第26話 二人きりの晩飯

「おかえり、悠くん」


 学校から帰って来ると、柔らかい笑顔を浮かべた美羽に迎えられた。

 昨日から名前呼びになったが、まだ呼ばれるのには慣れない。

 背中がむず痒くなる感覚を無視してスリッパに履き替える。


「ただいま」

「すぐランニングに行く?」

「そうだな。部屋でだらけるとやる気が無くなりそうだし、すぐ行くよ」

「分かった。じゃあお風呂の用意するね」

「悪い、ありがとな」


 ここ二週間程度ですっかり慣れたやりとりをしつつ、二階に上がってトレーニングウェアに着替える。

 準備を終えて降りると、ちょうど美羽が玄関に戻ってきていた。


「いってらっしゃい。気をつけてね」

「ああ。東雲は気楽にくつろいでいていいからな」


 昨日までとは違い、今日からは美羽と一緒に晩飯を食べるのだ。

 それに丈一郎に帰りが遅くなってもいいと言われているので、焦って帰る必要はない。

 せっかく気楽に過ごせるのであれば、家事に追われなくてもいいだろう。

 そう思ったのだが、美羽の眉が下がって唇がほんの少しだけ尖った。


「悠くん、東雲じゃないよ」

「あ……。すまん、つい癖で」


 どうやら美羽は意地でも名前呼びに変えたいらしい。

 素直に謝罪すると、瞳に呆れと期待を混ぜて美羽が見つめてくる。


「さあ、やり直し」

「……美羽」


 正面から顔を見るのが気恥ずかしくて、微妙に目を逸らしつつ応えれば、美羽が嬉しそうに表情を緩めた。


「ん、ごーかく。じゃあ改めて、いってらっしゃい」

「行ってきます」


 こうして送り出されるのもしばらく続けたが、どうしても慣れない。

 柔らかい笑顔に背を向けて、悠斗は走りだした。





「いただきます」

「いただきます」


 二人同時に手を合わせて、目の前にある鮭のムニエルに箸を伸ばす。

 悠斗の家で昼飯を摂る時はあったのだが、晩飯を摂るのは初めてだ。

 違和感を感じているのか、美羽が苦笑を浮かべる。


「友達の家で夜ご飯を食べるなんて初めてだよ」

「しかも自分で作ったものだからな」

「そうそう。……まあ、誰かの家で料理をする事自体、悠くんの家が初めてなんだけどね」

「そりゃあそうだろ。でも、一緒に食べれて俺は嬉しいけどな」

「どうして?」


 ぱちりと瞬きしながら美羽が首を傾げた。

 料理を作り、そのまま帰るというのが普通だという態度に、ほんのりと呆れの目線を送る。


「だって折角美羽が作ったのに、それを作った本人が食べないなんて悲しいだろ。今までは家に晩飯があったから言わなかっただけで、本当はこうして食べて欲しかったんだぞ」

「そ、そうなんだ……」


 丈一郎には悪いとは思うが、美羽に自分の飯を食べてくれるのは嬉しい。

 ただそれだけなのに、なぜか美羽がほんのりと頬を赤らめて悩ましそうな顔をしている。


「どうした?」

「ううん、何でもない。あ、そう言えば、これからお金はどうしようか?」


 ふるふると美羽が首を振って悠斗の疑問を流した。

 その行動には疑問を覚えるが、大した事ではないだろう。

 そして、お金に関しては悠斗に一応の考えがある。


「俺が七割持つよ。作ってくれるお礼だ」

「駄目、それじゃあ悠くんが払い過ぎだよ。料理の手間なんて大した事ないし、ちょうど半分にしない?」

「いやいや、買い物と料理をさせておいて半分ずつなんて、そっちの方が問題だろうが」


 いくら一緒に食べるとはいえ、美羽の負担が大きい今の状況で半分ずつ出すなど許されるものではない。

 半分など絶対に納得しないという意思を込めて美羽を見つめると、じっとりとした目を返された。


「むー。じゃあ私が四割でどう? 三割は絶対に嫌だからね」

「……仕方ない、それでいくか」


 ランニングをしているだけで料理と風呂の準備が出来るのだ。

 悠斗としては三割にしたかったのだが、はしばみ色の瞳には強い意志が灯っている。

 この様子だと美羽は納得しないと思うので、小さく肩を落としつつ受け入れた。


「本当は全額持ちたいくらいなんだがな。金銭的に無理だ」

