第48話 特訓後

 空は真っ暗であり、体には疲労が溜まり切っている。自転車を漕ぐのも億劫おっくうだが、何とか家に帰ってきた。


「ただいま……」

「おかえりなさい」


 玄関の扉を開けると、心配そうに眉を下げた美羽が迎えに来てくれた。

 今日から帰りが遅くなると事前に伝えたが、それでも美羽はこうして待ってくれている。

 鈴を転がすような声に少しだけ元気が戻った。


「遅くなって悪いな」

「気にしないで。むしろ私のせいなんだから、いくらでも待つよ」

「いいや、これは俺の我が儘なんだ。むしろ美羽は『私の為に頑張って』くらい言っていいんだぞ」


 他人の家庭事情に首を突っ込み、いくら美羽が望んだとはいえ急かすように背中を押したのだ。美羽から恨まれてもおかしくはない。

 なのにこうして悠斗を気遣ってくれるのだから、多少傲慢ごうまんでもいいだろう。

 冗談っぽく言うと、美羽が顔を曇らせて勢いよく首を振る。


「そんな事言わないよ! 言える訳、ない……」

「……変な事言って悪かった。とにかく、そんなに気に病まないでくれ」


 どうやら気を紛らわせるつもりが失敗したらしい。

 少しでも美羽の心を軽くするために頭を軽く撫でると、へにゃりと眉が下がった。


「悠くんは、ずるい」

「そう言われてもな」


 何がずるいのか分からず、小さく苦笑を落とす。

 とりあえず頭を撫で続けていると、悠斗の腹が鳴った。


「あ、すぐにご飯作るね。悠くんはお風呂に入ってきて」

「頼む。じゃあ遠慮なく入らせてもらうよ」


 もうかなり寒い時期ではあるが、普段とは違い長時間運動したせいで汗だくだ。

 これまでと同じく風呂の用意をしてくれた美羽に感謝しつつ、厚意に甘える。

 まだ始まったばかりなのだ。ここでへこたれる訳にはいかない。

 気合を入れなおして体を洗い、湯船に浸かる。

 お湯の暖かさに疲れが溶けていくようだ。


「こうやって疲れるのも久々だな」


 惰性で続けているランニングとはまるで違う疲労感に、ぐったりと力を抜く。

 これから暫(しばら)くこんな生活を続けるのだ。早めに慣れた方がいい。


「気持ちいいな……」


 帰る時間を事前に連絡していたとはいえ、風呂をちょうどいい温度にしてくれた美羽には頭が上がらない。

 どこまでも沈んでいきそうな心地よさに目を閉じた。






「もう! 本当に、心配したんだから……」


 疲労回復の為と料理してくれた豚キムチは絶品であり、本来であれば会話に集中出来ない程に箸が進むはずだ。

 だが目の前の美羽は瞳を潤ませ、今にも泣きそうに顔を歪めながら怒ってくる。

 

