第83話 クリスマスはまだ終わらない

「ありがとな、美羽」


 悠斗の腹が鳴ったので美羽を離し、一階へと降りている最中に声を掛けた。

 小柄な少女は階段を降りると、くるりと振り返って満面の笑みを見せる。


「お礼なんていいよ。辛かったらいつでもするからね?」

「……ああいうのは程々にな」


 優し過ぎる美羽だからこそ、悠斗に気を許しているからこそ、先程のような接触を許してくれたのだろう。

 美羽に甘えた立場で言えたものではないが、あんな事は止めさせるべきだ。

 そう思って短く注意をしても、美羽の顔から笑顔が消えない。


「ヤだよ。悠くんが辛いのを見てるだけなんて、絶対に嫌だから」

「あのなぁ……。俺だって男なんだから、勘違いするかもしれないんだぞ?」

「ふふ、勘違いって何?」

「何って、それは……」


 幼さを残しつつも女を香らせる美しい笑みに言葉が詰まる。

 眼前の澄んだ瞳には、期待がちらついている気がした。


(……本当に、勘違いなのか?)


 そもそも美羽は普段、人の輪の中心にいるのだ。告白された事もあると聞いているし、男を警戒しないはずがない。

 そんな美羽が過剰な接触をしてくれただけでなく、一緒に居ると言ってくれた。

 悠斗を信用しているのは十分に理解しているが、ここまで懐に入れるだろうか。

 疑問は淡い期待へと変わり、歓喜が胸に沸き上がる。

 けれども、それを確かめる言葉が出て来ない。


(もし確かめて違ってたら、美羽は今の生活を続けてくれるのか?)


 好意を抱いている女性と二人きりで過ごせるのだ。この生活に不満などあるはずがない。

 しかしここで好意を伝えて万が一にも振られてしまえば、間違いなく美羽は悠斗から遠ざかってしまうだろう。

 もう悠斗は美羽と過ごす日常が当たり前になっており、それが無くなると考えただけで寒気がする。

 伝えるべきか、胸の奥にしまい込むべきか。ぐらぐらと思考が揺れ、決断が出来ない。


「……何でもない」


 かぶりを振ってぽつりと呟く。結局、悠斗の口から出たのは現状を維持する言葉だった。

 美羽もこの生活を続けたいと思ってくれているのだ。

 今の距離感を壊す可能性があるのなら、前に進む必要はない。

 そう納得しても、悠斗の心には逃げたという事実が棘となって刺さっている。


(もし美羽が付き合いたいと思ってくれてるなら、俺の行動は不誠実なんじゃないか?)


 正直に気持ちを伝えず、ずるずると引っ張り続けるのが良い事なのだろうか。美羽の気持ちを踏みにじっているのではないか。

 新たな疑問はよどみとなって、悠斗の気持ちを落ち込ませていく。

 伝えた方が良いと考え直しても、今更何を言えばいいかなど分からない。

 結局、悠斗の情けなさは変わらないなと顔をうつむける。

 

(……無理だって。こんな俺が、美羽と付き合うだなんて)


 美羽が赦してくれたお陰で、中学校の事が全て無駄だったとは思わなくなった。

 それでも、未だに悠斗は自分自身を認められない。

 成績は向上したが並程度、運動もバレーが多少出来るだけ。そして容姿も普通な悠斗が、美羽に釣り合うはずもないのだから。

 もちろん、それが全てではない事は理解している。こんな悠斗と一緒に居てくれる事も。


(だから美羽を精一杯気遣う。それを忘れた事なんてない。……でも、それだけで側には居られない)


 好きな人を気遣うのは誰もがやっている。当たり前の優しさだけでは、美羽の隣には立てない。

 ただ、気遣い以外となると悠斗が残した結果は、美羽を救えた事くらいだ。

 もちろんそれは誇らしい事だし、もう何も出来なかったとも思わない。

 だが、付き合えるかどうかと一緒にしては絶対に駄目だ。


(救ったのを理由に付き合ってくれと言ったら、俺はもっと自分を赦せなくなる)


