蛇足おまけ :sideM

Episode12:HESITATE

 ゲラ校正のチェックの通った記事を最後に一目確認して、まさきは確認判をその隅に押した。

 今どき時代遅れな紙媒体での校正、印鑑捺印にはめまいを覚えるが、上層部が入れ替わるまではこの習慣が消えることはないだろう。

 

(煙草はちゃっかり喫煙室のくせにな)


 同オフィス内の一角に作られた喫煙室へと足を運んで、電子タバコを咥える。紙煙草を止めて、数年が経つ。同僚たちも禁煙する数が増え、社内でもどこか肩身が狭くなる一方だった。そんな同調圧力に屈するのは気が引けたが、それ以上に面倒なのが人間付き合いというものだ。

 結局、柾は同僚の勧めを断れないまま電子タバコの本体を譲り受けることになり、長年の愛用だった紙煙草から移行した。

 苦さと同じぐらいに甘さの残る独特の風味は、意外と人受けがいい。客先に出向く時だけ身に着ける香水との相性がよいようだった。

 スマホのスケジュールカレンダーで予定を確認する。

 水曜の夜。待ちわびた日に口元が少し緩む。

 毎週、その日だけは気持ちが寛容になる気がした。仕事を定時に切り上げて、コンビニエンスで酒を仕入れて向かう先は松原悠太という青年の部屋。

 悠太の休日に会う習慣はどちらが言い出したものでもない。気付けば三月ほどになる。酒と、彼の拵える店譲りのちょっとした料理を柾は心待ちにしていた。


(来月から木曜休み、か。出張にぶち当たるのは避けようがないな)


 年明けの気怠さも少し抜けた第三週、いつもながらの地方出張を控えていることを思い出してスマホに予定を入れる。今夜会ったら、次に会えるのは二週先になるだろう。以前のように自身の休みである週末に悠太の勤務先である居酒屋へ顔を出してもよかったが、このところはそれを控えていた。

 その店の店長が大学時代の同期であるのも理由のひとつだった。


(俺が今でもユウくんと繋がりがあるのが知れたら、どんな顔するんだろうな。……殴られるも止む無しか、向こうがその準備をしている可能性がないとは言い切れない)


 ゲイであるその男、城之崎明治めいじはよくも悪くも柾のことをよく知っていた。九ヵ月前に別れた彼女のことも含めて。

 悠太もご多分に漏れずゲイであるのを知った上で、付き合いが続いていることを城之崎は快く思っていなかった。

 それには柾の過去が関係する。が、悠太はそれを本人の口から聞いた上でなお今の関係を続けることを許した。

 性行為はもちろん、性的接触をしないままただ酒とメシを一緒に談話するだけの清い交際。それに気を揉むことはあったが、悠太のはにかむような笑顔を前にいつも甘えてしまう柾だった。


(キスのひとつも強請らない、か)


 それは柾の中で意外なことだった。『キスぐらいならいつでもしてやる』と言った手前、それを強請られることぐらいは訳ないと思っていたからである。

 何度かは試した添い寝も、彼の口から望んでとは出て来ない。習慣のように柾が潜り込むのを許している程度で、望んでそうしている訳ではないだろうと柾は考えていた。

 二十八年をストレートとして生きてきた柾にとって、今更生き方を変えるのは簡単なことではない。

 添い寝にもキスにも抵抗がないのは、大学時代の悪ふざけに慣れてしまった事実が大きいのであって、それ以上の男女のようなあれやこれは自発的に試みる気にはなれないままだ。

