第15話 隣の家の知り合い

「おかえりなさい」


 蓮と多少喋ってから家に帰り着くと、穏やかな笑みを浮かべた美羽が出迎えてくれた。

 昨日言っていたように、遠慮せず家に入っていたらしい。


「ただいま」


 他人に出迎えられるのが気恥ずかしくて小さな笑みを返すと、美羽も同じなのかほんのりと頬を赤らめて悩ましそうな顔になる。


「自分の家じゃないのに、帰ってくる人を出迎えるなんて変だね」

「そうだな。俺だって親以外の人に自分の家で出迎えられるのは変だと思うぞ」

「ふふ、でも鍵をもらっちゃったからね。やめないよ?」

「ああ。玄関や公園で待たせるよりかこっちの方がずっと良いから、そうしてくれ」


 美少女のお迎えを受けられるのはご褒美でしかないという理由もあるが、絶対に言えないので口をつぐむ。

 ただ、これまで美羽は挑戦的な言い方をほとんどしなかったはずだ。

 先程までとは違い、小悪魔めいた笑みをしているのも気になる。


「もしかしてこれ、昨日の仕返しか?」

「そうだよ、これが私なりの悪戯。毎日出迎えてやるんだから」

「……まあ、東雲らしいとは思うけどな」


 悠斗の予想通り、全く悪戯になっていない美羽の行為にひっそりと笑う。

 どうやっても悪い方にいかないのだから、やはり美羽に鍵を渡したのは間違っていなかった。


「今日の晩飯は?」

「二日連続肉料理で申し訳ないけどハンバーグだよ。昨日と同じようにサラダもたっぷりだけどね」

「味が違うんだし、そんな事に気にすんな。期待してるぞ」

「ありがとう。頑張るね」


 昨日の生姜焼きが美味しかったので今日も楽しみだ。

 胸を弾ませながらスリッパに履き替えて二階に向かうのだった。





「料理ありがとな」

「ううん。何か変えて欲しい所があったら言ってね」


 ランニング後の風呂から上がってしばらくすると、美羽が晩飯を作り終えて玄関に向かった。

 今日も同じく感謝を伝え、美羽が靴を履き替えて玄関の扉を開ける。


「分かった。それじゃあ――」

「あれ? 芦原じゃない人だ」


 美羽に別れの挨拶をしようとした瞬間、開け放たれた扉の向こうから甘ったるい声が聞こえてきた。

 その声に先程までの穏やかな気持ちが急激に冷え、声の主に視線を向ける。

 悠斗の家の門の先には、立たせた髪を茶色に染めた背の高い男子高校生と、黒髪をセミロングにした女子高校生が立っていた。


「久しぶりだな、悠斗」

「……こんな時間に珍しいな。どうしたんだよ」

「今日は部活が休みでデートしてたんだ。それで帰るのが遅くなったんだ」

「そういう事か」


 正直なところ顔を見たくなかったし、声すら聴きたくない二人だ。

 いつかは会うと思っていたが、こんなに早く出くわすとは思わなかった。


「えっと、芦原くん。その人達は?」

「ああ、悪い。男の方は平原直哉ひらばらなおや、女の方は篠崎茉莉しのざきまつり。同じ中学出身の知り合いで、ここの近くの高校に通ってる」


 悠斗は事情があって今の高校に進学したが、悠斗の家の近くには進学校があり、直哉と茉莉はそこに通っている。

 そういえば美羽は近くに住んでいるのに中学校で見かけなかったなと疑問を覚えたが、今はどうでもいい事だ。

 困惑の表情で悠斗を見つめる美羽に短く説明すると、直哉達がにこやな笑みを浮かべて美羽に近づく。

 流石は美羽と言うべきか、すぐに柔らかな笑みに表情を変えた。


「平原直哉。よろしくな」

「篠崎茉莉だよ。よろしくね」

「うん、東雲美羽。よろしくね」

「にしても悠斗がこんなに可愛い人を彼女にしてるなんてな。驚きだ」

「私も。というか、隣の家に居るのに全く気付かなかったなぁ」

「え、えっと……」


 直哉達の勢いに押され、再び美羽が顔を曇らせて悠斗を見る。

 あまり話したくはないが、強引に打ち切ろうとしたところで会話を続けようとするだろう。

 それに、変に引っ掻き回されるくらいなら悠斗が手短に話した方がいい。


「直哉、東雲は彼女じゃない」

