第41話 美羽の過去
「置いておくよ」
美羽を悠斗の部屋に招き、お茶を持ってきた。
机に置いて声を掛けると、美羽が顔を
「……ありがとう」
「気にすんな。俺は下に行くから、落ち着くまでゆっくりしてくれ」
この状態の美羽を帰らせたくはないと思ったものの、ずっと悠斗が傍にいると気を遣わせてしまうだろう。
話は後で出来るのだし、泣き顔など見られたくないはずだ。
優しい声を意識して伝えると、涙で塗れた瞳が悠斗を見上げた。
「何か取りに行くの?」
「いや、俺がここにいると気まずいだろうと思ってな」
「ううん、そんな事ないよ。むしろいて欲しい」
「分かった」
美羽が一緒にいる事を望むのであれば、悠斗も気持ちのままに行動出来る。
ベッドの端に寄りかかる美羽の隣に、距離を開けて座った。
「……こんなに迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて思ってない。俺もそうだし、父さんと母さんもだぞ」
ぽつりと呟かれた言葉を否定すると、美羽の顔がくしゃりと歪んだ。
「悠くんはいつも優しいね」
「そうか? 料理や家の片付けをお願いしてるし、美羽を弄る事もあっただろ」
「それでも、私を気遣ってくれてる事はずっと伝わってたよ。しかも私から話さない限り、家の事を聞いてこなかったよね」
「誰だって触れられたくない事はあるんだ。多少踏み込まれてもいいと言われても、線引きはすべきだと思っただけだ」
美羽の事を知っていけばいくほど、美羽の家庭環境が複雑な事が分かった。
いくらある程度は許されている悠斗であっても、踏み込まれたくないラインはあるはずだ。
それに、美羽だって何度も悠斗を気遣ってくれたのだ。悠斗はそのお返しをしただけに過ぎない。
「……今日も、聞くつもりはないんだよね」
「ああ。美羽が話したいのなら聞くけど、言いたくないなら聞かない」
「なら、面白くないけど聞いてくれる?」
美羽がこうして自分から踏み込んでくる事は滅多にない。
おそらく丈一郎に悠斗が呼び出された時くらいだったはずだ。
「いいのか?」
「うん。こんなに優しくしてくれる人に隠し事をするのはもう嫌なの。ずっと、ずっと疑問が悠くんの目の前にあっても聞かないでくれてたから」
「分かった。ちゃんと聞くから、焦らずに話してくれ」
「うん。悠くんも、気になった事があったら遠慮しないでね」
「ああ」
今まで気になっていても聞けなかった、美羽の全ての事情を話してくれるのだ。
悠斗に出来るのは
美羽が話し始めるのをじっと待っていると、少しずつ美羽が語りだす。
「私の家は母子家庭なの。ずっとお母さんと二人暮らしだったんだ」
「……父親は?」
「お父さんは私が産まれる前に離婚したんだって。詳しくは話してくれなかったけど『私が悪かった』ってお母さんは言ってたなぁ」
「美羽から見て、お母さんは問題のある人なのか?」
「……あるよ」
当時を思い出したのか、美羽の表情が歪められた。
涙は止まっているものの、今にも再び泣き出しそうに見える。
「疑問に思ったでしょ? 丈一郎さんから家事を止められているのに、どうして料理や掃除が得意なのか。どうして昔バレエをやっていたのか」
「それに、ゲームや本、ぬいぐるみもそうだ。美羽は娯楽を知らなさすぎる。……母親が厳しい人だったんじゃないのか?」
今時ゲームをした事がなく、ぬいぐるみをもらった事が初めてなどおかしすぎるのだ。
そして料理や掃除、バレエ等から美羽の事情はある程度察する事が出来る。
予想通り、悠斗の質問に美羽が大きく頷いた。
「そう。昔から本当にいろんな事をやらされたよ。習字にバレエ、ピアノみたいな習い事だけじゃなくて、勉強や料理、掃除の仕方なんかも。それこそ自由時間が無いくらいにね」
「それはいつまで続いたんだ?」