「そんな事認めないよ。一緒に食べるんだから、お互いにお金を出すのが普通でしょ?」

「まあ、そうだけど。男が全部出すべきだって言われたらどうしようかと思ってた」


 親から生活に十分なお金をもらっているとはいえ、二人分のお金を出し続けるのはあまりに辛い。

 美羽が全額払えなど言わないとは思っていたが、流石に不安だった。

 苦笑に安堵を混ぜて小さく溜息をつくと、美羽の瞳が納得いかなさそうにすっと細まる。


「何それ。私がそんな事を言うと思ってたの?」

「一応の確認だな。男が出すべきだっていう考えの人もいるだろ?」

「凄まじい偏見だね……」


 美羽に呆れきった目を向けられたが、そういう人はいるはずだ。

 幸いにも悠斗は出会った事などないが、常に全額男に払わせる人とはあまり関係を持ちたくはない。

 とはいえ美羽程の美少女に絶品の晩飯を作ってもらえるのならば、それでも構わないとは少しだけ思った。

 そう思わせるだけの容姿と料理の腕を持つのだから、今の悠斗の環境がどれだけ恵まれているか分かる。


「自分で言うのも何だけど、私はそんな事言わない。というよりその考えが理解出来ないかな」

「なら一安心だ」

「一緒にいる人に全てを払わせるなんて変だよ。まるでお金の為に一緒にいるみたいだし、そういうのは嫌」

「俺もそういうのは嫌だし、同じ考えで良かったよ」

「でも、ほんの少しでも私がそういう考えをするって思ったんだよね?」


 じろりと鋭い視線に射抜かれ、背中に冷や汗が流れ出す。

 こういう所は丈一郎に似ているのだなと妙に冷静な思考をしつつ、深く頭を下げた。


「悪かった。でも、ほんの少しだけだ。これまでの美羽からして有り得ないとは思ってたぞ」

「それなのに疑ったんだ?」

「悪かったって」

「んー、どうしようかなー」


 面白いものを見つけたかのように、美羽の唇が弧を描く。


「じゃあお詫びとして、今度家を掃除する許可をちょうだい? 無断であちこち触るのは駄目だからね」

「それはお詫びじゃないと思うんだが。というか、そこまで散らかってるか?」


 全く釣り合っていない美羽の要求に、どういうつもりなのかと訝しむ。

 そもそも、ある意味では両親から家を任されていると言えるので、それなりには片付けている。

 しかし、美羽からすれば掃除が甘かったのかもしれない。

 不快にさせていたら申し訳ないと思いながら尋ねれば、美羽が手を横に振る。


「散らかってないよ。むしろ男の人の家にしては綺麗だと思う。……まあ、丈一郎さん以外の人の男の人の部屋なんて知らないんだけど。しかもあの人綺麗好きだし」

「ならどうして片付けなんて言い出したんだ?」

「丈一郎さんはずっと家にいるから隅々すみずみまで手が届くけど、悠くんは学校があるでしょ。細かいところまで掃除してないなと思って」

「……すまん」


 一軒家を一人で掃除するのはあまりに大変で、美羽の言う通り細かい所まで掃除の手が届いていない。

 両親も最近帰ってきていないので、汚れが目立ってしまったのだろう。

 とはいえ、それは本来悠斗がやるべきものだ。間違っても美羽にやらせるものではない。


「なら今度の休みにちゃんと掃除するよ」

「じゃあその時に手伝わせて?」

「もうお詫びって言葉じゃ片付けられない気がするんだが?」


 先程の件が有耶無耶になっているので話を戻すと、美羽がおかしそうに笑った。


「正直そこまで怒ってないからね。悠くんなりにお金を気にしてくれた事くらい分かってるよ」

「……そうか」


 穏やかな微笑みを浮かべ、茶色に赤を混ぜた瞳が悠斗を見つめる。

 なにもかも見透かされたという事実が羞恥を生み出し、思わずそっぽを向いた。


「だから、これは単に私の我が儘。ね、いいでしょ?」

「はぁ……。もう好きにしてくれ」


 他人の家を掃除するなど美羽にとって何一つメリットなどないと思うのだが、それでも美羽は嬉しそうに表情を緩める。

 どうせ何を言っても無駄だろうと、溜息をついて許可したのだった。

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