番外編

隣の薔薇は赤い

 愛されているのが、わたしで良かった。


 疎まれているのが、で良かった。


 だからわたしは、と友達になれた。


 だからわたしは、に笑いかけられた。


 だからわたしは、に優しく出来た。




 あの子だけに優しいあの人を許せなかった。






 - * - * - * - * - * -






 廊下を走ると、「危ないですよ」とメイドが止めに来た。日差しの強い日に外へ出る時は、日傘を持ってくれる人が居た。

 転んでも、泣いても、暑い日差しの下に居ても無視される妹とは、全く待遇が違っていた。

 能力ちからの訓練の時も、母は優しかった。いつもボロボロになって戻って来る妹を、姉は内心笑って見ていた。

 そんな妹が、笑う時がある。それは、たった一人の姉と、その友人が一緒に居る時。

 どんな風に思われているのかも知らずに無邪気に笑う妹・セレンが、姉・アトリにとっては滑稽で、憐れで、可愛かった。

 だけどまだ幼いアトリは、その感情を正確に認識していたわけではなかった。




 いつ見ても真新しい痣や生傷が絶えない姿を見て、自分が優位に立てると思った。彼女を哀れみ手を差し伸べることで、自分は彼女の上に立てると。

 優しい「友人」に心を許すエミルの顔が妹に似ていることもまた、アトリにとっては彼女を理由になっていた。

 妹とは違った少し控え目な笑顔が、とても可愛くて。そのまま自分に遠慮しているのが良いと、そう思った。




 時々、セレンを愛おしげに見つめる目があるのに気付いた。優しく触れる手があるのに気付いた。

 叔父・ルヴァイド。彼だけが、誰よりも──アトリよりも、セレンを愛し可愛がっていた。

 そんなのはおかしい。自分より妹の方が愛されているなんて、そんなことがあってはいけないのに。

 アトリは、ルヴァイドが嫌いだった。

 歪んだ幼い心が何処にあるのか、何処へ向かうのか、この時はまだ誰も知らなかった。

 いや、その歪みに、先など無かった。


「アトリ様」


 今し方訓練が終わったところなのであろうセレンがよろよろと歩く隣を素通りした一人の使用人が、微笑みながらアトリの前に上着と日傘を持って来た。


「お散歩に出ませんか? とても良いお天気ですよ」

「ゴローがさすと日がさのいちが高いわ」

「気を付けますから」

「しかたないわね。付き合ってあげる」


 そう、これだ。誰も彼も皆、妹よりも自分を見ていなければ。妹よりも自分に従っていなくては。

 母にとっても、使用人にとっても一番は自分なのだ。そうあるべき。そうでなければいけない。やはりルヴァイドがおかしいだけだ。

 そうでないとアトリは、セレンを愛することが出来なかった。

 例外はルヴァイドの他にもう一人。ろくに顔も覚えていない父親だ。普段は仕事だと留守にしていて、たまに帰って来ても部屋から出て来ない。

 だけどそんなことはどうでも良かった。そんな父など居ないも同然だ。自分の世界の中で、一番愛されているのが自分ならそれで良い。




 ある日アトリは、気付いてしまった。訓練の時の母がのは、本当に自分の方なのか。

 二年も後に生まれた筈のセレンが、アトリと同じところまで訓練されている。フレスティアとしては基礎中の基礎で、まだ当たり前のことすら出来ない程度だが、それでも。

 訓練中の優しさは、本当に「優しさ」なのだろうか。「お前はその程度で良い」と言われているのではないだろうか。

 幼いなりに、アトリは頭が良かった。だから気付いたのだろう。

 期待されているのは、セレンの方だ。

 それに気付いたのは、母の言葉がきっかけだった。


「アトリとセレンはまるで対極の薔薇ね。一方は棘だらけで触れない。一方は棘が無くて不完全だわ」


 どちらのことも良しとはしない言葉だが、母はどちらのことをどちらとして表現したのか。棘だらけとは何のことだ。だけど不完全なものは、補填すれば完全なものになれるのではないだろうか。その為に母は、セレンに厳しいのではないか。

