第12話 大事な物

 これから時間潰しとして悠斗の家を利用する代わりに、美羽が晩飯を作ると約束した次の日。

 普段と同じくランニング終わりに公園に向かうと、大きな買い物袋を下げた美羽に水筒を手渡された。


「お疲れ様」

「ありがとな」


 喉を潤しつつ、ゆっくりと家へ向かう。

 これまでの癖でつい受け取ってしまったが、ふと疑問が浮かんだ。


「これからは俺の家で時間を潰すんだから、水筒を用意しなくてもいいんじゃないのか?」

「そういえばそうだね。でも別に苦労してる訳じゃないし良いでしょ? それに、水分補給は大切だよ?」


 何の負担にもなっていないと美羽がほがらかな笑顔になる。

 この調子ならば、悠斗が何を言ってもあれこれ理由を付けて準備するだろう。

 それに、水分補給は大切なので完全に否定もし辛い。

 強引な美羽にひっそりと苦笑し、コップに注いだお茶を一気に飲む。


「無理しない程度で頼む」

「任せて」

「代わりと言っては何だけど、預かるぞ」

「あ……」


 女性に荷物を持たせて自分が手ぶらで帰るなど納得が出来ない。

 そもそも悠斗は家に招待しているだけで、負担というなら料理を作る美羽の方が圧倒に大きいのだ。出来る限りその負担は肩代わりしなければ。

 料理を作らせている時点で悠斗が言える事でもない気がするが、今更約束を取り消せはしない。

 代わりという適当な理由をでっち上げて少々強引に買い物袋を奪い去ると、美羽が申し訳なさそうに眉を下げた。 


「ごめんね」

「こういうのは男の役目だって。気にするな」

「でも芦原くん、疲れてるでしょ?」

「運動は得意じゃないけど、ランニングだけでへばるような体力でもないから大丈夫だ」


 せめてもの運動という事で走っているだけで、へとへとになるまで頑張っている訳ではない。

 それに、自分が疲れているからと女性に荷物を持たせるような人間ではないつもりだ。


「あ、レシートをくれないか?」

「別にこれくらい気にしないでいいよ」


 美羽はこれまでと同じく家に帰ってから飯を食べるようで、料理を作ると言っても悠斗の分だけだ。他所よそで食べて帰るとなると家族に何か言われるのだろう。

 非常に心苦しいものの、そこは美羽の判断なので悠斗は口を挟めない。

 だが料理を作らせた上に材料費まで払わせるとなると、それはもう人でなしだ。

 当然の事として受け入れようとしている美羽に呆れた目を向ける。


「駄目だって。俺が食べる飯なのに、東雲に払わせてどうするんだ」

「一人分の食費なんて大したものじゃないよ」

「なら、その大したものじゃない食費を俺が払うのは当然だよな?」

「……頑固なんだから」

「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」


 変なところで意固地いこじになっている美羽に素っ気なく返しつつ、手を差し出して要求した。

 後回しにすれば誤魔化される可能性があるので、ここはきっちりすべきだ。

 絶対に引かないという意思を込めて美羽を見つめると、美羽が嬉しさと申し訳なさを混ぜた苦笑を浮かべた。


「ありがとね」

「お礼を言うのはこっちだって。それと、今日公園でどのくらい待ったんだ?」


 待たせる時間が長くなるようであれば、美羽には別の場所で待ってもらいたい。

 食材が大切なのはもちろんだが、これからは悠斗の家で時間を潰すのだ。わざわざ寒空の下公園で待つ必要などない。

 悠斗の質問に、美羽が顎に手を当てて考えだす。


「十分くらいかな。芦原くんのランニングの時間に合わせるようにしたけど、駄目だった?」

「それ、俺が来る時間に合わせるように買い物をしただろ」


 美羽が言ったのは買い物を終えて待っていた時間のはずだ。悠斗が着替えてからここまで走ってくる時間はカウントしていないだろう。

 制服姿なので、一度帰ってからここに来たという嘘は通じない。

 美羽の性格上誤魔化すだろうと思って問い詰めると、視線があちこちに散歩し始めた。


「ち、違うよ?」

「じゃあ質問を変えようか。学校が終わって、何時にここに着いたんだ? ちなみに嘘を言うと怒るぞ」

「……十六時くらいかな」

「一時間も前じゃないか……」


 悠斗はだいたい十六半時過ぎに家に帰り着き、すぐに準備を終えて家を出る。

 その後の河川敷を周ってのランニングが三十分程度なので、公園に着くのがどうしても十七時くらいになってしまうのだ。

 なぜ本当の事を言わないのかと呆れた目を向ければ、美羽がムスッと唇を尖らせた。


「だって公園で待ってる時間って芦原くん言ったし、それが最初にここに着いてからだなんて言われなかったから。……結局言われちゃったけど」

「む……。なら仕方ないな」

「……怒らないの?」


 怒らないと先程悠斗が言っていたにも関わらず、美羽はおそるおそる悠斗を見上げた。

 はしばみ色の瞳は揺らいでおり、つい不満をあらわにした事で、内心では怒られるかもしれないと不安だったのだろう。


「怒らないって。理由がないからな」

「でも、あんな言い方したんだよ?」

「それがどうした。些細な事じゃないか」


 蓮と話す時はもっと酷いあおり合いをする事だってあるのだ。

 これくらいのちっぽけな事で怒っていたら、ずっと怒りっぱなしになるだろう。

 もちろん見ず知らずの人にいきなりそんな態度をされればいきどおりも感じるが、美羽はもうそんな間柄ではない。

 むしろ堂々と屁理屈をられるほど親しくなったような気がして、胸が温かくなる。

 小さな事など気にするなと言うと、美羽が大きく目を見開き呆けたような顔になった。


「些細な事、なんだ」

「ああ、東雲は気にし過ぎだ。『芦原くんがそう言ってたじゃない!』って言うくらいがちょうど良いんだよ」

「ふふっ。それ、私の物真似? 似てないね」


 変に心配し過ぎる美羽の気分を変える為に少し裏声で真似をしたのだが、思いきり酷評された。

 とはいえその表情は笑顔なので、成功と言えるだろう。


「下手な事はするもんじゃないな」

「……ありがとね」


 悠斗の下手な気遣いなど、人の輪の中心にいる美羽には筒抜けのようだ。

 短いお礼の言葉には嬉しさが滲み出ており、横目で見る美羽の表情には、屈託のない純粋で無垢な笑顔が浮かんでいる。


(……正面から見なくて良かった)


