第17話 不可抗力

「……」

「……」


 黙々とペンを走らせる音が響く。

 最初から美羽にあれこれ聞くのは悪いだろうと思って、まずは暗記系の科目だ。

 ノートにひたすらに書き込んで暗記をしていくが、流石に一時間勉強しっぱなしとなれば集中力が途切れてくる。

 ちらりと正面にいる美羽を見ると、ピンと背筋を伸ばして綺麗な所作しょさで勉強していた。


(こういう姿は大人っぽいな)


 慌てたり恥ずかしがったり、あるいは怒った時は、美羽が年相応かそれ以下に見えるほど幼く感じる時がある。

 だが姿勢を正して勉強している姿はお淑やかで品があり、普段よりも大人っぽく見える。

 これまで見た事のないワンピースなのも、より美羽を上品に見せているのだろう。

 美しい姿をぼんやり眺めていると、美羽がふと顔を上げた。


「じっとこっちを見てどうしたの? 何か分からない所があった?」

「……いや、何でもない」

「そう? 分からなかったら遠慮なく聞いていいからね」

「ああ」


 真面目に勉強している姿をじろじろ見るのは失礼だと反省し、気合を入れなおして勉強を再開する。

 それから更に一時間。完全に集中力が切れ、ペンを置いて大きく息を吐いた。


「んー!」


 背を伸ばして凝り固まった体を解す。テスト直前の追い込み以外でこうして勉強したのは久しぶりだ。

 美羽も一息つきたいのか、勉強道具を脇に置いて立ち上がった。


「お疲れ様。休憩しようか」

「そうだな。流石に限界だ……」

「ふふ。ちょっと待っててね」


 微笑ましいものを見るような笑顔で美羽がキッチンに向かった。ごそごそと音がしているので、冷蔵庫と棚から何かを取り出したらしい。

 すぐに準備を終えたであろう美羽がトレイを運んでくる。


「はい。疲れた時には甘い物だよ」


 トレイには作り置きのお茶が二つと、お茶請けに一口サイズのチョコレートとクッキーが入っていた。

 確かに疲労した頭に糖分は有難い。とはいえ、そんな物などキッチンには無かったはずだ。


「ありがとう。……にしても、そんなものあったっけ?」

「勉強道具と一緒に持ってきて、芦原くんが二階に行ってる間に冷蔵庫に入れておいたの」

「なるほど。いくらだ?」


 個人で食べる用ならまだしも、美羽がお茶請けに入れている量はどう考えても一人分ではない。

 全て払わせるのは駄目だと思って財布を持つと、美羽がぶんぶんと顔の前で手を振った。


「私が勝手にやったんだから、いらないよ!」

「でも、一緒に食べるんだから……」

「いいから気にしないで! どうぞ!」

「はあ……。分かったよ」


 頬を赤く染めて必死に懇願されれば、ここで意地でも払うという行動は取れなくなる。

 もしこれが続くようなら何か考えなければならないだろう。お菓子で言い争いはしたくない。

 とりあえず納得してチョコレートに手を伸ばした。

 包装を解いてチョコを口の中に放り込むと、それは口内の熱で少しずつ溶けていき、糖分が悠斗の体に染み渡っていく気がする。


「本当にありがとな」

「どういたしまして。じゃあ私も……。ん、美味しい」


 チョコを食べて顔を綻ばせる美羽の姿は先程の勉強の時のような大人びたものではなく、年相応の少女らしい姿だ。

 それだけでなくクッキーを両手で掴んで食べるのだから、なんだか小動物を見ているような気がした。


「甘い物、好きなのか?」

「うん、好きだよ。普段から食べる訳じゃないけど、こういう贅沢があるから止められないの」

「……これ、贅沢でも何でもない気がするんだが」


 悠斗が言える立場ではないが、作り置きのお茶に市販のチョコとクッキーだ。こんなもの贅沢でもなんでもないと思う。

 服はかなり上等な物のような気がするので、お金はあるはずだ。もしかすると美羽の家はかなり厳しいのかもしれない。

 つい思った事をそのまま口にすれば、美羽が小さい苦笑を浮かべる。