 それからアトリは、セレンに優しく出来なくなった。他の使用人と同じように彼女を無視して、エミルが来た時も誘うことなく除け者にする。

 そうしなければ自分を守れなかった。




 突然、屋敷に異変が起こった。それは、屋敷内の誰もが予想だにしていなかった異変。

 そこに至るまでに、何人もの使用人の遺体を見た。目の前に居た使用人も、血まみれで倒れた。

 何よりアトリにとって一番ショックだったのは、今し方倒れたその使用人の対応だった。自らが助かるために、にアトリを差し出そうとしたのだ。

 どうして。自分は愛されている筈なのに。守られるべき存在である筈なのに。

 それまで見てきた姿とはかけ離れた表情をした殺し屋・ルヴァイドが、当然のようにアトリにも手をかけた。

 こんなことなら、まだ妹を連れ歩いているべきだったのかも知れない。

 薄れゆく意識の中で思う。

 使用人がまだ生きている間に妹を前に出しておいて、その隙に逃げて隠れていれば、自分は助かったかも知れない。

 ああ、でも──母に愛されていないのなら、もう、何もかもが無意味……


「アトリ!!!」


 聞き慣れない声が響いた。全身の感覚が遠ざかっていく中で、温かい手がアトリの身体を抱え上げて抱き締める。


「アトリ……ああ……間に合わなくて、ごめんなさい……。もう大丈夫よ。後のことは、メーお母さんに任せて」


 母だ。先程の叫ぶような声も母だったのか。大切な娘が傷付けられたと、嘆いてくれているのか。

 もし、まだ母に愛されていたのなら……

 それなら、もう、いいか。

 開かなくなった目を開けようとするのは諦めて、そんなことを思ってはアトリはゆっくりと意識を手放した。






 - * - * - * - * - * -






 顔の前で合わせていた手をゆっくり下ろし、セレンは目を開けた。隣に居る桂十郎は一緒に手を合わせていた筈だが、早々に下ろしていたらしい。

 ずっと少し下げたままの視線の先には、大き目の墓がひとつ建っていた。書かれている名前は三つ、両親と姉のそれ。


「そう言えばセレン、姉ちゃんのことは言わないな。前に聞いたのはそのネックレスの話くらいか」

「アトリちゃん? んー……」


 ふと問いかけられ、顔を上げて桂十郎を見ては小首を傾げて考える。思い返すと言った方が正しいか。

 母が訓練以外では優しかったというのは話している。父のことは聖から聞いているらしく、わざわざ桂十郎からは触れない。

 たった二つしか歳の変わらない、当時まだ幼かった姉のことは、誰からも聞いてはいないのだろう。


「事件の、三ヶ月前くらいかな。それまでは優しかったよ」

「三ヶ月前まで?」

「うん。その後は他の使用人と同じ。近くに居る時どころか声をかけても無視されたし、よく分けてくれてたオヤツもくれなくなったし、エミルちゃんが来ても呼んでくれなくなった。急に態度が変わったから、びっくりしたなぁ」


 苦笑が浮かぶ。

 当時は姉が何故急に態度を変えたのか、さっぱり分からなかった。今でも、ただ考えるだけでは分からなかっただろう。

 それを知ったのは、姉と自分が一緒に使っていた部屋から出て来たメモ紙を見たから。姉はよく、母の言葉をメモ紙に書き残して箱の中に仕舞っていた。


「『二人は対極の薔薇。片方は棘だらけで触れない。片方は棘が無くて不完全』……どういう意味かは分からないけど、マモンママが言ったんだと思うんだ。きっとアトリちゃんの態度が変わったのは、それからなんだろうなって」

「薔薇……」


 理解は出来なかった。いつも母は難しい言葉を使っていた。「大人になった時に困らないように、知恵と力をつけなさい」と。

 それから、これは桂十郎に言うつもりは無いが、姉がつけていた日記も見付けていた。


──『どうしてあの子の方がわたしよりも愛されているの?』


「あたし達は、お互いにお互いのことを羨んでいたみたい」


 墓に刻まれた三つの名から、姉のそれをじっと見つめる。

 なるほどな、と桂十郎が呟いた。


「隣の芝は青い……もとい、隣の薔薇は赤かったってとこか」


 身を翻し、墓所から屋敷の方へと帰るために歩き出す。

 アトリは頭が良かった。生きていれば、フレスティアの商いを順調に回していてくれたことだろう。頭を使うのが比較的苦手なセレンには難しいことだ。

 だけど頭が良かったからこそ、考えることも多かったのかも知れないとセレンは思う。そして彼女の考えの中で、セレンには優しくしなくても良いと、そうなったのかも知れないと。

 きっと何かが悪いのは、アトリではなく自分なのだろう。だからアトリに見放されたのだ。

 そう思っているのが楽だったけれど、もしかすると桂十郎なら、別の答えを出すかも知れない。姉の日記と、母の言葉のメモから、何かセレンには思い付きもしなかった答えを。

 だからこそ、日記は見せられない。自分が正しいと思っていることを変えられるのは怖いものだ。


「〔……みんなに愛されてたのは、アトリちゃんの方なのに〕」

「ん? 何か言ったか?」

「ううん、何でもない」


 小さく呟いた言葉は桂十郎には届かなかったようで、セレンは笑って首を振った。

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アイにサヨナラ 水澤シン @ShinMizusawa

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