第42話 押し込めていた本心

「私は、何もかも駄目な人間なの。勉強は一番じゃない。運動は出来ない。家事も完璧じゃない」

「さっきも言ったが、そんな人間はほとんどいないんだ。なれなくても仕方ないんだよ」


 美羽の頭を撫で続けても、自分を呪うような言葉が紡がれた。

 せめてこの手は止めないと動かし続ける。


「……でも、そんな人間になれない事よりも、私の為だって理解していても、お母さんを恨んだ私が一番許せないの」

「そんなの――」

「あんなにお金を、時間を使ってくれたのに、私を縛り続けて、一度も褒めなかったお母さんを憎んだんだよ!」


 当たり前だ、と言おうとしたが、美羽の激しい言葉に遮られた。

 涙に濡れた瞳には光など無く、膝の上に置かれた掌は強く握られている。


「……それだけじゃない。昔から笑わない丈一郎さんが怖くて。何もしないまま家にいたら、また習い事を受けさせられるかもしれないって思って。外で遊んでるフリをして時間を潰してたの」

「晩飯の時間になるまで公園で時間を潰してる理由、まだあったんだな」

「うん。でも、クラスメイトをどうやって遊びに誘えば良いか分からない。誘ってくれても、皆が盛り上がってる話で楽しめない。……無理して笑ってまで、遊びに行きたいなんて思えないの」

「……そっか」


 高校生になるまで放課後に遊んだ事がなければ、誰かを誘えないのも無理はない。

 それに、話が合わない人達と遊ぶのが苦痛なのだろう。

 普通なら遊ばなくてもいいかもしれない。

 しかし美羽の容姿が、周囲に頼らないようにと頑張って作り上げた立場が、美羽をそうはさせてくれないのだ。

 あまりの空回りぶりに、栗色の髪をくしゃりと撫でる。


「そうやって心から楽しく遊べなくて、家に帰るのも怖くて、結局丈一郎さんから逃げ続ける事しか出来ない。そんな自分が、本当に嫌なの」

「丈一郎さんの件に関しては美羽だけのせいじゃないだろ」


 丈一郎とのすれ違いの原因は美羽だけではない。今まで習い事を強要されていたのなら、家から逃げるのも仕方のない事だ。

 それに、家族であるにも関わらず硬い態度しか取らない丈一郎にも問題がある。

 慰めの言葉を掛けると、美羽が思いきり首を振った。

 あまりの勢いに悠斗の手が美羽の頭から離れてしまう。


「丈一郎さんだけじゃない! 悠くんの優しさを利用して、家で時間潰しが出来るようにお願いしたんだよ! 寒い公園に居たくない。ただそれだけの為に悠斗くんに取り入ったの!」

「……なるほどな」


 料理を作る約束をした際、妙に美羽が必死な事が気になったが、逃げる為だったのだろう。

 悠斗の頷きに、美羽が大粒の涙を零しながら悲痛な声を上げる。


「親を恨んだ薄情者で、引き取ってくれた人から逃げる臆病者で、優しくしてくれた人を利用する卑怯者なんて、大っ嫌い!」

「美羽」


 自分を否定したい気持ちは悠斗にも良く分かる。だが、悠斗と違って美羽が何も為せなかった訳ではないのだ。

 頭を撫でるだけでは駄目だと、美羽の両頬を挟んでうつむいている顔を上げさせた。


「それでも、そんな美羽に俺は助けられたんだ。運動が出来ない者同士で、勉強を教えてくれて、飯を作ってくれる。そんな美羽に俺は助けられたんだよ」

「でも、それは――」

「俺を利用する為だって? 馬鹿な事を言うな。そんな奴が料理の出来で喜んだり、ゲームを楽しんだり、誕生日プレゼントを嬉しがるもんか」


 悠斗を利用するだけの人間ならば、いちいち悠斗の反応を気にしないだろう。

 仮に悠斗の機嫌を損ねては駄目だと態度を取り繕ったとしても、ゲームをした時の笑顔や誕生日プレゼントを渡した際の喜びは本物だったはずだ。

 涙の膜が掛かったはしばみ色の瞳を見つめながら告げると、美羽の顔が驚きに彩られた。


「美羽は俺と一緒にいて、利用してるって罪悪感をずっと抱えてたのか? 少しも楽しいと思わなかったのか?」

「……違う」

「だったら、自分をそんなに責めるな。確かに美羽は親を恨んで、丈一郎さんから逃げてる、真っ直ぐとは言えない人なのかもしれない。でも、そんな美羽と一緒にいて俺は楽しいんだ」

「悠、くん……」

「ありがとな、美羽。美羽があの時俺の家に来てくれて、いろんな事をしてくれて、本当にありがとう。だから迷惑を掛けてるとか、利用してるとか、そんな事を思わないでくれ」