「私としては十分贅沢なんだよ」

「そうか。……にしてもよく集中力が続くな、正直キツいんだが」


 薄い膜のような壁には触れずに話を逸らす。とはいえ悠斗の疲労も本当の事だ。

 このままだと後半戦はバテるだろうと告げると、美羽が意外そうに目を見開く。


「そう? まだまだいけるんだけど」

「本物の勉強家がいる……」

「慣れてるだけだよ。でも、他にやる事もないしなぁ……」


 美羽がそう言って周囲を見渡した。リビングにはテレビが置かれているだけで、後はソファとテーブル、椅子くらいしかない。

 この部屋の状況を前から知っていたからこそ、午後は勉強しかないと思ったのだろう。

 だが、ここはあくまで家族が集まる場所だ。いくら実質的に独り暮らしをしている悠斗でも、この部屋まで自室の荷物を出そうとは思わない。

 逆に言うなら、時間潰しの道具は自室にある。


「ゲームとか本ならあるけど、持って来ようか?」

「え、持ってるの?」


 心底意外そうに驚かれると流石に来るものがある。悠斗は美羽に一体どんな風に見られていたのだろうか。

 少し気持ちが沈むが、美羽は悠斗の部屋を見た事が無いので疑う気持ちも理解出来る。


「俺だって自分の部屋があるんだから、普段過ごしてる場所にいろいろ置くだろ」

「あぁ、そっか、そうだよね」


 納得がいったように美羽が頷いた。

 普通家には自室があると思うのだが、美羽は違うのだろうか。

 そんな疑問が頭によぎるが、どう考えても地雷なのでやめておくべきだろう。


「やる事がないなら持って来るけど?」

「うーん。芦原くんさえ良ければ、明日にしない?」

「明日か?」

「そう。今日は勉強して、明日芦原くんに予定がなければ遊ばせて欲しいんだけど、駄目?」


 良い事を思いついたというように、美羽がにっこりと笑みを浮かべて提案してきた。

 明日も今日と同じく予定はないので、美羽が来るのは問題ない。

 提案を呑む事で明日の日中も勉強するという可能性がなくなるのだから、悠斗にとっては美味しい話だ。

 そうと分かれば、これからの勉強も何とか乗り切れるだろう。

 そもそも今勉強している理由も美羽から言われたご褒美と、彼女の勉強への真っ直ぐな取り組みに感化されただけであって、決して勉強好きになった訳ではない。

 それに分からなければ美羽に聞いてもいいので、自分一人で勉強するよりはかどるはずだ。


「じゃあ今日は勉強して明日は遊ぶか」

「うん。ありがとね」

「代わりと言っては何だけど、お願いがあるんだが」

「何かな?」

「さっきまでで暗記系のものは殆ど終わったんだ。だから、これから聞く回数が多くなるけどいいか?」


 先程までの二時間は一人で勉強する時よりかなり集中できた。

 その結果、後はテスト直前に多少勉強するだけで良い程に進んでいる。

 もちろん満点ではないとは思うものの、そこまで暗記系を頑張るくらいなら計算系の科目を勉強する方が効率が良いはずだ。

 分からなければ聞いていいかと改めて尋ねると、美羽が嬉しそうに笑った。


「全然いいよ! 私に任せて!」





「東雲、悪い。ここ、どうしても計算が合わないんだが……」


 勉強を始めて二十分。基礎の問題を終えて応用問題に手を出したところで詰まってしまった。


「ん、どこ?」

「えっと、ここなんだけど――っ!」


 遠慮なく頼ったのだが、問題が発生した。

 美羽が悠斗の詰まっている個所を見ようと、テーブルから身を乗り出してきたのだ。

 その結果、ワンピース姿という事も合わさって胸元が見えてしまっている。

 普段意識などしなかったが、それなりに膨らみがあるのは意外だ。あくまで体型の割に、だが。

 雪のように白い肌に目が釘付けになり、ちらりと薄桃色の布地が目に入った瞬間、悠斗は勢いよくノートに目を向けた。


(……最低だ、俺)