「……すまん」

「疲れてるのは分かるけど、お風呂で寝ちゃだめだよ……。溺れるかもしれないんだよ?」

「そうだよな。油断してた」


 これ程疲れたのは約一年ぶりであり、つい風呂の中でうとうとしてしまったのだ。

 完全に寝る前に美羽が声を掛けてくれたので大丈夫だったが、かなり危険だった。

 冗談では済まされないので深く頭を下げても、美羽の顔は晴れない。


「いつもだったらもうとっくに上がってるし、ご飯も出来たからおかしいなって思って様子を見に行ったら、返事が変だったんだもん」

「本当にごめん」

「……頑張らせてる私が言うのもなんだけど、本当に気を付けてね。上がってからならいくらでも寝ていいから」


 自分の為に頑張っている人間がそのせいで溺れるなど、もしそんな事が起こってしまえば美羽は罪悪感に押しつぶされてしまうだろう。

 美羽を悲しませたい訳ではないので、濡れた瞳を真っ直ぐに見つめながら頷く。


「ああ、もう絶対にしない」

「約束だからね。……それにしても、バレーってそんなに疲れるんだ」


 流石にずっと怒るつもりはないのか、美羽が話題を変えた。

 しんみりした空気は辛いので有難い。


「いや、蓮のやつが張り切っただけだ。最初は軽くってお願いしたんだがな……」


 蓮の力で場所を確保出来たのは嬉しいが、久しぶりに悠斗とバレーが出来るからと蓮が盛り上がってしまったのだ。

 結局へとへとになるまで動かされたので、苦い笑みをしながら肩を落とす。


「元宮くん、だっけ。人気だよねぇ」

「そうだな。というかそんな事まで知ってたのか」


 蓮の事は伝えていたが、モテるとは伝えていなかった。

 意外に思って首を傾げると、美羽が呆れた風な笑みになる。


「前にクラスの女子がバレー部にかっこいい人がいるって騒いでたからね。でも『彼女がいるなんて残念だ』って言ってたかな」

「文化祭で思いきりいちゃついたからなぁ」


 残念がられる程の蓮の人気には感嘆の声しか出ない。


「悠くんは元宮くんの彼女さんの事を知ってたの?」

「知ってたよ。会った事もあるし、球技大会までの助っ人をしてくれるみたいだ」

「助っ人?」

「蓮は部活もあるからな。どうしても抜けられない時があるんだよ。その時は俺の練習相手になってくれるらしい」


 蓮も他の全てをないがしろに出来ないので、一緒に練習するのには限りがある。

 仕方ないと諦めていたが、そこで綾香が手を貸してくれる事になったのだ。 

 悠斗よりも忙しいはずなのに、自分の都合を差し置いて悠斗に協力してくれる蓮と綾香には今度お礼をしなければならない。

 心強い助け舟に笑むと、なぜか美羽の顔が曇った。


「……元宮くんの彼女と二人っきりなの?」

「そうだけど、手伝ってくれるだけ有難いよ」


 一人で練習するよりも、二人の方が出来る事が多い。

 たった一人助っ人が増えただけだが救いの手だと笑みを深めれば、美羽が表情を複雑に変える。

 不安や心配、いろいろな感情が見えるが、どうしてそんな感情を抱くのか分からない。


「そうなんだ……」

「二人の手伝いを無駄にしない為にも、出来る限り頑張るさ」

「……うん、頑張ってね」


 晴れない表情のまま美羽が応援してくれた。

 あまりにも読めない美羽の感情に首を捻っていると、美羽が重い溜息を吐き出す。


「私も運動が出来たら悠くんと一緒にバレー出来るんだけどなぁ」

「適材適所ってやつだ。美羽には風呂やご飯を作ってもらってるし、助かってるよ」

「それは嬉しいけど……」


 嬉しい、と言う割には美羽の顔に不満が浮かんでいる。

 そんなに自分を責めなくてもいいと頭を撫でて慰めたいが、テーブルを挟んでいるので出来ない。

 代わりに、出来る限りの笑顔を浮かべる。


「気にすんなって。明日の飯も期待してるぞ」

「任せて。……はぁ、どうしてこんな気持ちになるんだろ」


 美羽の呟きはよく分からないが、浮かない表情なのはやはり悠斗に対して負い目があるからだろう。

 何度言っても気にしてしまう美羽にひっそりと笑みつつ晩飯を平らげた。

 そして晩飯を食べ終えると、かなり遅い時間だからかすぐに美羽が帰る用意をしだす。

 悠斗も外に出る準備を終えて玄関に向かうと、少し硬い笑みを浮かべた美羽がいた。


「疲れてるんだし、送らなくてもいいよ」

「それとこれとは話が別だ。絶対に譲らないからな」

「……ありがとう」


 いくら疲れていても、美羽を送らない訳にはいかない。

 それに一ヶ月以上美羽の顔を見てきたのだ。強がった笑みなのは分かっている。

 申し訳なさそうに眉を下げる美羽を少々強引に説き伏せて、美羽を送り届けたのだった。

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