「ゆ……く……うわぁぁぁん!」


 感情があふれ出したのだろう。美羽が大声で泣きながら、大粒の涙を零し始めた。

 泣きじゃくる美羽を支えたくて、より体を近づける。

 普段であれば、絶対にここまで密着してはいけない。それでも、今日くらいは許されるはずだ。

 向かい合いながらも少しだけ体をずらし、小さな頭を胸元に引き寄せた。


「お疲れ様だ。きっと、俺には理解出来ないくらい辛かったんだろ? 言いたいことがあるなら吐き出しとけ。ここには親も女友達もいないんだからさ」


 残念ながら悠斗は他人だ。美羽の辛さを本当の意味で理解する事など出来ない。

 しかし、今一番美羽に近いのは悠斗なのだ。

 この折れそうな程に華奢きゃしゃな体と優し過ぎる心で、精一杯頑張ってきた少女を支えなくてどうするというのだろうか。

 胸の中の美羽は離れようとせず、額を悠斗へと押し付けてきた。


「辛かったよ! 苦しかったよ! 皆楽しそうに遊んでるのに、どうして私だけ辛い目に遭わなきゃならないの!?」

「親からすれば善意だけど、やりすぎだよな」

「出来るだけお母さんの期待に応えられるように頑張って、でも駄目で。ある日突然別居したんだよ!? じゃあ、その後の私は何をすればいいの!?」

「美羽はもう自由になっていいんだ」


 自分で言って気付いたが、今の言葉は丈一郎が悠斗に言った言葉と全く同じものだった。

 おそらく、丈一郎は今の悠斗のような気持ちをずっと抱えているのだろう。

 一度話し始めると止まらないらしく、美羽の抱えていた不満が次から次へと零れていく。


「『これは美羽の為だから』って言われても全然嬉しくなかった! 誕生日プレゼントに参考書をもらっても喜べなかったよ!」

「……そんなの喜べる訳ないよな」

「『いつか素敵な人と出会う為に』って言うけど、いつかっていつなの!? そんなの言われたって分かんないよ! そんな事の為に頑張れないよ! 時間なんて無いし、外でも家でも良い子を演じなきゃならないんだから!」

「だから、誰とも付き合わなかったのか」

「……うん。誰かと付き合って、その人の為に何かをする私を思い浮かべられなかったの。それに、何かしたいと思う人なんていなかった」


 以前、美羽は「彼氏にしたい人なんていなかった」と言っていたが、この状況なら納得だ。

 そもそも美羽は母親の期待に応えるのに精一杯であり、他人に目を向ける余裕なんて無かったのだから。

 だが、これからは時間が一杯あるのだ。焦る必要はない。


「いつか出来るさ。もう美羽は縛られてないんだから、ゆっくり見つければいい」

「……うん。ありがと」

「それと、丈一郎さんには何か言いたい事とかないのか?」


 先程までの美羽の恨み言は全て母親に向けられたものだった。

 丈一郎にはないのかと尋ねれば、美羽がゆっくりと首を振る。


「ない。私が怖がってるだけで、丈一郎さんへの文句なんてないよ。……本当は引き取ってくれたお礼を言いたいくらい」


 悠斗の服を掴んでいる手が、苦しそうに握る力を強める。


「でも怖くて……。また習い事をさせられたらどうしようって、お母さんの時みたいに怒られたらどうしようって思って、言い出せないの」

「……まあ、仕方ないさ。そう簡単に言えたら苦労はしないからな」


 悠斗があれこれ言って変えられるのなら、とっくに美羽と丈一郎の仲は改善しているはずだ。

 小さな頭を撫で続けていると、言いたい事は全部言ったようで美羽が少しだけ離れた。

 涙でぐしゃぐしゃだが、その顔色には元気が戻っている。


「いっぱい聞いてくれてありがとう」

「話したければ聞くって約束したからな。それに、俺もずっと気になってた事を聞けたから感謝はいいぞ」

「ううん。悠くんは大した事ないって思ってても、それに私は救われたんだよ。本当に、ありがとう」

「……そっか」


 憑き物が落ちたかのようなすっきりとした笑みがあまりに綺麗すぎて、悠斗の頬がじわりと熱を持っていく。

 気恥ずかしくなってもっと離れようと思ったのだが、美羽の「ねえ」という言葉に体が止まってしまった。


「もう少しだけ、撫でてくれる?」

「……少しだけな」

「うん」


 重い空気は無くなっており、いつの間にか部屋はむず痒い空気に満たされている。

 おそるおそる手を伸ばせば、美羽が小さいながらも嬉しそうに笑んで受け入れる。

 さらさらで滑らかな淡い栗色の髪を撫でると、くすぐったそうに目を細めた。

 こんな事をしていいのかという疑問が浮かぶが、美羽のお願いならば仕方ないと自分に言い聞かせる。

 はにかむ美羽と視線を逸らす悠斗が、しばらくお互いに無言で居続けたのだった。

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