第4話 助けてくれたお礼

 美羽の話し相手となった次の日。昨日の言葉通りランニングの帰りに公園に寄ると、美羽がスポーツドリンクを準備して待っていた。

 もうお礼なんていらないと言ったにも関わらず準備する美羽に少しだけ呆れつつ、ベンチに座る。


「今日もか?」

「うん。もう買っちゃったから」

「……分かった。じゃあいただくよ」


 昨日と同じ問答をするつもりはないので、遠慮なく受け取って口を付けた。

 喉を潤して一息ついたところで、昨日うやむやになった件についてしっかりと話を付けなければと口を開く。


「昨日も言ったが、お礼なんていいぞ。もう十分だ」

「私が納得出来ないの」

「金も馬鹿にならないだろ?」


 たかが百円と少しであっても、高校生にとっては重要なものだ。

 ほぼ毎日コンビニに寄っている悠斗が言えた事ではないが、節約出来る時は節約すべきだろう。

 ましてや女性の美羽であればおしゃれにも気を遣うはずだ。

 こんな事に金を使うべきではないと指摘すると、美羽がむっと表情を固くした。


「いいの。これくらい大した事ないから」

「でも――」

「そんなに言うなら、今度からお茶を作って持ってくる。買うよりは安上がりだし、それでいいよね?」

「飲み物を渡すのは変えないんだな……」


 どうやら美羽の中で飲み物を持ってくるのは確定しているようだ。

 しかも期限を言っていないので、これから毎日らしい。

 じっとりとした視線を向けると、美羽が困ったように眉を下げる。


「だってお礼なんていらないって言うから……」

「その言葉通りに受け取ってもらいたいんだが」

「話し相手になってくれてるのも含まれてるんだから、そういう訳にもいかないの。芦原くんがして欲しい事があるならそれをお礼にするけど」

「いや、ないな」


 美羽にして欲しい事、と考えても何も思いつかない。

 これほどの美少女と話せるのだからそれをお礼にしたいくらいなのだが、おそらく美羽が納得しないだろう。

 もっとも、そんな気障きざなセリフなど口に出来ないのだが。


「でしょう? だから、これがせめてものお礼だよ」

「……分かったよ」


 ほんのりと呆れを滲ませた柔らかな笑顔を美羽が浮かべる。

 結局、負担にならないのであればと許可してしまった。


「ねえ芦原くん。どうしてランニングしてるの?」


 先日の事にきっちり区切りをつけて、美羽からもらったスポーツドリンクで喉を潤していると美羽が尋ねてきた。


「帰宅部でもちょっとは運動したいなと思っただけだ」

「それなら部活に入ればいいと思うんだけど。ちなみに中学校では何かやってたの?」

「バレーをやってたな」


 バレーボール部などどこの学校でもあると思ったのだが、美羽が大きく目を見開く。


「へぇ……。中学校からバレエをしてるなんて珍しいね。というか芦原くんの通ってた学校にバレエ部なんてあるんだ?」

「いや、普通だと思うんだが……。バレー部なんてどこにでもあるだろ」

「え?」

「ん?」


 何だか話が嚙み合っていない気がする。

 ちぐはぐな会話になるのはどうしてかと思考すると、一つだけ原因に思い至った。


「もしかして、ダンスのバレエの事を言ってるか?」

「うん、そうじゃないの?」

「……訂正。バレーボール部だ」

「バレー、ボール……?」


 きちんと正式名称を伝えると美羽がこてんと首を傾げ、その後ようやく間違いに気付いたのか顔を真っ赤に染めた。


「あ、ご、ごめんね! 勘違いしちゃった……」

「……日本語って難しいな」


 バレーとバレエ、口にすると発音にほぼ違いはないので、勘違いするのは理解できる。

 だが、バレエをすぐに頭に思い浮かべるのはそうそうないのではないか。

 羞恥に染まった顔をぶんぶんと振って謝罪してきた美羽に小さく苦笑すれば、美羽がしゅんと肩を落とす。


「そうだよね、普通バレーボールだよね……」

「まあ、ダンスを想像するのは珍しいと思う」

「うぅ、ごめんね……」

