第91話 祖父と孫と恩人と
「美羽を行かせて正解だったな」
「……いや、まあ、そうですね」
東雲家へと上がると、早速丈一郎からの呆れたような声を掛けられた。
久しぶりに見た丈一郎の顔は以前よりも険が取れている気がする。それでも、悠斗のせいでじっとりとした目をしているのだが。
何も言い返せず、引き攣った笑みしか出来ない。
「こういう時くらいは頼れ。一人で正月を過ごす程寂しいものはない」
「いや、お邪魔するのはちょっと……」
丈一郎の提案は嬉しいのだが、流石に申し訳がなさすぎる。
こうして来ている時点で遠慮も何もないとはいえ、気にせずにはいられない。
正直なところ、挨拶をして帰ろうと未だに思っているくらいなのだから。
顔を
「子供は甘えておけばいいのだ。まさか帰ろうとしている訳ではあるまい?」
「いや、高校生なんですが」
「
しわがれた頬が笑みを形作る。
今まで胸につっかえていたものが取れたからか、丈一郎の表情は自然に思えた。
「ありがとう、悠斗。お前がいなければ、儂らはずっとすれ違ったままだった」
「少しでも力になれたのなら良かったです」
美羽に
とはいえ、丈一郎からすれば悠斗の返答は満足のいくものではなかったらしい。仕方ないな、という風に目を細められた。
「だから、これは儂のお礼でもある。一人で過ごすくらいなら泊まりに来い」
穏やかな声には、悠斗を心配する気持ちが込められている。
心からの心配をされて、帰ろうという気持ちが
こういう声色は美羽とそっくりなのだなと小さく笑み、頭を下げる。
「……すみません、お邪魔しますね」
「そうしろ」
もう夕方だからか、丈一郎が晩飯の用意の為にキッチンへと向かっていく。
その後ろを美羽が付いていった。
「手伝うよ、おじいちゃん」
「おお、じゃあ頼む。儂らの恩人におもてなしをせんとな」
「うん!」
普段から似たような会話をしているのだろう。美羽と丈一郎の会話にはぎこちなさなど欠片もない。
仲の良い二人の会話に嬉しさが沸き上がってきて、頬が緩んだ。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
定番のおせちは悠斗が来る事を前提としていたのか、かなりの量だった。
雑煮もほっとする味であり、こんな贅沢な年越しを迎えていいのかと思った程だ。
腹をさする悠斗を、頬を緩めた丈一郎が見つめる。
「なら良い。年が明ける時には年越しそばもあるからな」
「何から何まですみません」
今でも十分に満足しているのだが、まだ後が控えているらしい。
あまりのおもてなしに頭を下げると、丈一郎が小さく首を振った。
「気にするな。さあ悠斗、風呂に入ってこい」
「いや、でも……」
悠斗など最後の残り湯で構わない。一番風呂は丈一郎や美羽に譲るべきだろう。
断ろうとするが、丈一郎と美羽が不機嫌そうな表情になった。
「儂らが入るより、客人を風呂に入れるのが先だ」
「そうだよ。悠くんだって泊まった時に私を先に入れたんだから、遠慮しないで」
「……じゃあ、遠慮なく」
二人から説得されては断る事が出来ない。
優し過ぎる二人だなと苦笑して風呂場に向かい、美羽から説明を受けて風呂に入る。
適切な湯加減の風呂を堪能して上がると、美羽がドライヤーを持って待っていた。
「こっちこっち、座って座って?」
「え゛……。いや、止めておくよ」
リビングには丈一郎も居るのだ。そんな場所で髪を乾かしてもらうなど、羞恥で死にたくなってしまう。
そもそも悠斗と美羽がこんな事をしているのは、丈一郎が許さないのではないだろうか。
ちらりと丈一郎の様子を窺うと、悠斗の予想通り仏頂面をしていた。
「美羽がやってやると言っているのだ。それをお前は断るつもりか?」
「そっち!?」
どうやら、丈一郎は美羽の提案を断った悠斗に怒っているらしい。
普通は自分でやれと言いそうなのだが、まさか美羽の行動を肯定するとは思わなかった。
あまりの驚きに素っ頓狂な声を出してしまう。