 もしかすると、そうやって付け込んでも美羽は付き合ってくれるかもしれない。

 しかし、その行いは最低最悪の行為だ。例え恋人になれたとしても、悠斗は一生自分を責め続けるだろう。

 ならば、やはり踏み込むべきではない。

 そう改めて判断しても美羽と一緒の生活を続けたいと願うのだから、自らの浅ましさに嫌気が差す。


「そうだ。ねえ悠くん、お願いがあるんだけど」


 ぐっと唇を噛んで胸の中の醜い心と向き合っていると、悠斗が誤魔化した事で冷えた空気を入れ替えるように、美羽が華やかな声を発した。


「お願い?」

「うん。お腹が減ってる悠くんには申し訳ないんだけど、一度家に帰りたいの。送ってくれる?」

「まあ、それはいいんだけど……。にしたって珍しいな」


 日が暮れてから出掛けただけでなく、先程まで悠斗の部屋で身を寄せ合っていたのだ。

 普段であればそろそろ帰る時間なので、家に帰りたいというのもおかしな話ではない。

 しかし美羽の発言からすると、悠斗の家に戻ってくるようだ。

 どうしてそんな事をするのかと首を捻れば、美羽が何かを企むような、にんまりとした笑みを浮かべた。


「着替えとか、泊まる用意をしたいなって」

「……は? 何だって?」


 聞き捨てならない言葉を、有り得ない言葉を聞いた気がする。

 呆けたような声を上げて美羽に問いかけると、美羽は幼い子供に言い聞かせるように人差し指を立てた。


「だから、悠くんの家に泊まるの。そうなると、着替えとかいろいろ必要だよね?」

「いやいや、訳が分からん。どういう考えでそうなったんだよ」


 先程までの会話の中に、美羽が泊まる要素など一つもなかったはずだ。

 途方に暮れたように声を発した悠斗を、にこにこと満面の笑みが見つめる。


「もう夜も遅いし、まだご飯も食べてないでしょ? ここからご飯の準備をして、食べ終わってから悠くんに送ってもらうのは申し訳ないなって思って」

「別に、どんなに遅くなっても送るんだが」


 例え日付が変わろうとも、美羽を家まで送り届けるつもりだ。

 遠慮するなと苦笑を向けるが、美羽が首を振って拒否する。

 美しい顔には申し訳なさよりも、この状況を楽しんでいるようなうっすらとした笑みが浮かんでいた。


「それよりかは、いっそ泊まる準備をしてから一緒にご飯を食べた方がゆっくり出来ると思わない?」

「……まあ、それは分かるけども。でも丈一郎さんには何て説明するんだよ」


 どうやら美羽は意地でも泊まりたいらしい。

 美羽の言い分も一理あるし、想い人が家に泊まるという状況にあこがれを抱かない男はいない。

 せめてもの抵抗として丈一郎の名前を出すが、小悪魔めいた笑みが返された。


「おじいちゃんからはもう許可をもらってるよ。『悠斗の家に泊まるのなら好きにしろ』って言ってた」

「あの人は何を考えてるんだ……」


 大事な孫が男の家に泊まる事など、普通は許可しないはずだ。

 それが顔見知りである悠斗であっても、警戒するものだろう。

 大きく溜息をつけば、くすくすと軽やかな笑い声が耳に届く。


「私は泊まりたいって思ってる。おじいちゃんからも許されてる。さあ、次の言い訳は何?」

「……アリマセン」


 美羽の理論武装に負けを認め、がっくりと項垂れた。

 何がそこまで嬉しいのか、美羽がえらくご機嫌なテンションで悠斗の服の裾を引っ張る。


「なら善は急げだよ! 行こう、悠くん!」

「はいはい。分かりましたよ」


 疲れがドッと押し寄せてきて、思考を止めて美羽の言いなりになる悠斗だった。





 目の前には大きな鍋があり、その中には野菜に肉、シイタケ等の様々な食材がぐつぐつと煮られている。

 美羽を一度送り届けてから再び家に帰ってきて、それから美羽は料理、悠斗は風呂の用意をしている間に随分と時間が経ってしまった。

 こんな時間に晩飯を食べる事など有り得ないが、今日くらいはいいだろう。

 そもそも、いい加減空腹が限界なのだ。こんなに美味しそうな物が目の前にあるにも関わらずおあずけされた日には、理性を失ってしまう。


「「いただきます」」


