第9話 後悔と決意

「はぁ……」


 浴槽に張られた湯に肩まで浸かったまま、美羽は大きな溜息を吐き出した。

 秋になって少し肌寒くなり、その上で雨に濡れて冷えた体にじんわりと熱が戻って来る。

 これまでは気温が高かったので公園に居ても大丈夫だったが、これからは他の方法で時間潰しをしなければならないだろう。

 下手をしたら風邪を引いていたかもしれない。とはいえ、他に時間を潰せる場所など無いのだが。


「心配かけちゃったなぁ……」


 悠斗は運動用ではない、普段の恰好をして公園に来た。それも、美羽が知る限りこれまで一度も雨の日はランニングをしていないにも関わらず。

 そんな状況で別の理由を述べられても、美羽を心配して来てくれたのが丸わかりだ。

 不安に思わないよう悠斗が必死に誘ってくれた事が嬉しくて、結局家で雨宿りさせてもらうだけでなく、こうして風呂に入っている。

 美羽としても、話し始めてたった一週間と少ししか経っていない男の家で風呂に入るのが、どれほど危険なのかは分かっていた。

 しかし、この短い間で悠斗が信用出来る人だと分かった事で、つい甘えてしまったのだ。


「芦原悠斗くん、か。本当に、不思議な人」


 穏やかで、大人びていて、とても優しい人。半年前に初めて姿を見て、最近話すようになった男の子。

 自分からあまり話し掛けないので、他人と話すのが苦手なのだろう。

 それでも美羽の話し相手になってくれているのだから、悠斗には本当に頭が上がらない。

 しかし、心配して風呂にまで入れる優しさの割に、悠斗は美羽に対して一定の距離感を保とうとしているように感じる。

 それはこれまでの悠斗の態度や、美羽を見る表情に全く恋愛感情が浮かんでいない事からも明らかだ。

 おそらく、悠斗にも事情があるのだろう。

 

