第58話 罪悪感を溶かして

 帰って来た際に美羽が妙に世話を焼いてくれたとはいえ、風呂と晩飯の準備は以前と変わりなかった。

 そもそも普段の生活の時点で、ランニング後すぐに風呂で汗を流し、絶品の料理を想い人と一緒に食べているのだ。

 贅沢過ぎるだろうと思いつつも、料理を平らげる。


(目が合うのが増えたよなぁ……)


 今日もそうだが、これまでも食事中に美羽と視線がよく合っていた。

 ただ、見られていても何も起きなかったので、大したことはないだろうと思い直す。

 そして晩飯を終えて二人で後片付けをしているのだが、妙に美羽がご機嫌だ。


「何か機嫌良くないか?」

「ずっと気に掛けてた事がなくなったからね、気分も良くなるよ。それに、悠くんと一緒に洗い物が出来るのが嬉しいの」

「……まあ、一人で背負わないならそれでいいけど」


 これまで、美羽は家事等は全て自分でやるべきだと気を張っていた。

 しかし、こうして悠斗に分けてくれるようになったのは嬉しい。

 真っ直ぐな歓喜の感情にむず痒さを感じ、気を紛らわす為に洗い物に集中する。


「それに悠くんは強引だから、私が遠慮しても後片付けを一緒にやってくれるでしょ?」

「当然だ。それくらいはしないと駄目だろ」


 美羽が今までよりも世話を焼いてくれるらしいのだが、それでも譲れないものはある。

 帰ってきてから悠斗の荷物を持ち、晩飯に風呂の準備をしてくれるのだ。

 一緒に洗い物をするだけだが、そんな小さな事でも恩を返したい。

 もらいっぱなしになるつもりはないと即答すれば、美羽が口元に緩やかな弧を描かせた。


「ありがとう、悠くん。なら、これからも一緒に後片付けをしてくれる?」

「もちろん。美羽が嫌がってもやるからな」

「ふふ、やっぱり強引だねぇ」


 呆れたような口調だが、美羽の顔には歓喜を滲ませた微笑が浮かんでいる。

 好きな人と一緒に家事を出来るのだから、悠斗にとっては得でしかない。しかし美羽の世話好きな所を利用しているようで、ちくりと胸が痛む。

 だからといって突き放せはしないので、後ろめたさに蓋をして洗い物を終えた。





「はぁ……」


 晩飯の後片付けを終え、学校の課題も済ませた。

 後はゆっくりするだけなので、ソファに沈み込んで体の力を抜く。

 美羽が帰る準備を終えるまで休憩しようと思っての行動だったのだが、美羽は帰る素振りなど見せず、悠斗を心配そうに見つめてきた。


「大丈夫? 何か疲れてそうだけど……」

「まあ、昨日あれだけ運動してたからな。一日休んだだけで疲れは抜けないって」


 いくらランニングや特訓をしていたとはいえ、一日に何試合も全力で行っていたのだ。どうしても疲れは残る。

 それどころか体の節々が僅かに痛むので、流石に筋肉を酷使してしまったようだ。

 貧弱な体だと皮肉気な笑みを落とすと、なぜか美羽の瞳が輝いた。


「もしかして、筋肉痛だったりする?」

「ほんの少しな。生活するのに問題はないし、ランニングしても大丈夫なくらいだけど」

「でも、痛いのは確かなんだよね?」

「……そうだけど、何でそんなに嬉しそうなんだよ」


 悠斗の体が辛いのに、美羽が喜ぶ理由が分からない。

 他人の不幸を喜ぶような性格ではないので、余計変に感じてしまう。

 理由を尋ねると、美羽が満面の笑顔になった。


「悠くんのお世話が出来るって思ったら嬉しくて」

「お世話?」

「うん。私の為に頑張って、その結果筋肉痛になったんでしょ? だったら、マッサージしていい?」

「とんでもない案が飛び出したな……」


 突拍子もない美羽の案に引きった笑みを返す。

 美羽の顔を見ると、気に病んでいるようには思えない。おそらく、純粋に悠斗の世話が出来る事を喜んでいるのだろう。

 悠斗としては土下座してでも頼みたいくらいだが、簡単にお願い出来るのなら苦労はしない。


「男の体に触れるんだ。それでもいいのか?」

「マッサージなんだから、触れるのは当たり前でしょ? そりゃあ他の人――おじいちゃんは別だけど――から頼まれても絶対にしないけど、悠くんなら喜んでだよ」

「……じゃあ、頼む」


 丈一郎に並ぶほどの特別扱いに心臓が僅かに跳ねる。

 善意で提案してくれたのだから、美羽を意識しては駄目だと自分に言い聞かせた。

 頭を下げて頼み込むと、美羽が勢いよく席を立つ。


「じゃあ悠くんの部屋に行こう?」

「わざわざ俺の部屋に行かなくても、ここでいいだろ」


 マッサージなどどこでも出来る。

 悠斗の部屋に行く理由などないと首を捻れば、美羽がムッと不満そうに唇を尖らせた。


「折角やるんだし、リラックスして欲しいの。悠くんの部屋なら寝転べるでしょ?」

「随分と本格的だな」

「やると決めた以上、妥協はしないからね。ほら行くよ」

「はいはい、分かったよ」