「そうなのか? でも、こんな時間まで遊んでるんだから――」

「絶対に違う。俺と付き合うなんて東雲に失礼だろ」


 冷え切った声で直哉の勘違いを訂正すると、直哉の顔が一瞬だけ曇った。


「かもしれないな。東雲さん、ごめん」

「……ううん、気にしないで」

「ふぅん……」


 気まずそうな笑みで謝罪を受け入れる美羽を茉莉が横目で眺めつつ、何の感情も浮かんでいない瞳で悠斗を見る。

 だが、すぐに視線を美羽へと戻した。


「ね、東雲さん。今度遊びに行かない? うわぁ、可愛い。気付かなかったなんて、本当にもったいないなぁ」

「え? あ、芦原くんはどうするの?」

「俺は行かない。東雲が行きたいのなら行ってくればいい」


 悠斗がこの三人と一緒にいると、明らかに一人だけ浮いてしまう。

 直哉と茉莉はどちらも人目を引く顔の整い方をしており、美羽と一緒に居ても違和感がないのだから。

 そもそも直哉達と一緒に行動するなど、過去の馬鹿な行いの結果を見せつけられているようで絶対に嫌だ。

 美羽の行動を縛る権利など無いので悠斗の意志を伝えると、美羽が不思議そうに首を傾げて悩みだす。


「んー」

「いいじゃん、行こうよ!」

「……ううん、止めとく。ごめんね」

「えぇー! なんで!?」


 美羽が首を振った事で、茉莉の顔が驚愕に彩られた。

 美羽の態度になぜだか驚きと安堵あんどが胸に込み上げる。

 自分の感情の意味が分からずに困惑していると、美羽が申し訳なさそうに苦笑した。


「本当にごめんね。それよりご飯は大丈夫なの? デート帰りなんでしょ?」

「むー。ならいつか行こうね!」

「うん、いつかね」


 流石に腹が減ったのか、直哉達が悠斗の家の門へと歩いていく。

 その姿を確認し、美羽が悠斗に向き直った。


「何かバタバタしちゃったけど、帰るね」

「ああ。それじゃあな」

「え? ……芦原、それはないでしょ」


 このまま扉を閉めて終わりだと思ったのだが、茉莉の冷たい声が聞こえた。

 門の方を見ると、呆れと怒りを混ぜた瞳が悠斗を射抜いている。


「なんで家の前で別れるの? 普通送るでしょ?」

「……それは」

「あの、篠崎さん――」

「ありえない。女心が分かってないよ。ねえ直哉?」

「悠斗、出来れば送った方がいいと思う」


 怒りで美羽の言葉も耳に入らないのか、茉莉が吐き捨てるように悠斗を責めた。

 直哉も気まずそうにしながら同意したので、思いは同じなのだろう。

 一般的に見て、悠斗の対応が間違っている事など分かっている。何も知らない茉莉が怒るのは当然だ。

 恋人でもない異性の家で、一人分の飯を作るような状況を察せというのも無理な話なのだから。

 ただ、悠斗の事情を直哉達に話す義理もなければ、話す意欲もない。

 この場を乗り切る為に、唇の端を吊り上げて美羽を見る。


「俺が間違ってた。送るよ」

「え、でも――」

「それが男の役目だからな。送らせてくれ」

「……分かった。でも忘れ物したから、ちょっと待ってて」


 美羽が心配そうに悠斗を見た後、再び家に戻って行く。

 その後ろ姿を見送っていると、はぁ、と溜息が背中から聞こえた。


「忘れ物があるかどうか、最後に確認した方がいいよ? 東雲さんへの対応が雑過ぎると思う」

「そうだな。気を利かせるのが難しいってのを実感したよ」

「今度はちゃんとしないと嫌われるからね?」

「気を付ける」


 茉莉の言葉が頭に入ってこないので適当に流していると、美羽が帰ってきた。

 悠斗の顔を見て一瞬だけ顔を歪めたが、すぐ普段の笑みに切り替える。


「ごめんね。じゃあお願い」

「任せてくれ」

「それじゃあ俺達も行こうか。東雲さん、悠斗、また」

「東雲さん、またねー!」

「またね」


 どうやら茉莉の怒りは治ったらしく、直哉と手を繋いで隣の家に入って行った。

 すぐに悠斗達も歩き出すが会話など起きず、無言の空気が胸に詰まったようで息苦しい。

 何か話さなければと思って話題を探すと、謝らなければならない事があるのに気が付いた。


