第37話 予想外の邂逅

「おかえりなさい、悠斗」


 美羽の誕生日から五日が過ぎた金曜日。これまでと同じくランニングから帰ってくると、美羽ではない女性が家に入った悠斗を迎えた。

 四十を過ぎてもまだまだ若く見え、艶のある黒髪を肩まで伸ばした姿は二ヵ月前と何ら変わっていない。

 とはいえ目の前の女性がここにいるのはあまりに予想外であり、思わず顔が引きってしまう。


「……ただいま、母さん。帰ってくるのは明日じゃなかったのか?」


 悠斗の母である結子ゆいこが帰ってくるのは明日だったはずだ。

 だからこそ今日は普段通りに過ごし、美羽には明日家に来るのを遠慮してもらおうと思っていたのだから。

 もしや悠斗の方が間違っているのかと確認すれば、結子は違和感を覚えるほどのにこやかな笑みを浮かべた。


正臣まさおみさんの仕事が思ったより早く終わったの。だから偶には一日早く帰ろうかと思っただけよ」

「一言くらい連絡してくれても良いじゃないか」

「連絡して何が変わる訳でもないし、別にいいかなと思ってたんだけど……。早く帰ってきて正解だったわ」

「……勝手な事をしてごめん」


 自分の家に帰るのにわざわざ連絡するのも変だという結子の言い分も分かる。

 それに、いつもの悠斗であれば連絡を受けたところで「分かった」としか返さなかっただろう。

 だが、今回は美羽がリビングにいるのだ。

 悠斗がランニングに出掛けた際に両親が帰ってきた事も含めて、あまりにタイミングが悪すぎる。

 面白い物を見つけたかのように笑む結子に頭を下げると、首を横に振られた。


「悠斗の事だから何か事情があるんでしょ? それにあの子の様子だと変な事はしてないようだし、説明してくれれば大丈夫よ」

「……東雲はどうしてる?」

「あの子、東雲って言うのね。あんまりにも取り乱して泣きそうだったから、さっきまで私と正臣さんでなだめてたわよ」

「あぁ……」


 結子が発した言葉から察すると、美羽は事情を話せないほどに取り乱したようだ。

 がっくりと肩を落とせば、気まずそうに眉を寄せた結子がくるりと背を向ける。


「とりあえず、話はリビングで聞くわ」

「お願いします」


 いつか両親に美羽の事を説明しなければと思っていたが、まさか今日だとは予想していなかった。

 重い溜息を零し、結子の後を追ってリビングへと向かう。


「あ! ゆ……芦原くん!」


 リビングに着くと、結子の言う通り美羽は肩を縮こまらせて震えていた。

 悠斗を見た瞬間、顔を安堵に染めたのでかなり心細かったのだろう。

 美羽からすれば悠斗だけしか帰ってこないはずの家に、いきなり大人二人が帰ってきたのだから無理もない。

 こんな状況にさせるつもりなどなかったと、美羽の傍に行って頭を下げる。


「まさか今日親が帰ってくるとは思わなかったんだ。驚かせて本当にごめん」

「えっと、どういう事? どうしたらいいかな? ごめんなさい、帰った方がいいよね?」


 美羽がきょとんと首を傾げるだけでなく、おろおろとせわしなく体を揺らす。

 完全に混乱しているようなので、まずは落ち着かせるべきだ。

 声を掛けようとするが、外見だけ見れば三十代にも思える悠斗の父――正臣が先に口を開く。


「まあまあ、とりあえず全員座りなさい。それと、何度も言っているように怒鳴ったりはしないから、君も落ち着いてくれるかい?」

「は、はい。すみません」


 正臣にうながされ、美羽が戸惑いながらも落ち着いた。

 ホッと胸を撫で下ろしつつ椅子に座ると、正臣が柔らかい笑みを美羽に向ける。


「さて、じゃあ私の方から説明しよう。……とは言っても大した事はないんだけどね」





「事情は分かりました。正臣さん達が偶々早く帰ってくると、見知らぬ人――私ですけど――がいて焦ったと」

「そして、東雲さんは悠斗しか帰ってこないはずなのに、いきなり私達が帰ってきて混乱してしまったんだね」


 どこまで話すか迷ったものの、普通は他人の家で料理などしない。

 結局、正臣達には美羽の家庭事情以外の殆どを話した。

 そして自己紹介を含めて事情を説明し終えると、美羽が深く頭を下げる。


「……本当に、すみません」

「いやいや、本来であれば悠斗に一言連絡を入れるべきだったんだ。こちらこそすまないね」


 話を聞いただけでも、正臣達は美羽が訳ありな事を把握してくれたらしい。

 深くは踏み込まず、美羽の謝罪に今度は正臣が頭を下げた。


「それに、料理についてもありがとう。このご時世、料理が出来なくても生きていけるが、悠斗の栄養バランスは心配だったんだ」

「いいえ! 私の方こそ勝手にキッチンを使ったり家に入ってすみませんでした!」

