Episode14:REACT
「レンちゃんが大事だったならなんで、籍入れなかったのか、俺には理解しかねる。よく我慢できたなと思うよ、レンちゃん。正直あの時籍入れなかった時点で、先は見えてたけど」
城之崎の言葉は辛辣なようで、それでも柾はその通りだとしか思わなかった。当然受けるべき説教だった。それが今である必要性はともかくとして。
刺青ただひとつで繋げるとなぜ思ったのか、それは気が動転していたとか若気の至りだとかの言葉で表すのは簡単だが、本当のところは責任を負った振りをしただけに過ぎなかったのかも知れない、と柾は思う。
城之崎は暗に、大事だと思っていたその彼女さえ本当の意味では愛していなかったのではないのかと柾に示唆していた。刺青ひとつで誓う愛ならば、紙切れひとつ、それ以上に分かりやすく確実で誠実なものはなかったはずだと。
「……もう終わったことだ。同じことを繰り返す気はないよ。あいつにもお前にも迷惑を掛けた。本当に悪かったと思ってる」
「謝られても……謝らせてるのは俺か。言っといてなんだけど、レンちゃんぐらいでしょアンタと付き合えたのは」
「なにが、言いたいんだよ」
「あれから、悠太はなにも言わないけど、知らないところで会ってるんでしょ」
蓮と別れて早九ヵ月が過ぎようとしていた。イツキの一件から改めて新居へ移り本格的に同棲をして約五年。彼女が忽然と部屋を出て行ったのは、今にして思えばいつまでも籍を入れる気配のない柾への愛想が尽きたからだっただろう。当たり前のように傍にいた彼女の存在は芳野にとって特別だったのは確かだったはずだが、とうとう踏ん切りを付ける気にまでは至らなかった。
(人を愛する権利が、俺にはあるんだろうか)
そう思わざるを得ない。愛がなければこんなにも長く他人と暮らしを共にすることはできなかったように思う。それでも、彼女を大切にしていたのかと訊ねられれば、自信を持ってそうだと言えない自分に、柾は嫌気が差した。
そして、悠太には蓮ほどの器がないと言われたような先の城之崎の言葉にも心が曇る。
「なあ城之崎。実際のところ、俺に男が抱けると思うか?」
「やりもしないくせに」
苦く笑う呼気。
「でも、それを嫌悪し続けるようなら先はないでしょうね。……長く話しすぎた。そろそろ仕事してくるわ」
「時間取らせたな。今度はピンで飲みに行くよ」
「またね」
ふつりと音が途切れる。城之崎が『悠太に手を出すな』と釘を刺さなかったのは意外だった。てっきり今度こそはっきりと縁を切るように言われるのだとばかり、柾は思っていた。スマホと電子タバコを仕舞って吐き出す息は、安堵に満ちていることにまた驚きを重ねる。
(どうすればいいのかも分からない。俺は無知だな)
城之崎の言葉が、他の男で試せという意味ではないことはわかる。では、悠太相手にそれを試すことを良しとするものなのか?