「悪い。料理、冷めるな」


 以前出来立ての料理を食べて欲しいと美羽が言っていたが、帰る頃には冷えきっているだろう。

 食べられなくなる訳ではないが、粗末そまつに扱ったのには変わらない。

 あまりに申し訳なくて歩きながら頭を下げると、美羽が「大丈夫」と柔らかな声を発した。


「多少は冷えるだろうけど、ラップをしておいたから大丈夫。帰ったら温めて食べてね」

「ラップ? でもラップなんて……」


 悠斗がリビングから出た時にはラップなどしていなかったはずだ。

 いつの間にそんな事をしたのだろうかと疑問に思っていると、美羽が自慢げな笑みを浮かべる。


「さっき忘れ物っていう事にしてラップをしにいったの」

「あぁ、そういう事か。気が利かなくて悪いな」


 本来であれば悠斗がするべきだった行動を、美羽にさせてしまったようだ。

 罪悪感に押されるままに再び頭を下げる。

 その後顔を上げると、美羽が凍った心を溶かすような、温かい笑みを悠斗に向けていた。


「いいんだよ。芦原くんに美味しいご飯を食べて欲しい。それだけなんだから」

「……何も聞かないのか?」


 先程のやりとりに違和感があった事、あえて悠斗が説明していない事など、気になる点は山ほどあるはずだ。

 だが、美羽はゆっくりと首を振る。


「聞かないよ。芦原くんが私の事を気遣って踏み込まないように、私も芦原くんが踏み込まれて嫌な事には踏み込まない」

「……ありがとう」


 胸にじわりと熱が込み上げ、返事の言葉が震えた。

 簡素なお礼しか出来ない情けなさに顔をうつむける。


「でも、どうしても聞いておきたい事が一つだけあるの」

「何だ?」

「さっきまでの会話、楽しかった?」


 その言葉は、悠斗の踏み込まれたくない場所にギリギリ届かなかった。

 精一杯の気遣いが込められた優しい声に胸が苦しくなりつつも、美羽の思いに応える為に口を開く。


「いや。何一つ、楽しくなかったな」

「……そっか、なら私の行動は間違ってなかったね」


 ぽつりと美羽が清々しそうな呟きを落とした。

 その言葉に何も返せずにいると、美羽の穏やかな微笑が向けられる。


「じゃあこれからはなるべく会わないように注意するね」

「気を遣わせてごめんな」

「いいんだよ。……それに、いくら芦原くんの隣に住んでるとはいえ、何も聞かず頭ごなしに怒る人と会いたくないし」

「……本当に、ありがとう」


 表情は笑顔なものの、美羽の言葉には棘があった。

 これまで悠斗を怒った時とは違う、本気の怒りが押し込められている声に、今日何度目かも分からないお礼を言う。

 以前美羽と別れた場所まで来ると、美羽は大きく深呼吸し、空気を入れ替えるように明るい笑みを浮かべた。 


「ねえ芦原くん。明日の午後は空いてる?」

「午後か? 空いてるぞ」

「なら、学校が終わってからすぐ家に行ってもいい?」

「……そういう事か」


 明日は土曜日であり、学校は午前中で終わる。

 今までは土曜日であっても夕方のあの公園で美羽を見ていたので、土曜日や日曜日は平日よりも公園に居る時間が長いのだろうか。

 本当のところは分からないが、美羽の頼みを断る理由などない。


「いいぞ」

「本当に、ありがとう」


 美羽が深く頭を下げて感謝の声を発した。

 これまでと同じく家に招待しただけなのに、律儀りちぎにお礼を言う美羽にひっそりと苦笑する。


「顔を上げてくれ。じゃあ明日の午後、待ってるから」

「うん。それじゃあまたね」

「ああ、またな。気を付けろよ」

「分かってる。ありがとね」


 柔らかな笑顔を浮かべる美羽に背を向けて歩き出す。

 家の前に着くと、いつかと同じように隣の家から笑い声が聞こえてきた。

 明るい声に再び心が冷え、そのままリビングに向かい、電子レンジで晩飯を温める。


「いただきます」


 一人で食べるハンバーグは、涙が出そうなほど美味しかった。 

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