 美羽は善意で勉強を教えようとしてくれているのだ。それなのに悠斗がよこしまな感情を抱いていてはあまりに申し訳ない。

 自分の節操の無さに呆れて頭をガシガシと掻く。


「うん? どうしたの?」


 悠斗の突然の行動に美羽が不思議そうな声を上げた。

 危険地帯に視線を向けないように美羽の顔を見ると、首を傾げながら無垢で悠斗を信頼している目を向けられていた。


(言うべきか、黙っておくべきか……)


 ここで正直に言えば、美羽は覗き込むのを止めてくれるだろう。だが、それは美羽を異性として意識していると暴露するのと同じことだ。

 そんな事をすれば悠斗は信用を失い、美羽は再び警戒する。結果、その後に残されるのは気まず過ぎる空気だ。

 下手をすれば、今日の勉強会や明日の遊びが無くなってしまうかもしれない。

 かといって、ぎくしゃくするのを恐れて何も言わないのも不誠実な気がする。覗きのような行為はあまりにもはしたない。

 ぐらぐらと天秤が揺れ続けるのはそう長い間ではなかった。


「……その体勢は駄目だ」


 怒られると、引かれると覚悟して告げた。

 言って気まずくなるか、言わずに罪悪感を抱え込むか。どちらを選んでも苦しいのなら、誠実な方を取りたい。

 既に見てしまっている時点で誠実でも何でもない気がするが、それでも黙っているのは許せなかった。


「でもこうしないと……」

「見えてるんだよ。目を下に向けてくれ」

「下? でもあるのは私の腕――っ!!」


 視線を下に滑らせて悠斗の言わんとしている事を察した瞬間、美羽がびくんと体を震わせた。

 勢いよく顔を上げ、声にならない悲鳴を出しつつ悠斗から距離を取る。

 その顔は、燃えて火傷したのではないかと思うくらいに真っ赤だ。


「あ、あの、その……」

「……悪かった」


 不可抗力だとはいえ、ここは悠斗が謝るべきだろう。恥ずかしい思いをしたのは美羽なのだから。

 余計な言い訳をせずに謝ると、美羽は瞳を潤ませて上目遣いで悠斗を見た。


「…………」


 穴が空きそうな程の強い視線に、たっぷりと羞恥が込められた瞳に、呻き声を出さないようにするのが精一杯だ。

 普通、こういう場合は怒るはずだ。なのに恥ずかしそうにするだけなのは非常に心臓に悪い。

 どうすればいいか分からずに口を開いては閉じてを繰り返していると、美羽がぎゅっと目を閉じて大きな溜息を吐き出した。


「ごめんね。私の行動が悪かったんだから、芦原くんは悪くないよ」

「いや、それでも見てしまったものは――」

「いいから! お願いだから思い出させないで……」

「………ハイ」


 今にも泣きそうに声が震えているので、先程の話に戻ると本当に泣くかもしれない。

 お互いに先程の事を忘れようという事になり、勉強に無理矢理話を戻す。


「それで、分からない所があるんだが」

「ごめん、これからは芦原くんがこっちに乗り出してきてくれないかな?」

「……まあ、それが一番だな」


 美羽とて勉強がある以上、悠斗に付きっきりになる訳にもいかない。そして隣に座って近い距離で教えるような関係でもないのだから、その対策が一番良いだろう。


「えっと、じゃあここの問題の――」


 予想通りにぎくしゃくしつつ、けれどどこかむず痒い空気の中、美羽にアドバイスをもらう。

 その後、先程見た真っ白な肌と薄桃色の布地を頭から消そうと、悠斗は必死に勉強に取り組むのだった。

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