灰と橙

淡園オリハ

灰と橙

 嵐が来るよ、と君は眉尻を下げながら言う。それはそれとして、行かなければならない用事があったから、僕は制止を振り切って外へ出た。昨夜から降り続く雨は尚も地表を濡らし、もうこのまま乾くことなどないように思えた。そんなことはないと知っているから、それが悲しくて、傘を差さずに歩くことにした。


 目的地は近くの小さな漁港。漁に出る船もなく、静かに水面を打つ雨の音が寂しく響く。開けた緑地の真ん中にぽつりと佇む人魚姫の銅像は、火の着かない蝋燭を胸の前に掲げ、海を眺めている。彼女が一心に眺める視線の先には空と海をつなぐ細い水の橋が無数の線となって滴っていた。


「寒くないのか?」


 返事など来ないと知っているから、それが悲しくて、銅像の隣に腰掛けてラッキーストライクに火を着ける。雨に濡れたタバコの悪臭が鼻腔に充満する。吐き気を誤魔化すように足元にツバを吐き、海か空か分からない灰色の景色を眺めながら、同じ色の煙を吐き出した。


「帰りたくないのか?」


 彼女の錆びついた口は何も語らない。それが愛おしくて、カサついた自分の唇を静かに重ねる。彼女の口元に付着した雨粒が水分不足の唇を潤した。


 ふと、雨音以外の雑音が混じったことに気付き、振り返る。誰もいないはずの波止場の先端に人影が見えた。何か声を上げているらしく、汚らしい人間の肉声が鼓膜を犯す。


 神聖な世界に土足で踏み入る得体の知れない存在。僕は彼女の傍らにタバコを置いたまま立ち上がると、落ちないよう丁寧にテトラポットを渡り、波止場の先へ歩を進める。近づくにつれ、その人物の姿が顕わになってきた。真っ黒な髪を腰辺りまで伸ばした若い女だった。女は自分を詩人だと宣う。


「詩を作っているの、この場所、この時間にしか感じられないこの気持ちを言葉にして、世界へ伝えるの」


 試しに聞かせてもらった詩はどれも酷く、一句聞くごとに彼女と世界に対する期待が失われていくのが分かった。ポップス崩れの鼻歌みたいな出来だった。自分の感傷を受け止められないだけのくせに、こじつけで言葉を当てはめることをどうして文学などと呼べるだろう。僕はいよいよ我慢ならなくなって、女を海に突き落とす妄想を始めた。今なら誰にも見つからないだろう、と意を決したその時、女はまた口を開いた。


「あの人魚姫の銅像、あそこに行けばもっと素敵な作品が作れるかもしれない!」


 やめろ! と叫んだ気がする。聞こえていても聞こえていなくても結果は変わらなかっただろう。女はぴょんぴょんと跳ねてテトラポットを渡り、あっという間に人魚姫の前に踊り立った。「ほえー」とか「わー」とか、時折間抜けな声を上げながら、さっきまで僕と口づけを交わしていた彼女の顔を眺めている。


 すぐに引き離さなければならない。テトラポットを渡るために踏み出した足取りが覚束なくて、岩石のようにゴツゴツとしたテトラポットに膝を何度かぶつけた。痛みに耐えながらなんとか女に歩み寄り、肩に手を置いて後ろへ引き剥がす。女は目を見開いて、僕の顔、自分の肩、僕の指を順番に眺めた。


 おもむろに自分の左手の指を立てると、右手で左手を指さしながら「血」と事もなげに告げる。思わず自分の指を見ると、だくだくと真っ赤な血が流れていた。雨で薄まった血液がぽたりと足元へ落ちる。


「フジツボで切ったのかしら? 早く洗わないと、破傷風になって死んじゃう」


 その瞬間、僕は腹を抱えた。膝から崩れ落ちる。身体中の空気が抜けてしまったようだった。痙攣した腹筋が痛むころになって、ようやく呼吸ができるようになり、改めて女を見上げる。きょとんとした顔でこちらを見下ろす姿が滑稽で、また少し笑った。


「どうして笑っているの? 何か可笑しいこと、言った?」恐れと怒りが混じり合った表情で女が吐き捨てる。「すまない、怒らせるつもりはなかったんだ、本当に」嘘を吐かないように努めた僕の最大限の言葉だった。本当だった。


「私も、あなたを怒らせたり笑わせたりするつもりはないの。もし不快な気持ちになったのなら、教えてくれない?」


 謝るから、と言う彼女に「不幸なフリを辞めて、今すぐに凡人として生きろ」と告げることと、今すぐ海に叩き落とすことの根本的な違いが分からず、迷った挙句、「この人魚姫で詩を書くのか」と尋ねた。女は僕の奇行などよりも自分の創作に対する興味のほうが勝ったようで、神妙な面持ちで頷くと、銅像を眺めながら「暖かい」だの「悲しげな瞳」だのと独り言を呟き始めた。僕は周囲を見回したあと、手頃な石を後ろ手に隠し持った。


 本当に大切なものが冒涜されているとき、怒りや悲しみは沸かないのだと知った。この程度の凌辱で失われてしまう程度の価値だったことに失望し、好きにさせようと決めた。せめて、辞世の句くらいは聞いてやらなくては。


 少し考えて、女が口を開く。やはり聞くに堪えない詩だった。


 数分後、僕の流血とは比べ物にならないほどの血を流す女を波止場から海へ放り投げ、彼女のもとへ帰ってきた僕は汗だくになっていた。雨よりも一際ベタつく水滴の玉が身体を覆う。一息入れようとラッキーストライクに火を着けると、さっきよりもかすれた味の煙が肺の底まで染み渡り、身体をよりいっそう灰色に染め上げた。


「ごめんな、嫌な気持ちになっただろう」彼女は何も言わない。


「二人で海へ行こう。ここのことじゃなくて、あの灰色のことだよ」彼女は何も言わない。


「嬉しいな、雲の中が見てみたかったんだ、昔から」彼女は何も言わない。


 冷たい彼女の手を取り、砂浜から海に向かってゆっくり歩く。歩くごとに、ひやりとした水が確かな質量とともに僕の身体を押し潰そうとした。


 胸元まで海水に浸かり、もう歩くこともできない。ほとんど溺れるようにして、藻掻くように前へ進む。その時、彼女が胸の前に持っていた蝋燭の火が灯った。水中で燃える炎があることは知らなかったから、僕は嬉しくなって彼女に笑いかけた。彼女は何も言わない。


 やわらかな橙色が、灰色の世界で灯台のように光る。何も言わない彼女の手を引きながら灰色の世界を進む。時折振り返って、火が消えていないか確かめると、「そんな心配は要らない」とでも言うように灰色の世界を射抜く彼女の目が見えた。


それだけですべてが許されたような気がして、その灯りを、射抜くような視線を頼りに、どこまでも灰色の世界を歩き続けた。その後一生、その小さな篝火が消えることはなかった。

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灰と橙 淡園オリハ @awazono_oriha

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