第81話 「元」幼馴染

 家に帰り着き、リビングではなく悠斗の部屋へと向かう。

 別に自室でなくともいいのだが、美羽曰く「その方がゆっくり話せると思うから」との事だ。

 否定する理由もないので部屋に入り、ベッドのふちもたれ掛かると、温かなものが悠斗の手を握ってきた。


「焦らなくていいから、ゆっくり、ね?」

「……ありがとう」


 悠斗の心に優しく触れるような声に元気付けられ、顔をうつむけながら口を開く。


「俺と篠崎は幼馴染だったんだ。昔――それこそ小学生の低学年くらいまでは、よく一緒に家で遊んでた」


 あの頃は何も考えず、ただ家が隣同士だからと二人で遊ぶ事が多かった。

 少なくとも、悠斗は満ち足りた生活だったと自信を持って言える。

 悠斗の呟きに、美羽の手の力が強まった。


「でも、いつからか遊ばなくなった。だよね?」

「そうだ。……まあ、それ自体は特別な事じゃない。男女を意識し始めて、何となく距離が開いただけだ。よくある事だろ?」

「多分、そうだと思う。私はほら、あれだから」

「……すまん」


 小学生が成長するにつれて、昔のように無邪気に遊べなくなるのは誰だってそうだと思う。

 けれど全く遊べなかった美羽からすれば、いきなり距離が開く事が理解出来ないのかもしれない。

 気まずそうに苦笑する美羽に謝罪すれば、穏やかな表情で首を振られた。


「謝らないで。それで、一度は距離が開いたんだよね?」

「ああ。でも、距離が開いても、話さなくなっても、俺は篠崎の事が好きだったんだ」

「……っ。そうなんだ」


 ぴくりと美羽が震え、何かを抑えるように少し硬い声を発した。

 言うべきではなかったかと後悔したが、美羽の澄んだ瞳と柔らかな微笑が続きをうながす。


「後になって考えれば、一緒に遊んでいたから、一番親しかった異性だからと好意を向けていただけなんだろうな。それでも、昔の俺はその気持ちを疑わなかった」


 幼少期から一緒に居るのだから、これから先もずっと一緒なのだと当然のように思っていた。

 例え多少距離が離れても、何の問題もないはずだと楽観的に考えていた。

 既に、何もかもなくなっていたとは知らずに。


「中学校に上がってから、昔のように距離を縮めようと思ったんだ。そんな時に、篠崎が男子バレーのマネージャーをするって話を聞いた」

「だから、悠くんはバレー部に入ったんだね」

「そうだ。運動が苦手な俺でも何とかなる。篠崎は俺を見てくれる。……そうやって、淡い期待を抱いて部活に入ったんだ」


 運動が苦手なだけで優劣は決まらない。それだけで茉莉は悠斗から離れない。

 そんな確証などないのに、バレー部に入るまでは全く疑わなかった。

 その結果、悠斗は現実を突きつけられたのだ。


「でも、篠崎はもう俺を見てなかった。見てたのは、入学してすぐに話題になった直哉だ。……バレー部のマネージャーをしたのは、直哉に近付く為だったんだよ」


 もちろんマネージャーの仕事はしっかりとこなしていたし、愛想も良かった。

 男子からは相当の人気を誇っていたように思う。

 けれど、悠斗にも笑顔を向けていたからこそ、まだ希望はあると悠斗は勘違いしてしまった。

 愚かな考えだったと小さな笑みを零せば、美羽が顔を曇らせる。


「それを分かっているのに、頑張ったの?」

「ああ。まだ希望はあるって、バレーが出来るようになれば俺の方を向いてくれるって。そんな風に期待して……。本当に、馬鹿だったな」


 毎日時間の許す限り練習した。煙たがられようとも、無駄な努力だと呆れられようとも、必死で練習したのだ。

 昔の悠斗に呆れてがっくりと肩を落とせば、力の抜けた手を美羽が両手で包んでくれた。


「馬鹿なんかじゃないよ。悠くんは、凄いね」

「凄くなんかないさ。篠崎の気持ちが俺に向いていないと知ってても、それでも辞めなかった大馬鹿野郎だよ」


 隣に住んでいる幼馴染が一緒に帰る事はない。それどころか、どんどん直哉と仲を深めていく。

 悠斗にそれを止める権利はない。

 何の結果も出せていない人が駄々をねたところで、誰も振り向く事はないのだから。

 