「それに関しては俺が許可したんだから、東雲がそんなに気に病まないでくれ」


 美羽が今にも泣きそうに顔を歪めているので、美羽のせいではないと割って入った。

 楽観視している訳ではないが、正臣と結子の性格は良く分かっている。きちんと説明すれば、頭ごなしに怒りはしないはずだ。

 予想通り、正臣と結子の顔には微笑みが浮かんでいる。


「その通りだよ。むしろ東雲さんを買い物に行かせた挙句あげく、公園で待たせているとなるとそっちの方で悠斗を怒らなければいけなかったかな」

「キッチンや家も気にしないでいいのよ。綺麗に使ってくれてるし、私が帰ってきて掃除する手間が省けたわ。ありがとう」

「そんな事ありません! あの、ご迷惑を……」

「東雲さんがこの家に来る事は迷惑でも何でもないさ。強いて言うなら、悠斗が私達に何も連絡しなかった事が不満かな」


 よくよく考えると、正臣の言う通り一言でも連絡していれば、ここまで大事にならなかったのだろう。

 しかし、ただの友人にしては悠斗と美羽は変な関係なのだ。

 この状況の元凶は間違いなく悠斗だとしても、事前に説明など出来はしない。


「……ごめん」

「ふむ……。彼女じゃないんだね?」

「か、彼女ですか!?」


 正臣の言葉に美羽が素っ頓狂とんきょうな声を上げた。

 どうしたのかと思って隣を見ると、耳まで真っ赤にして美羽がぶんぶんと首を振っている。


「違います! ただ家に居させてもらっているだけで、料理を作るのはそのお礼なだけです!」

「……そういう事なんだ、父さん」


 恥ずかしがっているように見えるが、おそらく急に指摘されて動揺しているだけだ。

 そんなに勢いよく首を振られると、美羽を恋愛対象として見ていない悠斗でもほんの少しだけ傷つく。

 これで分かってくれただろうと苦笑しつつ正臣を見れば、正臣も似たような笑みになった。


「なるほど、良く分かったよ」

「ふふ、これは面白そうだわ」

「何が面白いんだよ、母さん」


 にやにやと笑う結子にじろりと視線を送るが、どこ吹く風と言わんばかり悠斗を無視して結子は美羽に視線を向ける。


「美羽ちゃん、今日はご飯を作る予定だったのよね? 折角だし、手伝うから私も食べていいかしら?」

「え、でも食材がそんなになくて……」

「じゃあ連絡しなかった罰として、悠斗に行ってもらいましょう。それでいいわね?」

「ああ、それくらいなら喜んでだ」


 結子の目が輝いているので、おそらく美羽と話す機会が欲しいと思って厄介払いをされたのだろう。

 ここまでややこしい事になった罰としては優し過ぎるくらいだ。

 だが美羽は納得していないようで、顔を曇らせる。


「でも芦原くんはランニングから帰ってきたばっかりでしょ? 疲れてるんだから、私がやるよ」

「普段の習慣なだけで、買い物に行けないくらいにへばってる訳じゃない。これくらい気にすんなって」


 最近は美羽の厚意に甘えてゆっくりしていただけで、少し前までは自分で風呂等の準備をしていたのだ。たかが買い物くらい辛くも何ともない。

 もう良い時間なのですぐに買いに行くべきだろうと立ち上がると、向かいの正臣も立ち上がった。


「じゃあ私も行こうかな。家でただ待っているのも暇だからね」

「お願いね、正臣さん」

「あ、あの……」

「いいのいいの、あの二人に任せておきなさい」

「そういう事だ。結子、何を買うかは後で連絡してくれ」

「分かったわ」


 先へ先へと進んでいく状況に美羽はついていけていないようで、目を白黒とさせている。

 こうなった以上諦めてくれと苦笑を向けて、正臣と一緒にリビングを後にした。





「正直なところを聞かせてくれ。悠斗は東雲さんの事をどう思ってるんだい?」


 スーパーへと向かっている途中、隣を歩く正臣から真剣な声が掛かった。


「友人だよ。家の鍵を渡したり料理を作ってもらってるとか、おかしいところはあるけど、それだけだ」

「悠斗はそれでいいのかい?」

「いいも何も、俺が東雲と釣り合う訳がないだろ。鍵に関してはいつか必要がなくなるだろうし、その時に返してもらう、それでいいかな?」


 当たり前の事を、決まりきっている事を返した。

 鍵に関しては勝手な事をして申し訳ないと思うが、美羽なら大丈夫だという確信がある。


「鍵に関してはそれでいい、あの子が悪さをするとは思えないからね。でも、悠斗はまだあの時の事を――」

「父さん、その先は言わないでくれ。それにあんなの、よくある事じゃないか」

「……そんな顔で言われても説得力はないよ」


 ぽつりと正臣が呟いた言葉に聞こえないフリをしつつ、寒空の中足を動かした。

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