Episode16:HOLIC

「ありがとう」


 眠る前に悠太が零したその言葉が、なぜか柾の心を激しく搔き乱した。いつもの通りに悠太と別れた朝、揺られた電車の中で遅れてごとりごとりと響く。言葉にならない不安が時間に比例して肥大して行くに従って、柾は無口になった。

 なんのことはない感謝の言葉であるはずだった。自身でもその正体が分からないまま持て余す感情にため息だけが増える。


(そんなに気にすることか?)


 何度も言い聞かせては思考を意識的に遮断した。ただどうしても、目の前の物事が片付いて手が休まった瞬間に思考は戻ってくる。メッセージのない、いつも通りのスマホの画面を眺め見て、そんな自分の滑稽さにも嫌気が差した。

 

『他人に証明するものじゃないでしょ』


 城之崎の言葉の重みを噛み締める。あの後に続く言葉の返答に詰まった様子が、答えのような気がした。

 同期とはいえ城之崎と柾の関係は少し仲のよかった程度で、互いの愚痴を言い合う程深い仲ではなかった。元恋人の蓮との仲の方がずっと親密だったように思う。大学時代は連絡を密に取り合っていたことを、ふと今になって柾は思い出した。

 城之崎は他人の領分をよく弁えた質で、特にそれが恋愛沙汰に至る場合はよほどでないと口を挟むことがない。先日の電話で蓮との付き合いに冷淡に答えたのは、そこに至るまでに彼女から聞く話なんてのもあったのかも知れなかった。

 城之崎とのメッセージのやり取りの履歴は先日の城之崎からの電話連絡で止まっている。

 少しだけ逡巡した後、『手隙の時に連絡をくれ』とだけ打ち込んだ。

 柾は、自分が遊びで揶揄って悠太に構っているわけではないことを城之崎に示したいと考えていた。先の言われようのままでいるのは、自尊心にも多少なり関わる。

 城之崎からの連絡はその日のうちにあった。確認のワンクッションを挟んで、コールが鳴る。


「休みの日に悪いな」


 金曜の夜十時、時刻だけでそれは判断できた。


「自分から連絡寄越すなんて珍しいじゃん。レンちゃんと寄り戻す気にでもなった?」

「……なんでそこで蓮の名前が出てくるんだよ。生憎、それとは別件だ。今でも連絡取り合ってたのか?」

「アンタよりはね。なんだ、違うの」

「出て行ったんだ、追うつもりはないよ。もう半年以上経つんだぜ、それに俺はもう好きな奴ができたから」

「……一応訊いておくけど、誰」

「悠太だよ」


 間髪置かずに柾は答えた。小さく、溜息が聴こえたような気がした。


「付き合ってるって言えるのかは分からないけど、もう半年は定期的に会ってるし揶揄ってるつもりもない。お前は信じないかもしれないけど」

「この間、『俺に男が抱けると思うか』なんて言ってた男のセリフとは思えないわね。どういう風の吹き回し?」

「ふふん、聞いて驚け。ちゃんとやれたさ」

「うわあ……そういう……そういうことか、繋がった」

「なんだよ」

「……こっちの話。それで、まさかそれだけのために連絡寄越したとか言わないでしょうね」


 城之崎の反応を見るに、悠太が何かしらの前兆を見せていたのだろうか。その詳細を知りたいのも事実だったが、柾はひと呼吸息を整えてから話を切り出した。


「お前も知っての通り、俺はただの男だったかも知れない。でも今は違う。……どうしたらそれを悠太に証明できる。一丁前に気兼ねして、遠慮される」

「案外とそういうところナイーブだからね、悠太は。まあ、俺だってもしノンケ相手にするってなったらどこまで本気なのか試しに試すだろうけど、悠太はそれをしない。言わば、多情な人間の改心を受け止めるようなものだからね。時間掛けて誠意見せて行くしかないと思うけど、なに焦ってんの」

