16
「ありがとうございました」
今日は珍しく客が来ていたらしい。店主である聖が整った顔つきをしていながらも無愛想なことから、この花屋の客入りは正直あまり良くない。一方でエミルが店先に立てば、途端に客は増えるのだが。
営業スマイルの一つでも出来るようになれば客は増えるだろう。「花屋にイケメン」は基本的にはプラス要素だし、何より品が良いのだ。花の一房一房を大切に、丁寧に育てている。外部から入荷する物も聖自らその目で確認して良いものだけを仕入れている。
誰の目にも明らかに赤字の花屋だが、継続出来ているのはやはりひとえにアイスの収入によるものだろう。
時々それを聖は申し訳なさそうにするが、高額な依頼料で受ける仕事の全て、その『収入』は聖にあげているものだからと、エミルが一歩も引かない。最後に折れるのは必ず聖の方で、仕方ない、なんて言いながら甘えているのだ。
去り行く客を見送る聖の背に、エミルがぎゅっと抱き着いた。
「どうした?」
驚く様子も無く、静かに聖が聞く。今まで彼女が人前でこんな風に甘えたことは無い。店先でなんて、彼女らしくない。顔には出ないが、これでも聖なりには驚いていた。
「どうしよう……」
「うん?」
「あたし、あの人、こわい」
きゅ、と聖の肋骨あたりに回されたエミルの腕に少し力が入る。恐らくエミルにとってはほんの少し力を入れただけなのだろうが、彼女はヒュペリオン体質だ。それだけで肺が圧迫されて呼吸し辛くなるのを、聖は顔色ひとつ変えずに受け入れた。
身体の前側に回っているエミルの手に、聖も自分の手を重ねる。
「怖い?」
誰のことなのか。少なくとも戦いにおいての相手ではないだろう。彼女はより強い相手を求めている。
それこそ、例えば『魔法使い』のような、自分を殺せる相手を。
だとすれば彼女に恐怖を与えるのは何か。例えば、彼女を『生に縛り付けるもの』。例えば、彼女に『生を望ませるもの』。
それはきっと彼女にとって、これまでには居なかった特別な存在。
「あたしには……聖が居れば良いのに。悠仁が、空目が居れば、それで良いのに」
今までずっと「そう」だったのに、今更。
「……誰だ?」
そんなに、可愛い愛娘を追い詰めるのは。
ひたすら死に向かっている彼女を変えてくれるかも知れない相手は。
「……桂十郎さんと居ると……『あたし』が崩れてく」
「世界大総統か」
就任当時、最年少だと騒がれていた。あれからもうそれなりに経つ。その上今の世界大総統は相当優秀でもあるという。彼の目の黒いうちは、次代の世界大総統が現れるということは無いだろう。何年現役を続けるのか見物だ。
そっと優しくエミルの手を撫でる聖は、自分の頬が緩んだのに気付いた。愛しいこの子の変化を喜ぶ反面、心配なこともある。
ここしばらくエミルとの関わりを続ける桂十郎本人は、彼女のことをどの程度知っているのか。せめてエミルとアイスが同一人物だと気付いているのか。
もしまだ知らないのだとすれば、それは後々この子を傷付ける結果になるかも知れない。
「エミル」
「……はい」
「壊れる前に、俺を頼れよ」
手が緩み、聖は振り返る。頼りなげに揺れる彼女の目は、ここ数年見慣れないものだ。
「お前はどうしたい?」
女としては長身なエミルをまだ見下ろすだけの聖は、そっと手を上げ彼女の柔らかな頬を撫でる。
この子の為に出来ることは、全てやろうと、そう決めていた。
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