「いいさ。ちなみにバレエを連想するって事は昔やってたのか?」


 さらりとダンスの方が出てきたという事は、おそらく美羽はバレエをしていた可能性が高い。

 あるいは何かしらで今も関係しているかもしれないが、放課後に公園で過ごしている以上、その線は薄いだろう。

 ただ美羽の柔らかい雰囲気からは、バレエをしていたとはあまり想像出来ない。

 ふと気になって尋ねると、美羽は遠くを見るような目をして、薄く儚い笑みを浮かべる。


「小さい頃、ちょっとね。でも運動が出来なくて辞めちゃった」

「……まあ、習ったからといって出来るとは限らないからな」


 その笑みが痛々しいものだったので、おそらく悔しかったのだろう。

 運動が出来ない悔しさは悠斗にも良く分かる。


「俺だってそうだ。だから高校では帰宅部なんだよ」

「そう言えばそうだよね。バレー部に入らないんだ?」

「ああ、残念ながら運動は得意じゃないんだよ、中学校では一度も試合のメンバーに選ばれなかったんだからな。そんな人間が高校生の部活について行けるとは思えないから、入るつもりはないな」


 中学生の時ですらメンバーに選ばれなかったのだ。そんな人間が高校生の部活で活躍できる訳がない。

 必死に努力をすれば一回くらいは出られるかもしれないが、その一回の為に高校生活を全て捧げるような強い意志はもう持っていない。

 当時を懐かしみながらもキッパリと告げると、美羽がはしばみ色の瞳を大きく見せた。


「……意外」

「そうか?」

「うん。芦原くん背が高いし、体つきも良いからてっきり得意なのかと思った」

「背が高くても良い事なんてほとんどないぞ。体つきもただ鍛えたらこうなっただけだ」

「それを言うなら私だって小さくて良い事なんてなかったよ……」


 はあ、と大きく溜息をつきながら美羽が肩を落とす。

 あまり女性の体形に触れては駄目だと思っているので、それとなく話を逸らさなければ。

 下手な事を言って地雷を踏み抜くのは遠慮したい。


「それも個性の一つだろ? 個人的には俺よりも背が高い女性には気後れするから、むしろ有難い」

「芦原くんよりも背が高い女の子ってそうそういないと思うよ……」


 流石に強引過ぎたのか、ほんのりと呆れた目を向けられた。

 けれど気分は変えられたらしく、先程とは打って変わって美羽は朗らかな笑みを浮かべる。


「運動が苦手だなんて、一緒だね」

「そうだな。ちなみに、どのくらい苦手なんだ?」

「……バレーすると顔でボールを受けるくらいかな」

「なるほど、本当に出来ないんだな」


 そんな漫画のような事をする人が本当にいるとは思わなかった。悠斗も運動が苦手だが、そこまで酷くはない。

 おっとりとした美羽の姿からはその光景が容易に想像出来てしまった。

 それを悠斗は笑えないし、笑うつもりもない。同じ運動が出来ない身として、それは侮辱でしかないのだから。

 眉を下げながら納得すれば、美羽が不満そうに唇を尖らせる。


「皆して『美羽は可愛いね』って笑うんだよ。……私、必死だったんだけどなぁ」

「馬鹿にされないだけ良いんだが、東雲からしたら納得出来ないよな」

「……馬鹿にされた事、あるの?」


 中学校の頃を思い出しつつ苦笑すると、なんとなく放った言葉に美羽が反応した。

 話すべきか迷うが、運動が出来ない人として親近感が湧いているからか、あっさりと悠斗の口から言葉が出てくる。


「あったさ。上を目指す人にとって足を引っ張る人間は厄介者だ。それがバレーボールというチーム競技なら余計にな」


 練習ではどうしても他人と力を合わせなければならない時もある。試合に出ないから他人に迷惑をかけないというのは間違いだ。

 もちろん全員ではないが、非難の目で悠斗を見たり文句を言ってくる人はいた。

 流石にそこまで美羽に説明するつもりはないので出来るだけぼかして伝えると、美羽が眉を吊り上げた。


「何それ。芦原くんは適当にしてた訳じゃないんだよね?」

「まあ、出来る限りの事はしたな」

「……なんで努力を否定するのかなぁ」

 

