第84話 風呂上がり

「やっぱり、家の人が先に入るべきだよ」


 晩飯を終えると、次は風呂だ。普段であれば美羽が料理中に入っているが、今日はまだ入っていない。

 順番にこだわりはないので先に入ってくれと言っても、美羽は案の定納得してくれなかった。

 随分前にも行ったやりとりだなと苦笑する。


「今日の美羽はお客様なんだ。今回ばかりは譲らないぞ」

「むー」

「頬を膨らませても駄目だ。押し込まれるか、準備してから行くか、どっちがいい?」

「どっちもやだ」

「美羽?」


 ぷくっと頬を膨らませて嫌だとアピールされたが、絶対に引くつもりはない。

 憮然ぶぜんとした態度でジッと見つめると、美羽が思いきりむくれた顔をしつつも風呂上がりの用意をしだした。

 悠斗が見ては駄目な物があるので、くるりと背を向ける。


「……強引なんだから」

「人の事は言えないだろ。行ってこい」

「はぁい」


 不満をこれでもかと込めた返事をして、美羽が風呂場へ向かった。

 リビングの扉が閉まる直前に見た顔はムスッとしていたので、やはり納得してはいないのだろう。

 こういう所で譲ろうとするのは変わらないなと苦笑しつつ、ソファに腰を下ろす。

 スマホを弄りながら時間を潰していると、扉の開く音がした。


「ありがとー、悠くん」


 どうやら風呂に入る前のやりとりは水に流したらしい。美羽がさっぱりとした笑みでリビングへと入ってくる。

 これまで何度か美羽が風呂を使う事はあったので、風呂上がりの姿には動揺しないつもりだった。

 そんな悠斗の覚悟はあっさりと打ち砕かれる。


(……可愛いな)