「あんな人、これまでいなかったなぁ」


 自分の見た目は自覚している。容姿の良さか、もしくはこの体の小ささから話し掛けられる事は本当に多かったのだから。

 だが、悠斗は決してそれを自分から持ち出しては来なかった。

 それどころか、あまり美羽に踏み込んでは駄目だろうと別の話題を探してくれたのだ。

 打ち解けてからは容姿を弄ってくる時もあるが、それが空気を変える為に怒られるのも覚悟で言っているのが分かるので、本気で怒るつもりはない。


「……それに、私には優しくされる資格なんてない」


 美羽は薄情者で、臆病者で、卑怯者だ。本当であれば悠斗のような優しい人に気遣われては駄目なのだ。

 誰が悪いかと言われれば自分が悪い。そんな事など分かっている。それでもああして公園に逃げて時間を潰すしかない。

 そんな美羽にすら、悠斗はこうして優しくしてくれる。

 だからなのか、気付けば誰にも言えなかった愚痴をこぼし、誰にも見せなかった感情を見せていた。


「本当は今日公園に行くつもりなんてなかったのに……。変なの」


 ぽつり、と小さな呟きが見慣れない風呂場に反響する。

 美羽が雨の中公園で時間潰しをしていた回数はそう多くない。だが、今までとは違って悠斗が来てくれるかもしれないと考えると、気付けば足が公園に向かっていた。

 正直なところ、自分でもなぜあんな行動をしたのか分からない。おそらく悠斗と話すのが楽しくて、つい足を運んでしまったのだろう。


「悪い事、しちゃったな」


 いざ悠斗が来て驚きはしたが、それでも内心では嬉しかったのだ。にも関わらず、家に招待してくれる悠斗を一瞬だけでも警戒してしまった自分が恥ずかしい。

 とはいえ、悠斗に何を返せばいいか分からない。悠斗の事を何も知らないと今更ながら気付いた。

 同じ高校の同級生。以前までは苦手な運動を頑張っていたが、もう辞めてしまった人。顔は整っているのに目立ちたがらない男の子。それだけだ。


「……よし、頑張らなきゃ!」


 ここまで頼ってしまったのだから、この恩は必ず返さなければならない。

 気合を入れて、浴槽から立ち上がった。





「これで良しと」


 悠斗の母の物であろうパジャマを着て、二階に上がって制服を干した。

 結構濡れてしまったので、数時間くらいは乾かないはずだ。

 外からは強い雨の音がしており、あのまま公園にいたらずぶ濡れだっただろう。

 美羽を家に誘ってくれた悠斗に内心で改めて感謝しつつ、一階のリビングへ行く。


「上がったよ。お風呂、ありがとね」

「……っ、そうか」


 キッチンにいる悠斗に声を掛けると、その体がびくりと僅かに揺れた。

 声が少しだけ上ずっていたので緊張しているのだろう。

 普通は立場が逆なはずの微笑ましい態度には触れず、置いておいた鞄の濡れ具合を確認していると、すぐ傍のテーブルにコトリと何かが置かれた。


「ほら。市販のコーンポタージュだけどな」

「そこまでしてもらわなくていいよ」

「でももう作ったし、捨てたら無駄になる。もらってくれないか?」


 少しだけ悪戯っぽく悠斗が告げる。

 その言葉が以前美羽が言った言葉と同じな事に、むず痒さを感じた。

 あの時はそうやって無理矢理スポーツドリンクを受け取らせたのだ。逆の立場になった美羽が拒否出来る訳がない。


「……もう、強引だね」

「東雲に言われたくはないな」

「ふふ、そうだね」


 皮肉っぽい言葉に小さく笑みを落とし、コップを受け取った。

 美羽が風呂から上がるタイミングに合わせたのか、飲みやすい温度になっている。

 その熱が風呂で温まった体にすらみ込み、なぜだか胸が苦しくなった。


「……ん、おいしい。ありがとね」


 市販のスープのはずだが、悠斗からもらっただけで不思議と美味しく感じる。

 これまでの事を含めてお礼を言うと、悠斗がほんのりと苦笑した。


「粉を溶かしただけだ。大した事はしないって」

「それでも、だよ。……芦原くんはお風呂に入らないの?」


 悠斗とて雨の中外出したのだ。美羽程ではないが、多少は濡れていると思う。

 それにあらかじめ風呂の用意をしていたので、美羽の様子を見た後にすぐ入るはずだったのだろう。

 悠斗の事だから監視されるつもりでリビングにいると思うのだが、美羽の制服が乾くまでここにいるくらいなら風呂に入って欲しい。

 そう提案すると、悠斗が居心地悪そうに身じろぎした。


「……いいのか?」

「いいも何も、ここは芦原くんの家でしょ? 遠慮してどうするの?」

「そうじゃなくて……。自分が入った後の風呂に男が入るの、嫌じゃないのかな、と」

「ああ、そういう事。別にいいよ、私はそういうの気にしないから」


 おそらく美羽の事を気遣って言ってくれたのだろう。

 クラスメイトの中には、家族であろうとも自分よりも後に父や弟、兄が入るのが嫌だという人がいる。

 反対に異性が入った後の風呂に入りたくないという人もいるが、そんな事を言い出してしまえば家族に迷惑が掛かってしまうだろう。

 正直なところ、美羽にはその感情が良く分からない。風呂とは汗を流す場所であり、一緒に入るならまだしも先だ後だのはどうでもいい事だと思っているのだから。

 それに、文句を言うのはこれほどまでに真摯に対応してくれた悠斗に対する失礼に当たる。

 気負わなくていいと笑みを向けると、悠斗はもごもごと口を動かして何か言いたそうにした後、がっくりと肩を落とした。


「……東雲がそう言うなら、お言葉に甘えさせてもらうよ」

「うん。私が言える事じゃないけど、ゆっくり温まってね」

「あのなぁ、少しは警戒してくれよ」

「警戒? 何を?」


 じっとりとした目を向けられたが、悠斗の何を警戒するのだろうか。

 チャンスはいくらでもあったはずなのに、何もしなかったのだ。不埒ふらちな事は絶対にしないと信頼している。

 突然何を言い出すのかと首を傾げると、悠斗が気まずそうに視線をさ迷わせながら口を開く。


「俺が風呂場で何かするとは思わないのか?」

「お風呂は体を洗って温まる場所でしょ? それ以外に何をするの?」

「……もういい。悪かった」

「は、はぁ……」


 なぜか悠斗がひどく疲れたような顔をして立ち上がる。

 その理由が思い当たらずに疑問符を浮かべていると、悠斗がリビングの扉に手を掛けてちらりと美羽を見た。


「二階の俺の部屋に着替えを取りに行くんだが、監視するか?」

「やらない。芦原くんは変な事しないから」

「分かった。適当にくつろいでいていいからな」

「うん」


 小さく溜息を吐いて悠斗がリビングから姿を消す。

 暫(しばら)くしてからシャワーの音がしだしたので、悠斗も温まって欲しいと願いながらスープを飲み干した。

 このままテーブルの上に置いておくのも悪い気がするので、キッチンに向かう。

 一軒家だからか十分にスペースがあるキッチンは、妙に片付いている気がした。

 視線を周囲に巡らせると、小奇麗に整頓されている調理器具に反して、棚の中には大量のインスタントラーメンが置かれているのが見える。


「……ごめんなさい」


 この場にいない悠斗とその両親に謝罪し、冷蔵庫を開けて中を見る。そこには予想通り何も入っていなかった。

 次にゴミ箱を見ると、そこには大量のコンビニ弁当が捨てられていた。


「やっぱり、そういう事かぁ……」


 一軒家に住んでいるにも関わらず両親がいない事、そして人の生活が感じられない、整えられた悠斗の両親の部屋。

 そしてこのキッチンの状態を見て、疑問が確信に変わった。


「これなら、私に出来る事がある」


 悠斗へのお礼と自分に言い聞かせつつも、打算の入った案が浮かぶ。

 これならこの先寒くなっても時間潰しが出来るだろう。それに、悠斗の事は既に信頼している。

 悠斗の優しさを利用し、あさましく立ち回る自分に嫌気が差しつつも、どうやって悠斗を説得しようかと考えを巡らせるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る