「運動系のものは向いてないって小さい頃に辞めさせられたけど、それ以外は中学校を卒業する間際までずっと続いたよ。だから、放課後に誰かと遊ぶ事なんてなかったんだ」
「……そんなの辛すぎる。厳しすぎだろ」
子供は遊びたいものだ。少なくとも悠斗の小学生時代など、遊び惚けていた記憶しかない。
それなのに、美羽は習い事で自分の時間を全く取れなかったらしい。
いくら習い事をさせるのにも限度がある。美羽の状況は明らかにやり過ぎだ。
どうしてそんなにも美羽を縛るのかと顔を顰(しか)めると、美羽は嬉しさなどない、悲しさしか含まれていない笑みを浮かべた。
「でも、私にした事はお母さんにとって善意だったの。……まあ、上手く出来なかったら怒られたんだけどね」
「なんだよ、それ。子供の自由を縛るのが善意だってのか?」
こんなにも美羽が苦しそうな顔をしているのだ。美羽の母親がした事は善意などとは受け取れない。
この場にいない人への怒りが沸き上がり、思わず拳を固く握る。
「うん。何度も何度も言われたの『これはこの先の美羽の為だからね』、『美羽の事を想ってやってるんだよ』って」
「ふざけんな。だからって何もかも許される訳がないだろうが」
あまりの言い分に
怒鳴りそうにもなってしまったが、美羽は何も悪くないのだ。美羽を怒る事だけはしてはいけない。
それに、会った事もない他人の親を頭ごなしに怒るなどやっては駄目だと思いなおした。
口から出そうな言葉を、奥歯を噛んで押し込めながら謝罪する。
「……すまん、俺に怒る権利はないよな」
「ううん、ありがと。でも、変な事じゃないでしょ? 子供の為にって小さい頃から習い事をさせる人は多いと思うよ」
「そうかもしれない。けど、遊びにすら行かせないのは間違ってる。多分、どこかでおかしいって気付いたんだろ?」
母親を肯定するような言葉を言ったが、美羽の表情は曇りきっており、苦々しい笑みだ。
そもそも母親からの仕打ちを喜んで受け入れてたのなら、こんな表情にはらない。
どこかのタイミングで自分の母親が異常だという事に気付いたはずだ。
諦観に満たされた声を否定すると、はしばみ色の瞳が驚きに見開かれ、その後僅かに細められる。
「おかしいなって思ったのが小学校高学年の時だったかな。どうして皆遊んでるのに、私はそんな時間が無いんだろうって」
美羽が自分の頬に手を当て、まるで痛みを和らげるようにそっとなぞる。
「お母さんに聞くと叩かれちゃった。『美羽の為にこんなにもしてるのに、どうして分かってくれないの!』って」
「……無茶苦茶だ」
そこまで来ると、もはや善意の押し付けでしかない。
完全に悠斗には理解出来ない思考にぽつりと言葉を落とした。
けれど、美羽は苦しさを詰め込んだような笑みで悠斗を否定する。
「そうでもないよ。習い事をする以上、お金は掛かるからね。それに料理の練習はお仕事をしてるお母さんの時間も使う。だから、お母さんの言う事も理解出来たんだ。……分かったのは怒られた後だったけど」
その考えに小学生が至る事など普通有り得ない。
あまりに過酷な環境が、美羽を幼い思考のままでいさせなかったのだろう。
普段の美羽の大人びた態度や考え方は、おそらくそうやって形成されたはずだ。
ただ、そこまで美羽を縛っていたのなら今の状況に疑問が浮かぶ。
「そんなに厳しい親なら美羽を手放さないはずだ。なのに、どうして今は丈一郎さんと住んでるんだ?」
「ちょうど高校入学が決まった頃に、お母さんが再婚したの。ただ、向こうの条件が私と一緒に過ごしたくないって事だったんだよ」
「母親と結婚しておいて、娘と暮らすのは嫌だってのは随分我が儘だな」
「再婚相手の人が好きなのはお母さんであって私じゃない。バツイチの人を受け入れたってその家族を受け入れるとは限らないでしょ?」