『クリムソフト』、あの店での一件を『試した』と称することはできないだろうと考える。触れること、触れられること、行為自体が問題なのでないのは柾自身で確かめて分かったことだ。
(子犬みたいな目をして、せがむようなあの姿がイツキに被るのが問題なんだ)
一方的な奉仕行為を強いてもそれを是としたイツキ。悠太が柾をはっきりとは求めず、それでいて好意を寄せて来る今こそその姿は鮮明によみがえり、柾を当然至極の自己嫌悪へと陥れた。
すべてをなぞらえているようで、思い出すだけで喉が絞まるように呼吸が辛くなる。
(……それでも、赦されるなら俺は)
もう一度誰かを愛してみたい。与えてくれるその想いに真っ向応えてみたいとという思いが確かにある、そのことにもまだ慣れない。柾は強く唇を噛む。
いくら考えても無駄だとは薄々感じていた。己の知らない領域は想像しても答えに埒が明かないものだ。
(試す他ないだろ。もっと、確実に傷つけないやり方で。心が離れる前に俺は俺の覚悟を、示さなきゃならないはずだ)
この数か月、悠太が穏やかに見えるのは彼なりに柾を尊重した態度を取っているからだということは柾にも分かっていた。『クリムソフト』での同性に対するあの積極性や性的衝動を抑え込んでいるのは明らかだった。
柾は自身を鼓舞させる言葉を投げ掛けながら、一方でうっすらと浮かび上がる後悔の念に眉を寄せる。
(あの時俺が俺であると気付かれなければ)
考えても仕方のないことではある。それでもそんなイフを考えずにはいられない。
もし、もしも。あのまま身体だけの関係を先に築くことができていたならば、悠太は己に対する遠慮を抱くことなくありのままに振舞えていたのではないか。そうすることで柾自身がその関係性に慣れて、すべてが上手く運んだのではないか。
現状のままでは指一本触れることすら悠太は許さないかもしれないという不安があった。現に、キスのひとつ拒まれた矢先のことだ。拒絶されることを恐れるのは人として当然の感情だろう。
終始答えのない思案を巡り巡らせて柾は帰路に就いた。
ひとりになった部屋の広さには未だに慣れない。居心地の悪さを感じながら、それでも頭を占めるのは既に彼女のことではないということにも罪悪感は這い上る。
この部屋に帰ることが苦痛になりつつあった。ただ寝起きをするだけの部屋だと言い聞かせる柾は、悠太の部屋に、その空間を共にすることにだけ安堵を見出している。
(罪滅ぼしなんかじゃない。俺は、あの笑顔に救われているんだ)
『今日来てたって明治さんから聞いた。おかえり』
悠太の方から珍しい連絡が入ったのは、土曜に切り替わった夜更けだった。仕事を終えた手で打ったらしいメッセージはいつもながらに簡素だったが、敢えて言葉を掛けてくることに柾は唇を緩ませた。
残務を家に持ち帰っていた柾は週明けに備えて会議資料の作成に手を付けて時間を忘れていた頃合いだった。
手を止めて、ほんの数秒思案した後にコールを掛けた。呼び出し音に胸がトン、と跳ねるのが分かる。
「……な、に」
開口一番の悠太の声は動揺を隠し切れずにいて、そんな些細なことに目が緩む。
「会いたいって言えよ」
「なんだよ、いきなり。おれは明治さんから聞いたから、帰って来たんだなって思って」
「俺は会いたいよ」
ただ意地悪なセリフを吐いた訳じゃなかった。悠太の口からその言葉が聞きたいのも事実だが、柾は己の気持ちを正しく受け止めて欲しかった。
電話越し、面食らったような、動揺を更に深めたような静寂が聴こえる。
目を泳がせるその仕草も鮮明に思い描けて、柾は瞳を伏せた。
「あい……たい、です、おれも。……ホントは土産なんて要らない」
「じゃあ今から向かう。いいよな?」
上々の返事に思わず笑みも浮かんだ。土曜の今日なら、悠太が許せばその出勤時間まで一緒に過ごすこともできるだろう。約束の日までの数日を悶々と過ごすことは避けたかった。未だ混乱している悠太をそのままに電話を切り、柾は身支度を軽く整え部屋を後にする。髭の確認をして、悠太がひと際好んだ香水を手首と首へ付けて。通りでタクシーを拾ってしまえば悠太の家まではニ十分弱といったところだった。
ドアベルを聞いて扉を開いた悠太は、今し方湯を浴びたばかりの出で立ちでその髪は濡れてくるくると縮んでいた。首にタオルを掛けたまま、相変わらずのはにかみ笑顔で恥ずかしそうに伏し目がち、柾を部屋へ上げた。