 それを、悠太がどう感じているかがわからない。

 柾の前では出逢った頃からは考えられないほど穏やかに明るく振舞っている。

 その晩も、悠太はにこにことした相好を崩さないまま酒を飲んだ。

 皿やグラスの片付けは率先して柾が行う。その様子を椅子を跨ぐようにして座りながら眺める悠太はやはり笑顔だ。


「……来週は出張が入ったから、次は二週間後に来るよ」

「うん、わかった」

「なにか欲しい物があったら言えよ、今度ははるばる福岡行きだ」

「……うん」


 うわの空の返事。思わず柾は手の水気を払い振り返る。にこにことしていたと思っていた悠太はぼんやりとしていて、目を合わせた途端ハッと我に返る様子を見せた。


「どうした」


 その頬は触れるとほんのりと熱を帯びているが、体調不良のせいではなさそうだと柾は思う。


「なんでもないって。……心配しなくても、おれは元気」

「そう言うヤツが一番信用ならないんだよ」

「当たり前をしあわせだと思っただけ」


 それらしい言葉に一旦は納得してしまいそうになる。が、出逢った頃の悠太は酒が入ればべったりとくっつきたがるような性分だったことを、よく憶えていた。

 それが、この近頃はまったくと言っていい、そんな姿を見せなかった。


(しあわせなヤツがする顔かよ。とうとう、シラフじゃなくても言えなくなった、のか)

「……キスしてやろうか」


 半分本気、半分は悠太を試した言葉を掛ける。

 へらへらと笑って悠太は首を横に振る。そんな様子に柾は小さく息を吐いて、屈み、首を傾いでその唇まで距離を削いだ。

 それを、悠太の掌がやんわりと拒む。


「いいって、芳野さん」

「なにが」

「おれ十分しあわせだって」

「……俺の善意を無駄にする気かよ」

「無駄じゃないよ。足りてるンだって」


 躍起になってその頬を包んでみたが、やるせなくなって柾は肩を落とした。その隙に悠太は椅子から立って浴室へと消える。ややもしてシャワーの水音が遠く、聞こえた。

 

(嘘が下手だな、まったく)


 だが、その真意まで測ることができない。拒まれるようでは悠太が柾自身に抱いていたであろう好意そのものにも疑問が生まれて来る次第だった。

 これが女相手であれば、嫌よ嫌よも好きのうちと浴室まで追い掛けてそのまま強引にでも抱いてしまえばいい、と柾は思う。しかし、同性相手にそれが通用するのかははなはだ疑問であったし、また、それをすること自体に抵抗がある。

 

(……気に入ってるんだ。好きだよ。でも、それとこれとはまた違うだろ)


 二度、性的接触を持ったことがある。が、それは結局のところ柾にとっては過去のフラッシュバックと本来ありえないという常識の狭間で苛まれて、楽しむことも相手を悦ばせることも十分にできたとは言い難い経験だ。

 再び水道の蛇口を捻って、洗い物を再開する。

 ともすれば、やはり、添い寝のひとつそれでさえも、悠太にとって心的負担になっているのではないかと思い当たる。

 

(蛇の生殺し、か)


 シャワーの水音が止む気配がない。洗い物をひと通り終えた柾はそれに気付いて様子を見に行くべきか躊躇った。

 いつもがどうであったのか、それまで気にしたことがない以上、それが習慣であるのかも知れない。

 踏み込むべきか否かを悩んでいるうちに水音は止んで、扉の開く音がした。思わず息を吐き出す。

 

「なにヘンな顔してんの」

「あんまり長いから、心配したんだよ」

「酔ってるからって倒れたりしないよ、おれはじーさんか」

「ヒートショック」


 わはは、と笑う横顔に柾は安堵する。下着一枚で頭をタオルでがしがしと拭きながらペットボトルのお茶を取り出す姿はいつも通りに見えた。


「芳野さんも入っておいでよ、おれ先に寝るけど」

「……ああ」


 気持ちよくラッパ飲みをかますのを横目に頷いた柾は、言われた通り湯を浴びることにした。この調子だと、今日も眠る悠太の隣へ忍ぶように添い寝をすることになるだろう。

 ほどよいを通り越して、距離はやや開いている。

 悠太は寝つきがいい。柾が上がる頃にはすっかりと寝息を立てているだろう予測はきっと外れない。


(こんな調子で次に会うのが二週間先だって? 思いやられるな。……あるいは他所に男でも出来てるんじゃないのか)


 そんな不躾な質問ができるほどの関係性ではなかったが、一度考え付いたことはその後シャワーを浴びても頭にこびりついて離れなかった。

 予想通りの規則正しい健やかな寝息を前に、柾は背中合わせに寝台へ入る。

 胸のざわつきは、浅い眠りに居心地の悪い夢を見せるのだった。起き抜けにはその詳細を思い出せないくせに、感情だけがじわりと余韻を残すような。

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