「直哉と同じ場所に立とうと、レギュラーに入ろうと頑張ったよ。その時に初めて篠崎に想いを伝えられると信じてな」

「……でも、駄目だった」

「そうだ。最後の試合でもレギュラーに入れず、全部の試合が終わって。……いっそ振られて終わろうと篠崎に会いに行ったんだ。そしたらさ――」


 三年生にもなれば、馬鹿な悠斗でも茉莉に振られると理解出来た。だからこそ、せめてもの意地でバレーを続けた。

 応援もサボった事はない。例え一度も試合に出られなくとも、恨み言を言った覚えはない。

 ここで逃げてしまえば茉莉の前には立てないと、痛む胸を抑えて声を張り上げた。

 そして全てが終わり、踏ん切りを付ける為に茉莉に会いに行こうとすると、体育館裏で直哉と茉莉が会話していたのだ。



『バレーお疲れ様。ねえ平原。改めて、付き合ってくれる?』

『引退するまで付き合わないって条件だったからな。むしろ俺からお願いしたいくらいだよ。でもいいのか?』

『いいのかって、何が?』

『俺は詳しく知らないけど、悠斗と知り合いなんだよな? 悠斗には――』

『芦原はただ家が隣なだけだよ。好きだとか、そんな感情はないから』


 一瞬だけ、茉莉の顔が不愉快そうに歪められた。

 おそらく、悠斗が余計な事を言ったと思って苛立ったのだろう。

 別に悠斗は言いふらしてはいないが、いつだったか茉莉とは家が近いとは言った気がする。


『勉強も運動も駄目で顔も普通。それに芦原って昔っから家の中でしか遊ばない根暗なの。でも直哉は違うでしょ? かっこよくて、運動も勉強も出来る。それに私を気遣ってくれる優しさもある」

『……女の子を気遣うのは普通じゃないか?』

『ふふ、やっぱり優しいね。でも、芦原に気遣われた事ってないんだよ。……子供の頃だから仕方ないけど、どうせ今もだろうなぁ』


 確かに子供の頃は男女というものを意識しておらず、茉莉を気遣った記憶はない。

 けれど、幼馴染に全否定されるとは思わなかった。

 鋭い痛みが胸に走り、心臓を抑える。

 ジッと痛みに耐えていると、茉莉がきょとんと首を傾げた。


『というか、芦原は運動が苦手なくせに、何でバレー部に入ったんだろうね?』

『それは――』

『運動が出来ないなら止めておけばいいのに。最後まで続けても結局一度も試合に出なかったんだよ? 何がしたかったんだろ」

『なあ、篠崎――』

『篠崎はやめて。もう恋人なんだから、茉莉って呼んで欲しいな。私も直哉って呼んでいい?』

『……ああ。これからよろしく、茉莉。期待に応えられるように、失望されないように頑張るよ』

『大丈夫だよ。直哉は最高の彼氏だから』


 きっと、悠斗のようにはならないと直哉は意気込みを新たにしたのだろう。

 真剣な表情の直哉に茉莉が甘えるようにすり寄り、直哉の手が茉莉の頭を撫でた。

 茉莉の蕩けて幸せそうな笑顔に目の奥が熱くなり、視界がぼやける。

 頬に流れるものをそのままにして、悠斗は逃げ出した。



「そんな……」


 当時の内容を美羽に伝えると、綺麗すぎる顔が驚愕きょうがくに染まった。


「ほんと、馬鹿だよなぁ……。俺の努力なんて、篠崎の目にはこれっぽっちも映ってなかったんだ。運動と勉強が出来なくて、根暗で、不細工で、女性への気遣いのない無能にしか見えてなかったんだよ」


 くしゃりと前髪を握り潰して項垂うなだれた。じわりと何かが込み上げてきて、声が震える。

 こんな顔を美羽に見せたくはない。


「家に逃げて、部屋に何日か引き籠って泣いた。父さんと母さんに心配されて、ようやく学校に行けるくらいになって登校したらさ……。篠崎は俺の方を一度だけどうでもいいような目で見て、その後はずっと直哉といちゃついてた」


 部活を引退して、悠斗に愛想良くしなくてもよくなったのだろう。

 学校に出た悠斗へと一瞬だけ向けられた茉莉の視線は、道端の石ころを見るような目だった。


「何で、そんな事が出来るの……?」


 自分には理解出来ないと、美羽が力なく首を振るのが横目で見える。

 けれど、決しておかしな事ではないと思う。


「篠崎からすれば、距離が開いた俺はただ隣に住んでる他人なんだろ。……まあ、昔から疎ましいと思ってたかもしれないし、距離が開いた時に篠崎の考え方が変わったのかもしれないけどな」