「焦る? 俺が?」


 思わず声量が上がって、柾は口許を手で覆う。そんなはずはない、と思い掛けて今日一日散らすのに苦労した不安に思い当たった。


「……怖いでしょ、繋ぎ方が分からないって」

「お前しか頼るアテがないんだよ、分かるだろ。俺が満足にあの子を抱いてやれたとして、俺以外に相手が居るかも知れないなんて、考えたくもない話だけど……」

「そうね。ない話じゃないかもね、だからこそちゃんと話す必要があるんでしょ。ちゃんと腹割った会話してる?」


 言葉とは裏腹に、城之崎の声は穏やかに変わる。その言葉に柾が最初に思い浮かべたのは、酒に酔った上ではにかむばかりの悠太の顔だった。気兼ねしているのは、互いにだとそこで気付く。悠太は柾に一歩引いて接していたし、柾はそんな悠太に雄弁に声を掛けたとは言い難い。


「酒を飲んでもうまく距離を削ぐのが難しい、正直なところ。俺が強引に動いていいのかも測りかねる」

「酒の力借りても理性が勝ってるってのは、あんまりいただけないところだけど……言葉が難しいなら身体的な接触を増やす方がいいかもね。手を触れば、大体分かる」


 手の温度、握り返す力の加減、について城之崎は柾にレクチャーしてみせた。なにより、手を握る行為それひとつで相手の心に寄り添うことが可能だと言う。悠太がいつか、肩を抱いて、手を握り締めてくれた時のことが甦る。確かにあの時、その手の温かさがやけに染みたのを柾は憶えていた。

 

「関係性を示すだけなら男女間のそれと違いはないわよ。古典的な方法だけど、指輪だって、なんだってあるじゃない。紙切れ一枚以外はね。……もっとも」

「まだそれには早いよ。時期を見てそうしたいつもりはあっても」

「――とアンタが言うのは分かってた。とにかく、悠太に頼ってないでアンタが会話を握ることよ」

「……やってみるよ、ありがとう城之崎」


 得意げに城之崎は笑って、じゃあねと電話が切れた。

 人を頼ることに抵抗のあった柾だったが、こうしてみてその選択は間違いではなかったと悟る。言葉にされて初めて己が抱いていた感情の正体を知った。恐れも不安も、焦りも、ずっと根底に沈んでいただけでそれが澱になるほど燻っていたことにも自覚的ではなかった。

 向き合うと決めたその瞬間から、それは付き纏っていたはずだった。週間を通して時間を共有するのはたった一日の数時間、それを除いて言葉を交わす時間の少なさと言えば、歴代付き合ってきた彼女と比較にもならないだろうそのことにさえ、

 簡単な話だった。柾が言葉を繰る必要がないほどに彼女たちはお喋りだった。対話に対して受動的であることを当たり前としてきたことを今更ながらに痛感する。

 個人差こそあるだろうが女性性との違いだと言えるだろう。

 

(なるほどな、こんなにも違うわけだ)


 冷えたミネラルのボトルを口元へ運び、ひと口嚥下して息を吐く。

 喉の渇きは薄らいだが、飢える感覚は癒えない。

 壁を打ち破るには自分自身が変わる他ないだろう。


(蓮が俺を見放したのも結局、そういうところなんじゃないか。釣りの過程だけ楽しんでいるようなものだ。彼に対しても俺は同じように、初めだけ能動的だった)


 答えは出た。問題は、それをどう改善していくのかだ。生活時間の被りが少ないふたりが対話を持つにはこの携帯機器を活用していくしかない。あるいは、出逢った頃のように偶然を装って身体を張って時間をもぎ取るか。

 

(どっちもだ)


 結論付けて悠太にメッセージを打った。勤務中であろう彼に、労いと近いうちまた店に直接顔を出す旨を送る。いつもなら水曜の当日まで送らない連絡、それを変えていく必要性をよく理解した。

 今回城之崎に関係性を打ち明けたことで、もう店に顔を出すことを臆する必要はなくなった。短時間、ただ顔を見ることができるだけでも、会話の切っ掛けにはできる。とにかく接触量を増やすことを心掛けることを決めた柾は、わずかながら希望を持って眠ることができそうだった。





 一日の終りに送るほんの少しのメッセージに時間遅れに返事が返るようになり、その頻度は時間に比例して数が少しずつ増えて行った。始めてみて分かったのは、悠太は柾が感じていたほどに淡白ではなかったということだ。