「そう言われたら、そうなんだが……」
子持ちの親と再婚したが、その子供と上手くいかない事などよくある話だ。
再婚相手の人からすれば、いくら美羽の見た目が麗しくても一緒に暮らすとなるとまた話が別なのだろう。
怒りが急速に
「にしても、美羽の母親はよくその条件に納得したな。美羽には悪いけど、そこまで手を掛けた娘なら手放したくないだろうに」
「私の勝手な想像だけど、お母さんは自分の夢を私に託そうとしたんだよ。なのに、いざ自分の前にその夢が転がってきたらどうすると思う?」
「……なるほど。わざわざ娘とはいえ他人に託すんじゃなくて、自分で叶えるのか」
離婚したという事から、おおよその願いは把握出来る。おそらく美羽の母親は幸せな家庭が築けなかったのだろう。
だからこそ自分の代わりに幸せな家庭を築けるようにと、幼い頃から美羽にあれこれとさせていた。
ただ、それはあくまで自分の代わりだ。もし自分自身が再び幸せな家庭を築けるのなら、その前提が
それこそ今まで手塩に掛けて育てた娘と別居しても良いと思えるくらいに、魅力的に映ったのだろう。
悠斗の予想は合っていたようで、美羽がこくりと頷いた。
「お母さんは向こうの条件を受け入れた。そして、私をどこに住まわせるかって揉め始めたところで、丈一郎さんが引き取ってくれたの」
「だから高校に入学してこっちに引っ越したんだな」
以前少ししか聞いていなかった話と今日の話が繋がり、納得の意を示す。
ここまで話すのは辛かったはずだ。礼を言おうと思ったのだが、美羽が今にも泣きそうに顔を曇らせた。
「私はお母さんの期待に応えられなかったからね。不出来な娘に出来る事はこれしかなかったんだよ」
「……どんな期待をされたんだ?」
痛々しい笑みに悠斗の胸が苦しくなる。
思わず尋ねると、弱りきった笑顔が向けられた。
「勉強が一番である事。運動が出来る事。家事、掃除が完璧な事。つまり、いつか出会う理想の男性を支えられるような万能な人間になる事。……その
「そんな人間なんていないだろ。……いや、いるにはいると思うが、子供に要求する事じゃない」
美羽のいう人間象はあまりに理想的過ぎる。
そのような人物を目指すのであれば、実際に行われたように美羽への過剰な拘束をしなければならないのだろう。しかし、子供に多くを求め過ぎだ。
いくら自分の代わりとして幸せな家庭を築けるようにといっても限度がある。
応えられなくても悪くないと美羽を励ませば、美羽の頬から雫が落ちた。
「でもあんなにお金を掛けて、時間も掛けたのに、私は駄目だった。レベルの高い進学校に入学させられて、でも一番になれなくて。運動は出来なくてお母さんに諦められた。掃除は何とかなったけど、料理はお母さんが満足できるレベルに達せなかったんだよ」
「美羽の母親の理想が高すぎるだけだ。そんなに気負う事じゃない」
「何も出来なくて。だから、せめて誰にも迷惑を掛けないようにって、誰にも頼らなくてもいいようにって頑張ったけど、それすら無理だった」
「美羽」
自分を傷つける言葉を吐き出し続ける美羽を何とかしたくて、淡い栗色の髪へと手を伸ばす。
言葉で足りないのであればこうするしかない。とはいえ、悠斗が出来る事はそう多くない。
嫌がられるかと思ったが、頭に手を乗せても美羽は驚きに目を見開いているだけで、抵抗はされなかった。
よく手入れされたさらさらの髪を撫でると、美羽の涙の勢いが強まる。
「頭を撫でられるの、結子さんが初めてだったの。私がもっと上手くやれてたら、お母さんも撫でてくれたのかなぁ……」
途方に暮れたような嘆きにズキリと胸が痛む。
けれど悠斗には何も言える言葉がなく、手を動かす事しか出来ないのだった。
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