 感想を口に出さない事が精一杯だった。

 模様の入った薄いピンク色のパジャマは美羽にとても似合っており、あまりの可愛らしさに抱きしめたくなる。

 一応、結子のパジャマを着ている姿は見ていたのだ。

 しかし美羽自身のパジャマだからか、それとも悠斗が恋心を自覚したからなのかは分からないが、破壊力が違い過ぎる。

 なぜか湿った髪のままでいるのも、より美羽を魅力的に見せているのだろう。


「おーい。ゆうくーん?」


 普段着とは違う無防備な姿に見惚れていたら、気付けば美羽が目の前でひらひらと手を振っていた。

 悠斗と同じ物を使ったはずなのだが、美羽の体から花のような何とも言えない甘い匂いが香る。

 女性を意識させるような匂いに、悠斗の心臓が騒ぎ立てた。


「あ、え、何だ?」

「何だじゃないよぅ。急に固まっちゃったから、私の方が聞きたいかな」

「……何でもない」


 美羽のパジャマ姿が可愛かったからとはとても言えず、ぷいとそっぽを向く。

 悠斗の態度に美羽が首を傾げたが、気にはしなかったようで、手に持っているものを差し出してきた。


「ねえ悠くん。髪を乾かしてくれない?」

「いや、何で俺なんだよ。自分で出来るだろ」


 今まで美羽が悠斗の家の風呂を使う際は、洗面所で乾かしてから出てきていたはずだ。

 悠斗が手伝う理由などないと聞き返せば、悪戯っぽい笑みが返された。


「悠くんにやって欲しいなって。駄目?」


 柔らかく笑みながら小首を傾げる仕草は反則だ。それに、はしばみ色の瞳の中には、期待と僅かな不安が見え隠れしているように思う。

 こんなおねだりなどされてしまえば、悠斗が断る事など出来はしない。

 狡い人だと渋面を作って、ドライヤーを受け取る。


「……いいけど、髪の手入れなんてやった事がないんだ。期待するなよ?」

「大丈夫だよ。適当でいいからね」

「いいや、美羽の髪は綺麗なんだ。適当になんて出来ないって」


 美羽が上機嫌そうに唇をたわませながら悠斗を励ますが、少しも心が軽くはならない。

 腰まである淡い栗色の髪には傷みなどなく、毎日艶がかっているのだ。

 かなりの手間が掛かっているのは間違いない。

 本当に悠斗が触っていいのかと躊躇ためらっていると、目の前の少女がもじもじと居心地悪そうにしているのに気が付いた。


「どうした?」

「……髪を褒めてくれたの、初めてだから」


 淡く紅色に色づいた頬と、にへらと緩みきった表情からは、嬉しさがこれでもかと溢れている。

 パジャマ姿の感想とは違い、話の流れでつい口に出してしまった。

 とはいえ、悠斗の短い褒め言葉ですらこんなにも喜んでくれたのだから、後悔はない。

 ただ、美羽の立場であれば感想など言われ慣れているはずだ。


「学校で一緒にいる人とか、誰も褒めてくれなかったのか?」

「褒めてくれるよ。腰まで伸ばしてる人なんてそうそういないからね。……じゃなくて、悠くんが褒めてくれたのが嬉しかったの!」

「……そうか」


 明らかな特別扱いをされて、歓喜の感情が悠斗の胸をくすぐる。

 しかしはしゃぐ訳にもいかず、簡素な返事になってしまった。

 会話が途切れて何ともいえない空気になるが、美羽の髪を乾かさなければと思い、ソファから立ち上がる。

 美羽の後ろに回り込もうとすると、小さな手が悠斗の袖をきゅっと掴んだ。


「ねえ、もう一回褒めて欲しいな」

「そろそろ乾かさないと髪が傷むんじゃないか?」


 詳しくは知らないが、自然乾燥は髪を傷めると聞いた気がする。

 悠斗は自分の髪質などどうでもいいので、放ったままだが。

 もう一度褒めるのが気恥ずかしくて話題を逸らそうとすれば、ぐいぐいと袖を引っ張られた。


「大丈夫だから、もう一回!」

「……長いのに艶があって綺麗だし、たまにいい匂いするし、正直触りたかった」


 妙に必死な姿に溜息をつき、どうにでもなれと心の内を隠さず言葉にした。

 これで満足したのなら悠斗が羞恥に耐えたかいがあると、熱くなった頬を掻きながら美羽の様子をうかがう。

 すると美羽が両手で頬を抑えつつ、ぺたりと座り込んで顔を伏せた。


「~~っ!」


 声にならない声を出しながら、そわそわと落ち着きなく美羽が体を揺らす。

 髪の隙間から見える耳は真っ赤に染まっているので、少なくとも嫌がってはいないはずだ。

 ただ、美羽が立ち直るまで待っていては本当に髪を傷めてしまう。

 追い討ちを掛けるようで申し訳ないが、意を決して大きく息を吸い込んだ。


「じゃあ、始めるぞ?」

「…………ん」


 もぞりと美羽が頭を動かす。頷いたのかもしれないが、僅かに動いただけなので良く分からない。

 しかし、じっと身動きせずに固まっているので始めていいのだろう。

 頭を下げているせいで背中から髪を乾かせず、美羽の横に座った。

 ドライヤーに電源を入れて、腰から肩にかけての髪を纏めつつ風を当てる。

 少しずつ湿気が取れていくと、美羽の髪質が良いのが改めて実感出来た。


(引っ掛かりとかないし、さらさらだし、俺とは全然違うな……)


 ここまで長いのなら、指に絡まってもおかしくはない。

 そう思ったのだが、艶のある髪はするすると指の隙間を通り抜けていく。

 また絹糸のような髪は触り心地が良く、いつまでも触っていられそうだ。


「うぅ……」


 髪の感触を堪能しつつ、けれど真剣に乾かしていると、ある程度落ち着いたのか美羽がゆっくりと体を起こす。

 それでも頬を抑えながら時折むにむにと頬を引っ張っているので、動揺は収まっていないらしい。

 これで本格的に乾かせると、美羽の後ろに回り込む。


(背中小さいなぁ……。腰も細いし、折れそうだ)

 

 三ヶ月にもなるくらい一緒に過ごしておきながら、じっくりと美羽の後ろ姿を見た事などなかった。

 小柄な背中や細い腰は、美羽がどれだけ華奢きゃしゃなのかを改めて突き付けてくる。

 こんな姿で悠斗の溜め込んでいた気持ちを受け止めたのだから、本当に頼りになる女性だ。


「ひゃっ」


 黙々と髪を乾かして首元まで来ると、普段はほぼ見えない真っ白なうなじが見えるようになる。

 その場所に目が引き寄せられて集中力が乱れてしまい、悠斗の指が美羽のうなじを掠めた。

 ぴくりと美羽が震えたので、くすぐったいのかもしれない。


「悪い、気を付ける」

「首に触れちゃうのは普通だし、気にしないで」

「さんきゅ」


 今は見惚れている場合ではないと、乾かすのに再び集中する。

 時折首に触れてしまうと美羽が僅かに震えるので、意地悪しているような気分になりながら、ようやく頭まで来た。

 髪を整えるのは後ですればいいと思い、わしゃわしゃと髪を乱しながらドライヤーを掛ける。


「んー、気持ちいいー!」


 どうやら気に入ったようで、ご満悦の声が聞こえてきた。


「ならもっとするか!」

「わー!」


 美羽が喜んでくれるのならと、調子に乗って髪を乱し続ける。

 気が付けば、美しい髪がボサボサになってしまっていた。

 美羽が乱れきった髪で、悠斗の方を僅かに振り向く。


「ゆーくん。もうだいぶ乾いたから、手入れしてくれる?」

「あいよ」


 上目遣いでのおねだりに、とくりと心臓が鼓動した。

 髪を乾かすまでだった気がするが、ここまで来たら手入れも同じだろう。

 ドライヤーを止め、美羽が持ってきたオイル等を使いながら、指示を受けつつ髪を整えていく。


「にしても女子ってこんな手入れを毎日してるのか。……凄いな」


 あまりの大変さに呆けたような声が出た。

 オイルを全体に馴染ませるだけでなく、くしで丁寧に手入れするのは想像以上に時間が掛かる。

 美羽の髪が長いからというのもあるのだろうが、これほど苦労するとは思わなかった。


「ふふ、そうだよ。悠くんにお願いしちゃってごめんね?」

「別にいいさ。自分の髪だったら面倒臭いだけだけど、美羽の髪なら全然苦じゃないし」


 ほんのりと申し訳なさを混ぜた笑みに首を振る。

 これほどの髪を手入れ出来るのだ。金を払ってもいいとすら思う。

 むしろ結構楽しいので弾んだ声を出せば、美羽がもぞりと身じろぎした。


「……ならいいや」


 羞恥に染まった声の中には、確かに喜びが混じっている。

 会話が途切れ、それでも不思議と暖かい空気の中、美羽の髪を手入れし続けるのだった。

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