 付き合う友達が変わり、成長するにしたがって悠斗の評価が下がったのならまだいい。

 一番酷いのは、昔から悠斗を見下しつつも黙っていた場合だ。

 どちらにしろ、確認する勇気が持てない悠斗には知る術がない。


「結局、俺は何の取り柄もなくて、無駄な努力をしただけの人だ。そんな奴、興味ないに決まってるよな」


 茉莉が興味を持っているのは、悠斗ではなく美羽だ。

 そうでなければ、悠斗がバレーを引退してから美羽が茉莉に初めて会うまで、茉莉が悠斗を見ても一度も話し掛けなかった理由が思いつかない。


「興味のある人には優しくして、興味のない人には素っ気なくする。……そんなの当たり前だっての。ははっ」


 興味のない悠斗に無関心ならまだ良かったが、茉莉は悠斗の昔を知っている。

 下手に踏み込めるからこそ遠慮がなくなってしまい、先程の茉莉の小言は悠斗をけなすような発言になったのだろう。

 おそらくだが、能無しの悠斗への言葉は当然のものだと思っており、単に美羽を心配しての行動だったはすだ。

 みじめ過ぎて乾いた笑い声を漏らすと、美羽の顔が泣きそうに歪んだ。


「でも、悠くんは、告白する為に頑張ったんだよ? それを興味のない人だから無関心って、酷すぎるよ……」

「興味のない人の行動なんて、覚える人はいない。美羽だって分かるだろ?」

「それは、そうだけど。でも……」


 美羽は学校で色んな人に話し掛けられている。

 全員に興味を持つ訳がないし、その人達が普段何をやっているかなど把握していないはずだ。

 それでも悔しそうに顔を歪めるのを見て、ほんの少しだけ心が軽くなる。


「そのまま進学したら、篠崎達と一緒の高校になる。それは耐えられないから、引退後に必死に勉強して今の高校に受かったんだ」


 同じクラスになるとは限らない。それでも茉莉と直哉が同じ高校に居て、三年間顔を合わせるかもしれないのだ。そんな状況など、とても悠斗の心では耐えられない。

 だからこそ両親に心配されようとも、今まで全く勉強していない分を取り返そうと、そして茉莉達の事を忘れようと、必死に勉強した。

 その結果として無茶だと担任に言われた高校に受かったのだから、成功とは言えるはずだ。

 当時を振り返りながら告げると、美羽が納得のいったように頷く。


「だから悠くんは実家から遠いのに、わざわざ今の高校を選んだんだね」

「ああ。受かって、ようやく篠崎達の顔を見なくなるって喜んで――俺には何もないのに気が付いた」


 後は高校生活を楽しむだけ。そうやって割り切れたらどれだけ良かっただろうか。

 けれども合格発表の日に悠斗の胸に去来したのは、達成感などではなく虚無感だった。


「中学の二年半を何の成果も得られなかった部活で潰し、その後の半年は勉強漬け。受かった高校での成績は最下層。……じゃあ、俺には何が残ってるんだろうな」

「何って、悠くんには色んなものがあるよ?」

「……色んなって何だよ。好きだった人の本心に気付かず、振られたら引き籠って両親に迷惑を掛けるような人間だぞ?」

「そんな事ない。悠くんは――」


 悠斗を慰めようとしてくれたのだろう。必死な声が耳に届いた。

 けれど優しい言葉を今だけは聞き入れたくなくて、温かさを受け入れたくなくて、美羽の手を思いきり振り払った。


「運動が出来なくて、勉強が出来なくて! 元幼馴染の本心にすら気付けない! そんな俺には何の価値もないだろうが! 今更頑張ろうって気にもならない、俺はそんな人間なんだよ!」


 もう、頑張って価値を上げようとは思えない。

 悠斗から他人に関わるくらいなら、あんな思いをするくらいなら、ずっと教室の隅でいい。

 こんな人間は誰にも見られずに生きていくのがお似合いだ。

 胸の苦しみが酷すぎて、痛すぎて、まぶたから雫が落ちていく。

 こんな風に気持ちをぶつけてしまえば、美羽も離れていくはずだ。

 感情のままに行動したことを後悔し、顔を俯ける。


「……」


 美羽が音もなく立ち上がった。悠斗がこれほど醜い人間だったのかと呆れ、帰るのだろう。

 本当に終わってしまったのだと理解して、涙の勢いが強まる。

 せめて美羽が部屋から出ていくまでじっとしていようと、身を縮めていると――


「悠くん」


 ふわりと、柔らかなものに包まれた。

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