そんな悠斗に意地悪な笑みを向け、丈一郎が立ち上がった。
「儂が入っているうちに、美羽は悠斗の髪を乾かしてやれ」
「はーい。さあ悠くん、大人しくしてくれるよね?」
「……分かったよ」
突然の包囲網にがっくりと肩を落とし、美羽の前に座って背を向ける。
気恥ずかしくて口をもごもごさせる悠斗に丈一郎が笑みを落とし、風呂へと向かっていくのだった。
風呂から上がった丈一郎は自分で髪を乾かすらしく、悠斗と同じくそれほど時間を掛けなかった。
今は美羽が風呂に入っているので、丈一郎と二人きりだ。踏み込んだ会話も出来る。
「あの、普通俺を怒るところじゃないですかね?」
孫に近付く悪い虫など、簡単に許せるものではない。
疑問に思って尋ねれば、丈一郎がふんと鼻を鳴らした。
「怒る理由などない。儂は美羽の味方なのだからな」
「味方……」
恩人だから泊まらせるというのならまだ分かる。けれど、それだけで先程の様なやりとりを許可はしないはずだ。
その理由として思い当たるものは、悠斗の中で一つしかない。
(多分、美羽は俺の事を……)
クリスマスの際に美羽の態度を疑問に思い、けれど万が一があっては嫌だと現状維持を選んだ。
しかしここまで来ると、もはや勘違いなどではない。
そうでなければ、最近の美羽の過剰な接触と先程の丈一郎の言葉に説明がつかないのだから。
美羽の想いが分かった事で悠斗の胸に歓喜が湧き上がるが、すぐにその気持ちが
(俺が美羽の心を繋ぎ止められるのか?)
幼馴染だった人すら離れていったのだ。美羽は悠斗の過去を知っても「側にいる」と言ってくれたが、絶対に離れないという確証はない。
何か一つでも取り柄があるのなら良かったが、残念ながら悠斗には何もない。強いて功績を挙げるのなら、丈一郎と美羽の仲を改善した事くらいだろうか。
しかしそれだけでこれからも美羽に想われ続けるなど、そんな事は絶対に有り得ない。
そう思うと、どうしても先へと足を踏み出せなくなる。
「……こんな俺でも、いいんですか?」
美羽から多少話を聞いているのなら、未だに悠斗と美羽が付き合っていないのは丈一郎にも分かっているはずだ。
なのに、ああして美羽に髪を手入れされるという、友人では有り得ない行動をしている。
そんな情けない悠斗に大切な孫娘が想いを寄せているのを許せるのかと問うと、丈一郎が真っ直ぐに悠斗を見つめた。
「悠斗には悠斗の事情があるのだ。儂が口を挟む事ではない」
「……すみません」
本来であれば、丈一郎に怒られても仕方ない状況だ。
なのに低く穏やかな声で許されて、嬉しさや申し訳なさで心がぐちゃぐちゃになる。
顔を
ごつごつとしたものが頭に触れ、ゆっくりと撫でてくる。
顔を上げると、丈一郎がしわがれた頬を緩ませていた。
「気負う必要はない。焦らなくてもよい。儂があえて言うなら、美羽の事を想ってやって欲しい」
「それは、約束します」
美羽が悠斗の世話を焼いてくれる事を当たり前だと思った事はない。そして雑に扱うつもりもない。
前へと足を踏み出せないだけで、美羽を想っている事は確かなのだ。
それを誠実ではないと言われてしまうと言い返せないのだが、これが今の悠斗に出来る精一杯だ。
はっきりと答えると、丈一郎の瞳が満足そうに細まった。
「ならいい」
「……ありがとうございます」
最後にくしゃりと髪を撫で、丈一郎の手が離れる。
その瞬間、風呂から上がった美羽がリビングへと入ってきた。
「ねー、悠くん。髪を乾かしてくれない?」
無邪気に笑む美羽に心臓が強く跳ねる。
おそらく、この提案を受け入れても丈一郎は怒らないはずだ。
念の為に丈一郎へと視線を向けると、小さく頷かれた。
「分かった。ほら、座ってくれ」
「ありがとう!」
しっとりと湿った髪に触れ、ドライヤーで乾かしていく。
真剣に手入れする悠斗を、丈一郎はずっと笑顔で見ていた。
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