第50話 初試合
「おはよう」
「おう。……おはよう」
球技大会当日。教室に入り挨拶の声を響かせると、なぜか悠斗に視線が集まった。
それどころか、戸惑ったような挨拶を返してくれた男子生徒――今回のチームメイトが
「芦原、だよな」
「それ以外の誰に見えるんだよ」
髪を切って視界はスッキリしているが、それだけで別人のような反応をされるのは納得がいかない。
周囲と積極的に関わっていないとはいえ、流石に心外だとじっとりとした視線を向ける。
「そうだよな、すまん。にしてもサッパリしたけど、どうしたんだよ」
「ボールが見えないと困るからな。チームメイトに迷惑を掛ける訳にはいかないだろ」
絶対に優勝しなければと思っていても、それをチームメイトに強要しては駄目だ。
他の人は悠斗の事情など知らないし、言うつもりもないのだから。
代わりに、本当でありつつも誤魔化した答えを告げると、彼が首を捻った。
「それは、そうなんだが……」
「まあ、髪は気にしないでくれると助かる」
「分かった。でも、そんな顔だったんだな」
「……何だよ、変か?」
微笑ましいものを見るような目には悪意はないのだろう。
それでも意外そうな目を向けられて、馬鹿にされるのかもしれないとつい過剰に反応してしまった。
申し訳ない事をしたと罪悪感が湧き、顔を
悠斗が機嫌を損ねたと勘違いしたようで、彼が焦った顔をして手を振った。
「変じゃない! 言い方が悪かったな、すまん」
「……いや、俺の方こそすまん。怒ってる訳じゃないんだ」
「ならいいんだ。そんなに良い顔してるなら勿体無いって思っただけだから」
「お世辞も程々にな」
誤解が解けたのは何よりだが、彼の言葉は空気を入れ替える為の
素っ気ない返事をすると、パンと軽く背中を叩かれた。
「お世辞じゃねえって。前々から髪を切った方が良いって俺も言ってただろうが」
「髪を切るのも伸ばすのも俺の自由だろうが。蓮に言われても変えるつもりはない」
朝から疲れそうなほどに爽やかな笑顔を向けられ、思いきり顔を
しかし悠斗の態度に全く動じていないようで、蓮がにやにやとした笑顔になった。
「でも、今日の為に髪を切ったんだろ? 気合入ってるじゃねえか」
「うるさい」
蓮が
もはや無駄だと悟り、諦めて好きにさせた。
「それはそれとして、悠はやっぱりその髪の長さの方がいいな」
「俺もそう思う。芦原のイメージが変わったな」
「……勘弁してくれ」
男二人からの褒め言葉など背中に悪寒が走る。
付き合っていられないと自分の席に向かう悠斗の背中に、クラスメイトの「今日はよろしくな」という爽やかな声が届いた。
「はぁ……」
球技大会も開始され、悠斗達のクラスの番となった。
体育館に来た事など何度もある。ボールは一昨日まで何時間も触っていた。
それでも、コートに立つだけでずしりと重たい何かが肩に乗った気がする。
(美羽は――いないか。まあ、接点のないクラスの応援をするのも変だしな)
周囲をそれとなく見渡すが、小柄な姿は見えない。
それでも、どこかで悠斗の勝ちを願っているのだろう。
そう信じられるくらいの気持ちは昨日受け取っている。
「いいよなぁ、この空気。試合前のひりついた感じが
気力を
負けたら全てが終わってしまうのだ。何が何でも勝たなくてはならないのだ。
そう考えるだけで足が震え、指先の感覚が無くなっていく。
もちろん、悠斗と蓮ではこの大会への意気込みが違うのだろう。
それでも多少は負けるかもしれないというプレッシャーを感じているはずだ。どうしてそんな笑顔をしていられるのだろうか。
「俺には苦しいだけだ」
「それがいいんだろ? 勝負に絶対は無い。ここで負けるかもしれない。その空気を楽しむんだ」
「楽しむ?」
この重苦しい空気のどこに楽しむ余地があるのか、蓮の言葉が全く理解出来ない。
まるで蓮が全く知らない別人になったような気さえする。
どういう意図なのかと聞き返すと、からからと蓮が笑った。
「おう。お前は昔のように応援席で声を出してるだけの部員じゃねえんだ。こんな空気に負けないっていう意思を見せてやれよ」
「けど、こんな空気、俺には初めてで……」
「それがどうした。初めてだからってお前に負けが許されてるのかよ。何が何でも勝ちたいんじゃなかったのか?」
「……そうだ、俺は負けられないんだ。初めての試合だからって怖気づいてたまるか」
蓮の露骨な
悠斗には尻込みしている暇などないのだ。正臣と結子に背中を押され、丈一郎から託され、美羽にお願いされたのだから。
初めての試合で、緊張して動けないなどという言い訳は通じない。
気合を入れなおして蓮を睨み付けると、蓮が獰猛な笑みを返す。
「それでいいんだよ。この緊張感を跳ね除けて、限界まで体を動かすのは楽しいぞ?」
「……はぁ。蓮には敵わないな」
今なら、先程の会話は緊張でガチガチに固まった悠斗を解す為に煽ったのだと分かる。
乗せるのが上手いなと溜息をつけば、蓮が少しだけ遠い目をした。
「いいや、こんなのは数をこなしたから出来ただけだ。……頼むぞ相棒。俺達の初陣だ」