 小さな呟きには、怒り以上に強い悲しみが込められている気がした。

 昔バレエをやっていたが運動が出来ずに辞めてしまったという事から、美羽も馬鹿にされたり否定されたりしたのかもしれない。


「仕方ない。そう納得するしかないさ」

「……そうだね。でも芦原くんは凄いよ」

「凄いか?」


 今の話のどこに悠斗が褒められる要素があったのだろうか。

 思わず美羽の顔を見つめれば、美羽は穏やかな笑みの中に羨望を混ぜた複雑な表情をしていた。


「馬鹿にされても、最後まで頑張ったんだよね?」

「ああ、やりきったよ。俺なりに、精一杯やったつもりだ」

「なら、それは賞賛されるべきだと思う。芦原くんは凄い事をしたんだよ」

「……ありがとう」


 真っ直ぐな褒め言葉で胸に熱が灯り、じわじわと頬まで上がって行くのを見られるのが気恥ずかしくてそっぽを向く。


「東雲も、バレエお疲れ様だ」


 頑張った、などと簡単な言葉を使いたくはない。その頑張りは美羽だけが知っている事であり、軽々しい言葉は送ってはいけないと思う。

 ちらりと横目で美羽の様子を見ると、美羽は呆けたように固まっていた。


「どうした?」

「……ううん、ありがとね」

「いや、俺の方こそありがとな。気が楽になった」

「ならいいんだよ。同じ運動が出来ない者同士だからね」


 満足気な笑みで少しだけ胸を張る美羽のおかげか、先程の微妙な空気は既になくなった。

 これほどの励ましを最近話すようになった悠斗にさらりと出来るのだから、人の輪の中心にいるのも納得だ。

 ただ、悠斗の心が軽くなったからか、その姿がどことなく無理をしているようにも見える。

 けれど先程のバレエが地雷のように見えた事もあり、どこまで踏み込んでいいか分からない。


(……励まされたくせに、お返しが出来ないのは悔しいな)


 美羽からすれば、悠斗は単に公園での話し相手でしかないのだ。

 しかも公園で時間を潰していた事を考えると、放課後や部活の事を話すのは良くないだろう。

 ましてや先日男子生徒にいきなり怒った時の内容からすると、家の事を聞くのは絶対に駄目だ。

 だが、何も言わないのも後味が悪い。


「まあ、なんだ……。愚痴を言いたい時には付き合うぞ。運動が出来ない者同士だし、作ってくれるお茶を無駄にしたくはないからな」

「――」


 どこまで踏み込んでいいか分からないのであれば、美羽に決めてもらった方が安心だ。

 いつでも、何でも聞くというのは悠斗達の関係上やりすぎなのだから。

 これからも飲み物を作ってくれるそうなので、飲み干すまでという条件を冗談っぽく言うと、美羽が目を見開いて固まった。


「東雲?」

「……あ、うん。その時は頼りにするね」

「ああ、任せてくれ」


 柔らかくはあるがどこか壁を作るような笑みで美羽が言ったので、おそらく愚痴や悩みがあっても言う気はないのだろう。

 美羽がそう決めたのであれば、これ以上踏み込むことは出来ない。

 話が一段落したので、残り少なくなったスポーツドリンクを飲み干してベンチから立ち上がる。


「これ、ありがとう。またな」

「うん、またね」


 公園の中だけの、飲み物を飲み干すまでの短い時間だけの話し相手。いつ会うか、いつまで続けるかも決めない、曖昧でふわふわとした関係。

 それが悠斗達の距離感であり、これ以上のものは高望みだ。

 そもそも望んだところでどうせ叶わないのだから、最初から選択肢として消している。

 昨日と同じく小さく手を振る美羽を横目で見つつ、公園から離れた。

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