 小鉢に分ける手間すらもどかしいが、必死に堪えてようやくご馳走にかぶりつく。

 その途端、口の中に優しい味が広がった。

 美羽は水炊きと言っていたが、出汁なのか様々な食材が煮られたからか、しっかりと味がある。

 もはや手を止める事など出来ず、がっつくように箸を動かした。


「ふふ、美味しい?」

「ん! うまい!」

「なら良かった」


 子供のような反応をした悠斗を、嬉しさを滲ませるような微笑を浮かべながら美羽が見つめる。

 大人びた笑顔を向けられて羞恥が沸き上がってくるが、この料理の美味さの前にはどうでもいい。

 ひたすら腹に詰め込むと、ようやく空腹も収まってきた。


「いや、マジで美味い。こんな遅い時間にありがとな」

「悠くんこそ、お風呂の用意をしてくれてありがとね。流石にそこまで手が回らなかったから」

「こういう日くらい任せてくれよ。というか、遅くなったのは俺のせいなんだぞ」

「ううん。私が泊まるって言いだしたからこんなに遅くなったんだよ」


 互いに自分のせいだと言って気遣い合う。

 これまでと全く変わらない普段通りの会話に、なぜか笑いが込みあげてきた。

 美羽もくすくすと喉を鳴らしているので、おそらく悠斗と同じ気持ちなのだろう。


「まあ、なんだ。いろいろと、本当にありがとな、美羽」


 料理や家事だけではない。悠斗の全てを知っても、離れないでいてくれたという事実が胸を温める。

 改めてお礼を伝えるのが気恥ずかしくて、目を逸らしながら告げた。


「それは私もだよ。ありがとう、悠くん」


 甘さを帯びた笑みに、心臓がどくりと跳ねる。

 悠斗の方こそ助けられたのだと口を開こうとすれば、「そういえば」と鈴を転がすような声に遮られた。


「メリークリスマスだね。悠くん」

「確かに言ってなかったな。メリークリスマス」

「ふふ、もう少しで終わっちゃうけどね」

「遅過ぎたな。悪い」


 スーパーへの買い物はあったが、それ以外があまりにも普段通り過ぎて、きちんと言葉にするのを忘れていた。

 もう少しで日付が変わるという、このタイミングで口にした事に呆れる。


「私も同じだから、気にしないで」


 柔らかな微笑に元気付けられたが、ふとミスを自覚して気持ちが沈んでいく。


「そうだ。プレゼントの用意をしてなくてごめんな」


 美羽とのお出掛けに頭が一杯で、そこまで考えがおよばなかった。

 当然ながら、今更気付いてもどうしようもない。

 肝心なところが抜けているなと渋面を向ければ、美羽が瞳を僅かに細めた。


「今日のデートがプレゼントでしょ? もうもらってるよ」

「……それで美羽が納得するなら、別にいいか」


 デートという言葉に、内側から熱が頬に忍び寄ってくる。

 唇を尖らせてそっぽを向くと、美羽がへにゃりと眉を下げた。


「私の方こそ、何も準備してなくてごめんね」

「いや、さっき受け止めてもらったんだ。もう十分もらってるよ」


 どんな物よりも、悠斗の存在を受け止めてくれたという事実が嬉しい。

 プレゼントなどいらないと首を振るが、なぜか美羽が悪戯っぽく目を細めた。


「でも納得出来ないから、後でお礼するね?」

「……お礼ってなんだよ」


 悠斗の心をくすぐる笑みに、背筋がぞくりと震える。

 お礼は嬉しいが大変な予感がしたので聞き返すと、ぱちりとウインクされた。

 そんな魅力的過ぎる態度を美羽が取った事など一度もなく、悠斗の頬が熱くなる。


「ヒミツ。後でのお楽しみ」

「どうせロクな事じゃないんだろうが」


 最近、美羽が何かをする際は、必ず悠斗の精神が虐められている。

 今回もそのたぐいのものだろうと溜息をつけば、美羽がとろみを帯びた笑みになった。


「失礼だなぁ。私がやりたい事をやるだけだよ」

「絶対大変な事になるやつだ……」


 この調子であれば、悠斗が何を言っても止めないだろう。

 せめてゆっくり寝れますようにと願いながら、食事に集中するのだった。

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