 これほどまでの綺麗な笑顔を正面から見てしまうと、おそらく悠斗の頬は気恥ずかしさで真っ赤になっていただろう。

 今の時点でも頬にじわりと熱を感じているので、家に帰っている途中で本当に良かったとひっそりと安堵の溜息をはく。


「似てない物真似のお礼か?」

「ふふ、そんなにしたいならもう一回お願いしようかな」

「是非遠慮させてもらうよ」


 穏やかな空気の中、とりとめのない会話をしつつ家に着いた。

 鞄から鍵を取り出しつつ、鍵は開けずに扉のすぐ傍にひっそりと置いてある植木鉢に手を伸ばす。

 その下からもう一つの鍵を取り出し、それで扉を開けた。

 おかしな行動をした悠斗に美羽が首を傾げるが、今は無視してリビングに行く。

 食材は美羽が整頓して直したいとの事だったので、使用者に全て任せつつ、その間に悠斗が普段使いしている家の鍵と先程植木鉢から取り出した鍵のタグを入れ替えた。


「それじゃあ今から作るけど、いいよね?」

「ちょっと待ってくれ」


 準備を終えたので、キッチンにいる美羽の元へ行く。

 こういうのは出来る限り早くしておいた方がいい。


「どうしたの?」

「渡す物があるんだ。手を出してくれないか?」

「……こう?」


 何がなんだか分からないと顔に困惑をありありと浮かべる美羽に、先程まで悠斗が使っていた鍵を渡す。

 植木鉢の下のものは少し汚れているので、これを渡すのは流石にマナー違反だろう。

 渡されたものに美羽は最初きょとんとしていたが、みるみるうちに顔を驚愕に染めた。


「これ、どうして?」

「俺が公園に着くまで一時間も待たせるのは悪いからな。だから好きに使って欲しいんだ」


 美羽が公園に着く時間がもう少し遅ければ今までと同じで良かったが、流石に一時間も待たせるのは申し訳なさすぎる。

 となると、一番手っ取り早い解決法はこれだろう。

 先程聞いた限りだと十六時には公園に着いているので、これから買い物をしてから悠斗の家に向かうとなれば、悠斗が家に帰ってくるのと同じ時間になるはずだ。

 仮に悠斗が遅くなっても美羽は家に入れてゆっくり出来る時間が取れるのだから、我ながらいい案だと思う。

 だが、美羽は顔を曇らせて眉をしかめた。


「いくらなんでも不用心すぎない?」

「家に料理を作りに来てくれる人を信用しないって、どれだけ疑り深いんだよ。生憎、そこまで人間不信じゃないんだが」

「ここ実家だよ? 芦原くんの両親にバレたら怒られるんじゃない?」

「むしろ、買い物をしてくれる人を公園で一時間待たせた方が怒られる。東雲は気にすんな」


 確かにここは悠斗だけの家ではないので、美羽の言う事も理解出来る。

 しかし、理由を話せば両親は間違いなく悠斗の行動に納得してくれるはずだ。

 仮に読みが外れて怒られるとしても、鍵を渡して怒られる方が美羽を外で待たせるよりずっといい。

 下手をすると美羽との関係がバレてしまう事にもなるのだが、それを今から気にしても仕方ない。


「芦原くんは警戒心が無さすぎるよ」

「俺だって関わる人間全てを信用はしてない。東雲だからだ」


 関わる人全てが善人だとは思っていない。だが、信用に足りうる人には出来る限りの誠意で応えたいのだ。

 家の鍵は、いつか不要になった時に返してもらえばいい。

 安易あんいに委ねているつもりはないとハッキリ告げると、美羽がへにゃりと眉を下げた。


「……そんな事を言われたら、拒否出来ないよ」

「まぁ、あれこれ言いはしたが無理強いするつもりはない。余計なお節介なら鍵をテーブルにでも置いておいてくれ」

「ううん。そんな事、しない。……大切にするね」


 美羽が鍵をぎゅっと宝物のように両手で包み込み、胸元に持っていく。

 浮かべた笑顔は可愛らしさを詰め込んだあまりにも魅力的な笑顔で、正面から見てしまった悠斗の心臓が早鐘を打ち始めた。


「……人手が必要だったら言ってくれ。皿を出すくらいなら出来るから」


 呻きそうになるのを必死にこらえ、美羽から背を向けつつ手伝いを申し出る。

 今の顔は美羽には見せられない。自分でも自覚出来るくらいに顔が真っ赤なのだから。

 逃げるようにキッチンから離れると、穏やかな声が聞こえてくる。


「分かった。それならこれから水筒はどうしようかな……」

「これからは無しだな」

「そうだね。代わりに帰ってきたら何か飲めるように準備しておくね」

「……分かったよ」


 どうあってもランニング終わりの悠斗を労うのだなと小さく笑みを落とす。

 リビングのソファにどっかりと腰かけ、悠斗は必死に熱を逃がすのだった。

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