第38話 芦原家の日常

「これでいいか?」


 正臣と買い物を終え、荷物を美羽に渡す。

 これくらい大丈夫だと何度も言っているのだが、美羽は申し訳なさそうに眉を下げた。


「本当にごめんね」

「だから気にすんなって。母さんから変な事言われなかったか?」

「失礼な事を言わないで、いたって普通の会話しかしてないわ」

「だそうだが、本当のところは?」


 結子が唇を尖らせて不満を訴えてきても、あまり説得力がない。

 買い物に行く前に様子を見ようとリビングに顔を出すと、結子が美羽に迫っていたのだから。

 下手をすると、ある事無い事吹き込んだかもしれない。

 実際どうだったのかと尋ねれば、美羽が気まずそうに視線を逸らした。


「……普通の会話しかしてないよ?」

「おい、その反応は何だ」

「女同士いろいろあるのよ。悠くんは入れないわ」

「……どうして母さんがその呼び方を知ってるんだよ」


 両親の前で美羽がその呼び方をした事などなかったはずだ。

 じろりと結子を睨むと、結子の代わりに美羽がしゅんと肩を落として落ち込む。


「ご、ごめんね、つい……」

「いやまあ、別に東雲を責めてる訳じゃないんだ」


 大方結子が聞き出したと思うので、美羽を怒るつもりはない。

 美羽を慰めていると、結子に呆れた風な目を向けられた。


「お互いに名前呼びするなんて仲が良い証拠でしょう? そんなに神経質にならなくてもいいじゃない」

「それを聞き出した母さんが言うのかよ」

「言っておくけど、強引に迫ったりはしてないわ。それと悠斗はいつまで美羽ちゃんの呼び方を取り繕ってるつもりかしら?」

「はぁ……。美羽、母さんが迷惑かけて悪かったな」


 結子が強引に迫っていないつもりでも、美羽がどう思うかは別だ。他人の親との会話など緊張するに決まっている。

 しかも美羽の性格からすれば、隠すのは駄目だと余計に気負ったはすだ。

 そもそもいきなり家族の会話に放り込まれたのだから、美羽がリラックスできる訳もない。

 頭を下げて謝罪すると、美羽が勢いよく首を振った。


「迷惑だなんて思ってないよ! その、驚いただけだから」

「母さん、驚かせたら駄目だろ」

「ち、違うの! ……私のお母さんと違い過ぎて、戸惑っただけ」

「……そうか」


 これまでの情報で、美羽の親が相当厳しい人だというのは何となく理解している。

 妙に距離が近くはあるが、いかにも一般家庭の一児の母という結子との距離感が掴めないのだろう。

 何を言えば良いか分からず複雑な笑みを浮かべると、気まずい空気を吹き飛ばすようにご機嫌な笑顔を浮かべた結子が美羽に近付いた。


「さあ美羽ちゃん、晩ご飯を作りましょうか。悠斗から見て美羽ちゃんの料理はどうなの?」

「母さんには悪いけど、美羽の方が上だ」


 幼い頃から結子の飯を食べ続けているし、料理は上手い方だと思う。

 けれど、美羽の方が上手いと断言出来る。

 迷いなく告げると結子の料理魂に火が付いたのか、迫力のある笑みを浮かべた結子が美羽の肩を掴んでキッチンへと誘導していった。


「それは楽しみね。さあ美羽ちゃん、その腕前を見せてもらいましょうか」

「え、えぇ!? 結子さんに自慢出来る程じゃありません! 悠くんも何言ってるの!?」

「俺は事実を言っただけだ。母さん、変なプレッシャーを掛けるなよ?」


 されるがままになっている美羽が非難の声を上げたので、間違った事は言っていないと二人の後ろ姿に反論する。

 美羽はただでさえ気を遣いがちなのだから余計な事をするなと結子を注意すれば、心外だとでも言いたげに結子が眉をしかめつつ振り返った。


「分かってるわよ、冗談で言っただけ。いやぁ、こういうの夢だったのよ、是非お手伝いさせてね」

「ゆ、悠くーん!」

「さて、風呂にでも入ってくるかね」


 美羽の叫びを無視し、キッチンに背を向ける。

 本当に嫌であれば美羽は学校にいる時と同じように薄い膜を張ると思うので、なんだかんだで楽しんでいるはずだ。

 単に結子へどう対応すればいいか分からず、困惑しているだけな気もするが。

 