「ああ。頼むぞエース。俺の初試合、お前に託した」
拳と拳を突き合わせ、試合前の練習に入る。
体の震えはとっくになくなり、心には今か今かと解放する時を待っている熱が灯っていた。
「悪い、芦原!」
「大丈夫だ!」
チームメイトの上げたボールが悠斗から離れていく。
短く応えてボールの下に行き、蓮の方へとパスをした。
「蓮!」
エースが小さく頷き、助走をつけて高く飛ぶ。
蓮の位置から少し離れたボールは、次の瞬間には相手のコートに突き刺さった。
クラスメイトの歓声が上がる中、からからと笑った蓮が近づいてくる。
「ばっちりだ。この調子で頼むぜ、悠!」
「ああ。どんどん渡すから、蓮も頼むぞ!」
「当然!」
多少のズレなど全く関係がないのだろう。
蓮が味方で良かったと安堵しつつ、拳を突き出してきた蓮に同じく拳をぶつける。
そのまま試合が続き、何度も蓮にパスしたからか、蓮への警戒が強くなってきた。
(多分、これならいけるな)
蓮の方を向き、けれど少しだけ体を逸らして逆方向へとパスをする。
しかしボールが悠斗の望み通りの場所には行かず、少しズレた位置にパスしてしまった。
「すまん、任せた!」
「あ、ああ!」
意表を突かれたのか、相手チームの反応が遅れる。
やはりというか、蓮さえ止めてしまえばいいと思っているらしい。
チームメイトも戸惑ったようだが、何とか決めてくれた。
「ありがとな!」
「お、おぅ……。ありがとな、芦原」
「良いパスじゃなかったし、お礼なんて必要ないって。蓮だけに渡すつもりはないから、気を付けてくれ」
困惑の表情を浮かべているチームメイトに笑みを返し、得点するのは蓮だけではないと告げる。
勝つためにパスするだけなのだが、彼がにやりと嬉しそうに笑った。
「おう、任せてくれ!」
コートにボールが触れ、周囲から大きな歓声が上がる。
「Eクラスの勝ち!」
「ハッ……! ハッ……!」
心臓の鼓動が激しい。指先の震えが止まらない。すぐ傍でクラスメイトが喜んでいるのに、どこか遠くから声が聞こえてきているように感じる。
蓮と他のメンバーに点数を稼いでもらう為にパスに
なのに、どうしてこんなにも息が切れているのだろうか。
茫然(ぼうぜん)としたまま対戦相手と握手をし、コートから出る。
「芦原、ありがとな!」
「いやー、正直不安だったんだ。でも、見くびって悪かった」
「何だよ、滅茶苦茶動けるじゃねえか!」
チームメイトの賞賛にどう対応すればいいのだろうか。
悠斗は出来る事をやっただけだ。そして、蓮だけにボールを渡すのは皆がつまらないだろうと、相手の意表を突くように時折他のメンバーにパスしていただけなのだ。
これで本当に良かったのか。もっと蓮に渡すべきだったのではないか。
それどころか――
(手を抜いていると、思われなかっただろうか……)
決してそんな事はない。けれど、他人が悠斗を見てどう思うかは別だ。
楽に勝てそうだったから蓮以外にボールを渡したと見られてもおかしくはない。
実際、今回は点数が開いていたので出来たが、おそらく接戦になると今回のような事は出来なくなるだろう。
ぐるぐると疑問という渦に巻かれて挙動不審になっていると、悠斗の背を強く蓮が叩いた。
「何引いてんだ。お前が頑張ったから勝ったんだろ。もっと胸を張れ!」
「でも、これで、良かったのか……?」
叩かれた背中が痛い。だが、それよりも蓮に笑顔を向けられると心が痛い。
胸が苦しくて、辛くて、よく分からない感情のまま蓮を見つめると、からりと晴れた青空のような笑みを向けられた。
「良いに決まってるだろうが。俺だけにボールを渡すんじゃなくて、全員で勝つ。これがバレーボールだ」
「そうだ。ありがとな、芦原!」
「正直、元宮がいるから一回も打てないと思ってたくらいなんだ。打たせてくれてありがとな」
「もっと脇役でもいいくらいだ。あんな息の合い方を見せられたら黙るしかねえよ」
「俺達の事は気にすんな。勝負なんだし、勝つ為の事をしようぜ」
「……」
蓮も含めたチームメイトが悠斗に笑顔を向けてくれる。こんなにも認められると思わなかった。
胸のつっかえが取れ、大きな感情が沸き上がってくる。
嬉しくて、本当に嬉しくて。努力の成果が認められたみたいで目頭が熱くなるが、歯を食いしばって我慢した。
まだまだ大会は始まったばかりなのだから、泣くのは後で良い。
それでも、押し寄せる感情のままに笑みを浮かべた。
「ありがとう、みんな!」
随分と遅い勝利の実感だったが、悠斗はここからだ。
素直に感謝を示すと、チームメイトが軽く肩を叩いてきた。
それが悠斗を受け入れてくれた証拠のように感じ、また涙が溢れそうになる。
「なあ悠斗。バレー、楽しいか?」
最後に蓮が悠斗の肩を叩きつつ尋ねてきた。
今までであれば首を振っていただろうその答えは、もう悠斗の中で違ったものになっている。
「ああ、楽しいな!」
決して簡単ではないだろう。それでも悠斗達は優勝を目指していく。
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