。

 他人の家で年を越す事に今更ながら変だと笑むと、日付が変わった。


「「「あけましておめでとうございます」」」


 三人ともが同時に挨拶を行い、一緒に笑い合う。

 ひとしきり笑った後、丈一郎が立ち上がった。


「年も明けた。儂は寝るから、食器はキッチンに運んでおけ」

「あ、私が洗っておくよ」

「頼んだ。それじゃあおやすみ」

「おやすみなさい、おじいちゃん」

「おやすみなさい、丈一郎さん」


 あれよあれよという間に丈一郎がリビングを出て行く。

 元々早寝と聞いていたので、今日はかなり夜更かししていたのだろう。

 真っ直ぐと伸びた背中に声を掛けると、丈一郎がくるりと振り返った。


「悠斗。はしゃぐのはいいが、大声を出すなよ? 羽目を外すのは程々にな」

「いや、何言ってるんですか!? 大声なんて出しませんよ!」


 丈一郎の言葉の意味が分かってしまい、声を張り上げる。

 美羽そっくりの悪戯っぽい目をした丈一郎は悠斗の言葉に何も言わず、笑みだけを残して去っていった。

 心臓に悪過ぎる言葉にドッと疲れが襲ってきて、大きく肩を落とす。


「あの人は何を考えてるんだか……」

「悠くんが泊まってくれるのは嬉しいけど、あんまりはしゃぎ過ぎると怒られちゃうね」

「……そうだな」


 分かっているのかいないのか、美羽はご機嫌な笑みだ。

 いっその事分からないで欲しいと願いながら同意すると、美羽も立ち上がった。


「じゃあ年越しそばの片付けをしちゃうね」

「手伝うよ」

「お願いしようかな」


 キッチンを使う事は出来ないが、リビングの掃除くらいは出来る。

 そうして美羽と片付けを終え、歯磨き等の寝る準備も完了すると、美羽が悠斗の服の裾を摘んだ。


「ねえ、私の部屋に来ない?」

「……そうさせてもらおうかな」


 深夜に女性の部屋に行くのは駄目だという気持ちはあった。

 けれど美羽の部屋を見たいという欲望は抑えきれず、はしゃぎそうになるのを必死に抑えて頷く。

 上機嫌に唇をたわませた美羽の後ろをついていくと、リビングから少し離れた部屋に着いた。


「ここが私の部屋だよ。何もない所だけど入って入って」

「お邪魔します」


 想い人の自室に入るという事実だけで、悠斗の心臓が早鐘のように鼓動する。

 ほんの少しだけ声が上ずってしまい、緊張し過ぎだろうと自分自身に呆れた。

 ぎこちない動きの手足を前に出して部屋に入ると、美羽の匂いが強まる。


(これはキツイな……)


 ミルクのような甘い匂いは普段は落ち着くはずなのに、今は悠斗の心臓をこれでもかと虐めてきた。

 美羽が無防備なパジャマ姿だというのも大きいだろう。

 更に、先程までは丈一郎が居たが、今は美羽と二人きりだ。

 緊張で上手く動かない首を振って周囲を見渡すと、心臓の鼓動が少しだけ収まった。


「何か、殺風景だな」


 美羽自身が女性らしいので部屋も女の子っぽいものだと想像していたが、想像以上に何もない。

 もちろん勉強机や本棚等はあるものの、そこには参考書が詰まっている。

 唯一の女の子っぽい物といえば、ベッドの枕元にあるぬいぐるみだろうか。

 あまりにも質素な部屋に思わず呟いたが、失言だったと思いなおす。


「ごめん、変な事を言ったな」


 今までの美羽の生活からすると、このような部屋になって当然だ。

 それに、美羽も部屋に物があまりないと言っていた気がする。

 配慮が足りなかったと深く頭を下げれば、美羽が苦笑気味に頬を緩めた。


「私もそう思ってるから、気にしないで」

「……でも」

「いいから。ほら座って?」


 あまりの申し訳なさに顔を俯けると、美羽がベッドに上がり、すぐ横を叩く。

 悠斗が気遣わなければいけない立場なのに、美羽に気遣わせてしまった。

 どうするべきかと迷ったものの、ここで悠斗が気に病んでも空気が悪くなるだけだ。

 美羽に甘えさせてもらい、ふかふかのベッドに腰を下ろす。


「ぬいぐるみ、大切にしてくれてるんだな」


 枕元のぬいぐるみは、悠斗がプレゼントした時と殆ど変わらない姿だ。

 以前言っていたが、本当に大切にしてくれているのだと分かる。

 プレゼントを贈った側として、これほど嬉しいことはない。

 頬を緩めながら呟くと、美羽がぬいぐるみを抱き寄せた。


「そうだよ。手入れもしてるし、いつもこうして一緒に寝てるの」


 にへらと溶けるように眉尻を下げて幸せそうに笑む美羽からは、喜びがこれでもかと伝わってくる。

 ぬいぐるみを抱きしめる姿はあまりにも可愛らしいし、一緒に寝る姿もさぞかし魅力的だろう。

 美羽をでたくなってしまい、淡い栗色の髪へと手を伸ばす。


「ふふ、気持ち良い……」


 美羽が抵抗することなく悠斗の手を受け入れ、幸せそうに目を細めた。

 それどころか、もっと撫でて欲しいとばかりに悠斗へと体を近付ける。

 美羽特有の匂いが濃くなり、心臓の鼓動が早くなっていく。


「ねー悠くん。もっとなーでて?」

「はいはい。分かったよ」


 とろりと蕩けた笑顔でお願いされたら、誰だって頷いてしまうはずだ。

 激しく鼓動する心臓を必死に押さえつけ、さらさらの髪の感触を堪能する。

 美羽も美羽で喉を鳴らし、目を閉じて悠斗の手の感触を楽しんでいるようだ。


「……ん」

「は?」


 暫く撫で続けていると、突然美羽が悠斗へともたれ掛かってきた。

 小さな頭は驚きに固まる悠斗の体をずるずると滑り、膝へと着地する。


「み、美羽?」


 あまりにも唐突な行動で頭が真っ白になってしまったが、既に日付は変わっているのだ。眠くなるのは仕方ない。

 とはいえここで寝られては困ると、糸が途切れたかのようにくたりとする美羽へと声を掛けた。

 何度か呼びかけると、長い睫毛の隙間から焦点の合っていない瞳が悠斗を見上げる。


「……」

「あ、ちょ、おい!」


 悠斗の頑張りも虚しく、美羽が返事をせずに瞳を閉じた。

 すぐに気持ちよさそうな寝息を立て始める。


「どうすんだよ、これ……」


 動くに動けず、途方に暮れた声を上げる悠斗だった。

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