「いやぁ、微笑ましいねぇ」

「完全に第三者視点で楽しんでるな、父さん」


 これまでリビングの椅子に座って事の成り行きを見守っていた正臣が、にこにこと笑顔で感想を漏らした。

 芦原家は結子が正臣と悠斗を引っ張る形なので、いつも通りと言えばいつも通りではある。

 とはいえ流石に結子の距離の詰め方を注意するかと思ったのだが、一度も口を挟まなかった。


「ああいうのは男が割って入ってもロクな事にならないのさ。それに東雲さんも戸惑っているだけのようだし、私が気を付ける事は何もないよ」

「父さんがそう言うなら大丈夫そうだな。一応、やりすぎないように見張って欲しいんだけど」

「それくらいなら大丈夫、任せてくれ」

「ありがとう」


 正臣にお礼を言いながら、キッチンからの物音に耳を澄ませる。

 緊張しつつも仲良く会話しているようで、これなら大丈夫だと判断して風呂場に向かった。





 目の前には鮮やかなきつね色のさばの唐揚げが出来上がっている。

 口に含むと箸が止まらなくなり、相変わらずの美味さに悠斗の頬が緩んだ。


「んー、美味しいわね」

「ああ、これは箸が進むな」

「あ、ありがとうございます……」


 正臣と結子が一口食べてから料理を褒めると、美羽がほんのりと頬を染めて気恥ずかしそうに体を揺らす。


「すみません、こんな物しか作れなくて」

謙遜けんそんしないでくれ。むしろ急に帰ってきた私達がこれほどの物を食べられるのだから、本当にありがとう」

「そうよ、確かに私の負けだわ。悠斗の言う通りね」

「だろ? これを毎日食べられるんだから、贅沢過ぎる」

「も、もう……」


 三人からの賞賛を受けて、美羽が耳まで真っ赤になって顔を俯けた。

 肩を縮こまらせた姿が小動物のようで非常に愛らしい。


「さっきも言ったけど、これからも遠慮しないでキッチンを使って頂戴ね」

「は、はい」

「家に関しても好きなだけ来てもらって構わないよ。むしろ悠斗の世話をしてくれると助かる」

「世話って……。そこまで駄目人間じゃないつもりなんだが」


 完璧とまでいかなくともある程度の掃除はしているし、家の中はそれなりに清潔に保っているつもりだ。

 料理に関してだけはやる気はないが、だからと言って世話と言われるのは納得がいかない。

 恨みがまし気に正臣を見ても、穏やかな笑みを返されるだけだ。


「親としては情けないことだが、いくら高校生になった息子でも一人で家に居させるのは不安でね。でも、東雲さんがいてくれるなら安心だ」

「安心も何も、私の方が悠くんに助けられてますよ。悠くん、優しいので」

「それならいいんだ。悠斗、出来る限りの事はしてあげるんだよ?」

「……分かってる」


 ふわりと笑いながら美羽が悠斗を褒めたので、気恥ずかしくてそっぽを向きながら正臣に応えた。

 とはいえ、正臣に言われるまでもなく出来る限りの事はやっているつもりだ。


「そうだ、東雲さんは明日の夜ご飯をどうするつもりなんだい?」


 悠斗の態度に小さく笑みを落とし、正臣が話題を変える。


「明日ですか? 今日と同じく作ろうと思いますけど……」

「だったら今日のお礼として、明日は私達にご馳走ちそうさせてくれ。とは言っても外食になるだろうがね」

「そんなお世話になる訳にはいきません! 皆さんの時間を邪魔するのも悪いですし、もし外食するのでしたら明日は来ません」


 勢いよく頭を下げる美羽に、今度は結子が口を開く。


「邪魔だなんて思ってないわ、むしろ美羽ちゃんさえ良ければ来て欲しいの。暇なら昼から悠斗と遊ぶのはどう?」

「でも……」

「今日のお礼としてご馳走するんだから、遠慮すんなって。美羽が来たいかどうかだけだ。無理強いするつもりはないけど、どうする?」


 三人からの説得に、美羽は申し訳なさそうに悠斗達の顔をうかがう。

 全員が美羽が来る事を歓迎しているのが分かったようで、今度は苦笑しながら頭を下げた。


「……すみません、お世話になります」

「ああ、任せてくれ。それじゃあ止まっていた箸を動かそう。こんなに美味しい物が冷めるのは勿体無いからね」

「ええ」


 普段であればたった二人の食事だが、四人での食事も楽しかった。





「急にあんな事になって悪いな」


 後片付けは結子と正臣がすると言ったので、悠斗は美羽を送る為に東雲家へと向かっている。

 夕方からのあまりのドタバタを改めて謝罪すれば、美羽がゆっくりと首を振った。


「ううん、気にしないで。私の方こそ邪魔しちゃってごめんね」

「邪魔なもんか。父さんも母さんも、もちろん俺も、美羽の事をそんな風に思ってないって」

「……ありがとう」


 美羽がお礼を言いながら、儚い笑みを浮かべる。

 やはり迷惑を掛けているのではないかと気掛かりなのだろう。


「ねえ、結子さんも正臣さんも、あれがいつも通りなの?」


 はしばみ色の瞳が心底不思議そうに悠斗を見つめる。

 厳しかった美羽の親からすれば、正臣達の在り方はおかしいのかもしれない。だが、悠斗からすればあれが普通だ。


「そうだな。ぐいぐい引っ張る母さんに、引っ張られても最終的な決定を出す父さん。文句を言ったりする事もあるけど、自慢の親だよ」


 雑な対応をしたり喧嘩する事もあるが、長年一緒にいればこんなものだ。

 それに、実質的に独り暮らしである悠斗を心から心配してくれている事も分かっている。

 嫌いになどならないとハッキリ言えば、透き通った美羽の瞳が揺れた。


「……そうなんだ」

「だから、美羽が気にする事なんて何もないんだよ。明日のご飯だって料理の手間が省けてラッキー、くらいに思っておけって」


 冗談めかして告げた事が面白かったのか、美羽の顔に元気が戻る。


「それだと私が他の家の人に食べ物をねだる悪い子だね」

「それを言うなら、俺だって美羽に晩飯をねだってる悪い奴だろうが」

「ふふ。なら悪い子同士、明日もよろしくね」

「ああ、よろしくな」


 寒空の中、ぎこちない関係を笑い合うのだった。

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