第82話 醜い本心

「……美羽?」


 気が付けば、甘いミルクのような匂いに包まれていた。

 それどころか、細く柔らかいものが悠斗の頭を抱き締めてくる。


「自分をそんなに責めないで。悠くんは価値のない人間なんかじゃないよ」


 優しく、温かな声が耳に届いた。


「そんな事ない。俺には、何も……」


 今すぐにでも美羽を突き放すべきだ。こんな過剰な接触は間違っている。

 けれど体はぴくりとも動かず、口からは駄々を捏ねるような声しか出てこない。

 情けなさすぎる態度を取れば、美羽が子供をあやすようにぽんぽんと悠斗の頭を軽く叩いた。


「何度も言ってるでしょう? 私は、悠くんに救われたんだよ。あの公園に逃げ続けた私を、悠くんがおじいちゃんの前に連れて行ってくれたんだよ」

「違う。……違う! あれは美羽が頑張っただけだ! 俺は何もしてない!」


 悠斗は約束すら守れなかった男だ。丈一郎との仲が改善したのは、美羽が自分の意思で踏み出したからだ。

 いくら感謝されようとも、悠斗の力で美羽を救えたとは思えない。

 あまりのみっともなさに流れ続ける涙は止まらず、美羽の服へと吸い込まれていった。


「多分、悠くんは私が何を言っても自分をゆるせないよね。だから、私が悠くんを赦すよ。……今だけ、上から目線のような言葉をするね」

「何……を……?」


 美羽は悠斗の疑問に答えず、抱き締める力を強める。

 押し付けられたせいで、柔らかな膨らみの感触を少しだけ感じ、どくりと心臓が鼓動した。


(……こんな時ですら、美羽の体に反応してしまうのか)


 おそらく、美羽は悠斗をなぐさめようとしてこんな事をしてくれている。

 反応するのは美羽の厚意を侮辱してしまうのに、どうしても美羽の胸元の感触に心臓が落ち着かない。

 正直過ぎる体に呆れていると、美羽はゆっくりと悠斗の頭を撫で始めた。

 いたわるような柔らかな指使いが心地良く、あっさりと涙が止まる。


「バレーをずっと続けるの、頑張ったね。勉強も大変だったと思うけど、結果を出せて偉いよ。本当に、お疲れ様」

「み、う……。おれ、は……」


 悠斗の心を優しく包み込むような声に、反論の言葉が出て来ない。

 どうしようもなく胸が苦しくなり、思わず美羽の体に腕を回して、悠斗からも抱き着く。

 拒否などされず、それどころか慰めるようにくしゃりと頭を撫でられた。


「辛くて、苦しくて。それでも、四月から公園に居た私の様子を見てくれてありがとう。男子に絡まれている私を助けてくれてありがとう。雨の日に私を家に誘ってくれてありがとう。……球技大会、頑張ってくれてありがとう」

「俺は、大したことなんて、してない」

「ううん。悠くんはいっぱい凄い事をしてくれたよ。多分、勉強や運動が出来るだけの人が手を差し伸べてくれても、私は前を向けなかった。でもね――」


 美羽が少しだけ距離を離し、悠斗の頬を掴んで顔を上げさせる。

 涙に濡れた顔を見られるのは恥ずかしかったが、小さな手に抵抗する気は起きなかった。

 久しぶりに見た気がする美羽の顔は、悠斗の全てを許すような慈愛の笑みをしている。


「こうやって心のままに笑っていられるのは、悠くんのお陰なんだよ。それは、悠くんにしか出来ない事だったんだからね」

「俺に、しか……」


 誰の代わりでもない、悠斗だけだという特別扱いに胸が痺れた。

 優しい光を湛えた瞳の中に、呆然としている悠斗が映る。


「中学校だけ見れば、確かに全て無駄になったのかもしれない。でもね、全部私を救ってくれた事に繋がってるの」

「つながってる……?」


 あの時の苦しみが、どこかに繋がっていると言われても理解出来ない。

 眉を下げて問いかければ、美羽が満面の笑みを浮かべた。


「うん。悠くんが頑張って勉強してくれたから一緒の学校に通えた。悠くんがバレーの経験者だから球技大会で私の背中を押す事が出来た。……私に出会う為に、私を救う為に、悠くんは辛い思いをしたんだよ」