慌てて身綺麗にすることが精一杯だったらしく、テーブルの上は使い掛けのグラスや飲み差しの缶ビール、生活感に溢れている。
家主のくせに所在なさげな頭を柾がわしと撫でると水滴がまばらに散った。
「来ると思ってなかったから、散らかってて、ごめん」
「……来いよ、乾かしてやる」
「別にいい」と言い掛けた悠太の首から柾は素早くタオルを奪って椅子に座るように促す。しぶしぶと座った彼の膝上へ土産の紙袋を乗せてやって背後へ回り、柾はタオル越しにわしわしと髪を掻き撫ぜてやる。子どもの頃に飼っていた犬をなぜだか思い出した。
ある程度乾かしたところで、ドライヤーを取りに洗面台に向かう。もう慣れた家のような気でいたが、悠太もそれは気にしていないようだった。悠太は膝上の紙袋の中身を興味深そうにごそごそと触りながら大人しく柾のしたいようにさせて、終わるとくすぐったそうに肩を竦めて微笑った。
「城之崎に怒られた。隠れて会ってるんだろうって」
「バックヤードで電話してたの、あれ芳野さんだったんだ」
「聞こえてたのか」
「まさか、そこまで暇じゃない。でも、戻ってきてからもちょっと不機嫌そうだったから不思議だった。……よっぽど、後輩の件のこと引っ掛かってるんだな」
「ユウくんは? 俺のこと酷い野郎だって思わないの」
「おれは……」
少しだけ悠太の視線が宙を泳いだ。左上を仰ぐのは、想像をしているのだと言う。柾は視線を追わずにタオルを畳み置いて続きを待った。
「今の、芳野さんが好きだから」
「今の?」
「今とその昔は違うでしょ。ヒトは成長するもんだし」
「前向きな意見をありがとう」
悠太は寛大だ。柾と悠太のそもそもの接点を思えば、して来たことは過去の上塗りに近いと柾自身は考えていた。好奇心や興味本位から始まったことにも罪悪感は強くあった。悠太はその先の柾の変化にだけ注視しているようだった。
(俺は、甘えているのかもな。そういう考え方や在りようにきっと救われたがっているんだ)
柾はそっと悠太を背中から抱き締める。頭を寄せて、パーカーの襟から覗いた無防備の首筋に唇を寄せる。予想通り、腕の中で分かるか分からないか程度に小さく悠太が震えた。
そのままの姿勢を保って、柾は続ける。
「怖いか」
「そういうのじゃ、ない」
「このままなにもしないで続けて行くのが望み?」
「……分からない。やっぱり、怖いのかな」
身体が震え続けているわけではない。腕の中の悠太が脅えているわけではないことは分かる。ではなぜ、なにを怖がる必要があるのかが柾にはまだ分からない。
腕にそっと悠太の指が触れる。外気の冷たさで冷えた腕にその体温はひどく染みて、反射的に柾は腕を解放していた。
その温かさを奪うことが申し訳なくなったからだ。
「違う、嫌だとかそんなじゃなくて。……芳野さんに無理してほしくない」
慌てたように悠太が肩越し振り返る。その表情は置いて行かれた子どものようだった。柾は声なく息を漏らして、改めてその頬を両手で包み込み、優しく触れるだけの口付けを落とす。今度は拒まれなかったことに内心安堵する。
「なにが無理だと思う?」
「だって……」
アンタは普通の男じゃないか。そう聞こえた気がした。
悠太は言い淀んだが、恐らく柾が想像した通りだろう。伏し目がちになり、唇を噛むのが見えた。
「君がそう思いたいだけで、俺は普通の男じゃないだろ。とっくの昔から。城之崎にもさんざん言われてきたことだ。『アンタが女を本当に愛してるとは思えない』ってな」
「……ひどいよ明治さん。だって彼女とは長かったんでしょ」
「言う通りだろ、俺はそう思ったよ。でも、それと君とは無関係だ。向き合うって、決めたんだよ」
腕時計を見やると、時刻は既に二時に差し掛かろうとしていた。柾の予定ではそのまま抱き倒すぐらいまでのことを考えていたが、それには少し時間が遅いと判断する。
悠太の腕を引いて、柾は立ち上がった。
「寝よう。朝になったら、覚悟しろよ」
「……なに言ってンだか」
やっと悠太が笑うのを見て、柾も唇で笑った。
柾としては宣言通りのつもりでいる。朝、目が覚めたら。そう決意を決め込んで、悠太を布団の中で強く抱き込んだ。出張の疲れか、悠太と居ることへの安心からか瞼を閉ざせばゆるやかに睡魔が襲ってくる。腕の中の温もりが、なによりの安眠剤だった。
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