 もうそれなりに夜も遅く、こんな時間に男の部屋に行くなど不用心が過ぎる。

 けれど、悠斗を信用して言ってくれたのだ。

 どうせマッサージだけだし、万が一にでも変な事などは起こさせないと、覚悟を決めながら二階に向かう。


「さあ寝転んで?」

「はいよ」


 自室に入ると、すぐに美羽が指示してきた。

 大人しく寝転ぶと、ベッドの側面に美羽が立つ。


「それじゃあいくよー」


 細い指先が悠斗の肩を揉む。

 悠斗の事を気遣ってなのか美羽の力は弱く、妙にくすぐったい。


「これくらいの力で大丈夫?」

「もう少し強くてもいいぞ」

「本当? 男の子って凄いねぇ」


 感心したように美羽が呟き、マッサージの力を強めた。

 絶妙な力加減に、悠斗の口から溜息が漏れ出てくる。


「はぁ……」

「ふふ、気持ち良くなってくれてるなら良かった」

「正直、最高だ。毎日して欲しいくらいだよ」

「なら毎日しようか?」

「いいや。美羽が大変だろうし、遠慮しとく」


 おそらく悠斗が願えば、美羽は本当に毎日マッサージをしてくれるだろう。

 明らかに美羽の負担が増えるので断ると、「もう」と残念そうな言葉が聞こえてきた。


「気にしないでいいのに」

「そういう訳にもいかない。もう美羽には十分世話になってるからな」

「そんな事ないよ。私の方がお世話になってる」

「どこがだよ。俺は何もしてないだろ」


 肩や背中、腰と美羽がマッサージの場所を変えていく。

 あまりの心地よさに少しずつ眠気が襲ってきた。

 それでも美羽の言葉に反論すると、くすりと小さな笑い声が頭上から落とされる。


「ううん。おじいちゃんと仲直り出来たのは悠くんのお陰だよ。改めて、ありがとね」

「まあ、少しでも力になれたのなら良かったよ」

「少しじゃない、凄く力になってくれたよ」

「……そうか」


 無力感を押し込めて、美羽の感謝を受け止めた。

 感謝される理由などないと思うのだが、ここで口にするのはあまりに不毛だ。下手をすれば、何度も同じ会話をする事になるのだから。

 優しくて穏やかな心地いい声が、丈一郎とのやりとりを振り返る。


「いっぱい、いっぱい話したよ。昔の事、今の事、本当に沢山の事を。そうだ、おじいちゃん呼びにしたんだよ」

「そういえば呼び方を変えてるよな。壁が無くなって、本当に良かったよ」


 きっと、誤解が解けた事でより親密な呼び方にしたのだろう。

 もう丈一郎と美羽の関係は、昔のように冷え込む事はないはずだ。


「そのせいで悠くんが帰った事に気付かなかったんだけど。……本当に、ごめんね」

「いや、あれは俺が勝手にやった事だから気にすんな。それに、あの場に俺は余計な者でしかなかったからな」

「もう、そんな事言わないで。私もおじいちゃんも怒ったんだからね?」

「すまん」


 何も言わずに帰ったのは駄目だったらしい。しかし、あの場に居ていいと思えなかったのも確かだ。

 少なくとも一言くらい言うべきだったかと思って謝るが、細い指がぐりぐりと肩を押す。


「許しません。悠くんには罰を受けてもらいます」

「お手柔らかに頼む」


 不満の込められた声からすると、表に出していなかっただけでかなり頭に来ているのかもしれない。

 苦笑を浮かべてお願いすれば、美羽の力が緩まった。


「自分を責めないで欲しいの。私は都合よく利用されてる訳じゃないよ」

「……何で、気付いたんだ?」


 どうやら悠斗が抱いていた罪悪感は見抜かれていたらしい。

 一応隠したつもりなのだが、どうしてバレたのだろうか。


「悠くんは優し過ぎるから、私に甘えるのを気に病んでるんじゃないかなって思ったの」


 くすくすと軽やかに笑いつつ、美羽が悠斗の頭に触れた。

 指先はねぎらうように髪をき、気持ち良さでどんどん眠気が強くなっていく。


「大丈夫だよ。使命感でも、責任感でも、恩返しの為だけにしてる訳でもないからね」

「それでも、おれは……」


 想い人の厚意に甘え、お世話を受け入れるという事に、どうしても罪悪感を覚えてしまう。

 自分からは何一つ伝える気はないくせに、美羽が離れるのを悲しいと思うのはただの我が儘だ。

 おぼつかない思考で美羽の言葉を否定すると、くしゃりと頭を撫でられた。


「悠くんの家で、悠くんのお世話をしたいって心から思ってるんだよ。だから、何も気にしないで甘えて?」

「なら、いい、か……」


 確かな熱のこもった言葉が、悠斗の心にするりと入ってきた。

 美羽がここに居てくれるのなら、こんなに嬉しい事はない。

 安堵が胸に満ち、まぶたが悠斗の視界を塞いでいく。


「おやすみ、悠くん」


 慈しむような声に導かれ、意識が落ちた。

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