「……そう思って、いいのか?」


 普通に考えれば、美羽の言葉は傲慢ごうまんなのだろう。けれど、今の悠斗には救いに思えた。

 絶対の自信を持って告げられた言葉にすがると、ハッとするほど大人びた笑みを返される。


「もちろん。悠斗・・くんの頑張りは無駄じゃなかったよ。例え悠斗くんが受け入れられなくても、私がそう思ってるからね」


 略称ではない名前呼びに、心が強く揺さぶられた。

 熱いものが胸から込みあがってきて視界がぼやけ、再び頬に涙が流れ始める。

 先程よりも勢いの強い涙に戸惑っていると、美羽がもう一度悠斗を胸へと引き込んだ。


「だから溜め込んだ思いとか、悔しさとか、抑えなくていいからね。悠斗くんが受け止めてくれたように、私も受け止めたいの」


 頭を撫でてくれる優しい手つきに、顔を見られなくて良いという安心感に、体の力が抜けていく。

 ささやくような言葉はするりと胸に入り込んでいき、今まで誰にも言わないようにしていた醜い本心を吐き出させる。


「どれだけ頑張っても、篠崎は俺の事を見てくれない。結果も残せない奴がアプローチしたって、そんなの嫌がられるに決まってる」

「だから頑張ったんだもんね」

「そうだ。……なのに! 俺が何も出来ないうちに、あいつらは仲を深めていった! そんなのどうしろって言うんだよ!」

「……どうにも出来ないよねぇ」


 悔しくて、どうしようもなく悔しくて。細い体を思いきり抱きしめた。

 かなり強い力のはずなのに、美羽は嫌がる素振りすら見せない。

 そんな態度が、ますます悠斗の気持ちを表に出していく。


「せめて振られて終わろうと思ってたら、篠崎は俺の事なんてどうでもいいって思ってた! 幼馴染に対して、そんな感情しか持ってなかったのかよ!」

「一番見て欲しい人にそんな風に思われてたら辛いよね」

「期待した俺が、無駄な努力をした俺が馬鹿なのかもしれない! 距離が開いた幼馴染に振られるなんてよくある事だ! でも、それでも! 心の中で見下されてた人をずっと好きだったなんて、そんなのあんまりだろうが!」


 他人からすれば、よくある話で片付けられる事なのだろう。

 興味のない人からすれば、想われ続けるだけでも気持ち悪いのかもしれない。

 頭では理解出来ても、簡単に納得出来はしない。呑み込んで割り切る事など出来ないのだ。


「しかも久々に顔を見ても、何の興味もない目を向けられたんだ! もう嫌なんだよ、親しかった人からそんな目を向けられるのは!」

「私はそんな事しないよ。絶対に、しない」


 美羽が再び体を離し、悠斗と同じ高さで目を合わせた。

 吐息すら聞こえる程に近く、美しいはしばみ色の瞳が、怖いくらい真っ直ぐに悠斗を見つめている。


「悠くんの家に来て、料理を作って、部屋でゆっくり過ごすの、気に入ってるんだよ。特別な事なんて無くていい。この生活が大好きなの」

「根暗で、逆恨みして、気遣いの出来ない俺と一緒でもか?」


 そんな人など一緒に居たくないはずだ。

 今までは分からなかったのかもしれないが、もう悠斗の全てを知っているのだから。

 けれど、美羽は一瞬の迷いもなく頷く。


「うん。悠くんは根暗じゃなくて、物静かな雰囲気なの。それに逆恨みするなら、お母さんを憎んだ私も同じだよ。そんなので離れたりなんかしない」


 全てを赦すような温かい笑みが、悠斗の心を優しく包み込んだ。


「それにね、悠くんは私をたくさん、たくさん気遣ってくれてるよ。むしろ気を遣い過ぎなくらい。……ふふ、私と一緒だね」


 小さな笑い声を零しつつ、美羽が悠斗へと身を寄せる。

 先程までとは違い、今度はお互いの顔が横に来るような体勢になった。


「自信がなくてもいい、自分を赦せなくてもいい。自分の気持ちに従っていいんだよ。そんな悠くんと、私は一緒に居るからね」


 耳元でささやかれた暖かい言葉に、小さな欲望が沸き上がる。

 本当に言ってもいいのかと思考するより早く、悠斗の唇が言葉を紡ぐ。


「じゃあ、今だけ、こうさせてくれ」


 許可を取らずに、華奢な体をぎゅっと抱き寄せた。

 唐突な行動に美羽が体勢を崩し、悠斗の胸にすっぽりと収まる。

 はしばみ色の瞳はぱちぱちとまばたきを繰り返していたが、すぐにへにゃりと細まった。


「いいよ。本当は逆が良かったけど、それはいずれ、かな?」


 逆という事は、美羽が悠斗を抱き締めたかったのだろう。

 悠斗を慰める為とはいえ、相変わらず過剰な接触をする美羽に小さく苦笑する。

 けれど悠斗とてこうして接触しているのだから、美羽の事は言えない。


「……すまん」

「いいって言ってるでしょ? 代わりと言っては何だけど、私が傍に居るって事をしっかり実感するまで抱きしめててね?」

「それじゃあ、遠慮なく」


 許可を正式にもらったので、心のままに美羽を抱きしめる。

 この小さくも愛しい存在を今だけは手放したくないと、腕の力を強めて肩に顔を埋めた。

 ミルクのような匂いに美羽を強く実感し、あれほど心を占めていた醜い感情が和らいでいく。


「……ありがとう、美羽」

「私の方こそ、苦しい思い出を話してくれてありがとう」


 穏やかな気持ちのままに感謝を伝え、目を閉じて腕の中の大切な存在を実感する。


「なあ美羽、もう少しだけ、こうしていていいか?」

「もちろん。悠くんが満足するまで、ずっとしてていいよ」


 悠斗の腹が鳴るまで、二人で身を寄せ合っていたのだった。

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