 メッセージのやりとりは初めこそ簡素に、淡白に返ってきていたが挨拶のようなやりとりに変化をもたらしたのは、結局のところ悠太の何気ない言葉だった。

 『会いたくなった』と打つのにどれだけの勇気が要っただろうか。柾に測ることはできない。その言葉に電話で応えて眠る前の少しの時間を分かち合うことも少なくなくなった。

 会えば酔っていることだけが気掛かりだった。シラフでない分だけ幾ばくか距離感は近くなる。それが、喜んでいいものではないことに気付いたのは初めて悠太を抱いた日からひと月以上経った後だった。

 出版社が主催する飲み会に三次会まで参加したその日、乗り合いのタクシーで悠太の家の近所を通った瞬間、柾は悠太を訪ねることにした。

 酔っ払いの悪いクセ、衝動的な思い付きだった。

 同僚の不思議そうな顔をよそにタクシーを降りた柾はまっすぐにマンションへ向かい、階段を上がってドアベルを押した。

 時刻は裕に日付を越している。少し前にスマホにいつものようにメッセージが入っていたことも、訪ねようと思い立った理由のひとつだった。

 少しの間の後、開いた扉から飛び出すように出て来た悠太が両腕を絡ませる。悠太は今夜も文字通りベロベロに、いや、いつも以上に酔っていた。

 テーブルの上に乱雑に置かれた缶のいくつかは既に空いている。部屋の隅にある缶だらけのゴミ袋も、その存在感を無視することができなかった。


「ちゃんとメシ食ってるのか」


 ソファに腰掛けた柾の膝の上に上体を預けた悠太は猫のように懐いているが、返事をしない。擦り寄って目を閉ざす様子に、飲み疲れて眠りそうな気配を読み取って柾は息を吐く。

 不意に部屋を訪れたのは正解かもしれなかった。決められた日の訪問では見られなかった生活の乱れが明白になる。悠太が過度にアルコールを摂取しているのは明らかだ。


「冗談じゃ済まなくなってるだろ、この酒の量は」


 悠太の肩を揺り起こす。酩酊した悠太は重そうな瞼を辛うじて持ち上げて上体を起こし、首を傾いだ。


「芳野さんの煙草とおんなじ。大したことじゃない」

「大したことあるよ、こんなに痩せ細って、飯の代わりに酒だけ食らってたんだろう大方。……言い訳するぐらいには後ろめたいんだな?」


 言った側から唇を尖らせた悠太がサイドテーブルにあった缶に手を伸ばそうとするのを、柾は手指を絡めて押し留めた。身体は温かくとも、指先はひやりと冷たい。そのままソファに悠太を組み伏せて、軽く唇を啄めばアルコールの匂いは強く届く。唇を離した瞬間、悠太の腕が柾の後頭部を抑え、続きを強請るように唇を寄せた。

 

「……シラフの君が見たいよ俺は」

「そしたらなんもできなくなる」

「だからこそだろ、なにもできなくしているのは君自身だ。酒がなくたってなにも変わらないよ。こんな状態が続いたら、仕事にも支障が出るぞ」


 分かっている、と言うように悠太は目を伏せる。その瞼へもう一度軽く唇を触れさせてから柾は身体を起こした。

 冷蔵庫の中身を確認すると、やはりそこはがらんとしており生活感がほとんどない。酒の缶と麦茶のボトルがあるばかりで、ろくな食生活ができていないのが分かった。


「一緒に飯食えるようにするか、土日と君の定休」

「……会ってくれンの」


 腕組みながら振り返ると、悠太は目を丸くして嬉しそうにさえ見えた。柾にはゆらゆらと揺れる尻尾の幻が見えたような気がした。


「その代わり酒は減らすこと。いきなり全部やめろとは言わないから、ちょっとずつな」

「うん……なら、やってみる」

「城之崎にも連絡を取っておく。あいつのことだ、快く協力してくれると思うしな」


 城之崎、の名前が出ると途端、悠太の表情は叱られた子どものようにしょげる。面倒見のよさは一歩踏み込めば口煩いということでもある。以前にもなにがしかで説教を受けたことでもあるかのように悠太は肩を竦めていた。

 飲み差しの缶の中身をシンクへ流してから、柾はもうほとんど眠りそうな悠太を布団へ寝かしつけた。

 相変わらず、寝つきはいい。その寝顔をよそに、柾は城之崎へ一報を打ち、勤務中の様子に目を配って欲しいと伝える。そうしてからいつもより一時間早くアラームをセットして目を閉ざした。

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