Episode11:軌跡

「カンパーイ」

「ウェーイ」


 ジョッキとジョッキのぶつかり合う音。不定期開催、閉店後の明治による自作カクテルパーティ。

 約ひと月振りの開催に、今度はバイト組も加えて今夜は盛大な宴状態だった。一旦バイトを終えて帰ったはずの彼等が持ち寄ったファストフードをアテに明治が今夜振舞うのは、度数を抑えた手製サングリアだ。

 ひとしきり盛り上がったところに、明治が煙草を吸いに席を離れたところを、悠太は後を追って裏口へ出た。


「明治さん、おれね」

「悠太にはあとでテポドン出してあげるから、もうちょっとあれで我慢して」

「そうじゃなくて」

「……なによ」


 九月が過ぎようとしていた。あれから明治と一緒に話す時間はいくらもあったはずだが、悠太は芳野との一件も、榮井との一件も口にしないままでいた。

 自分の心の中でじっくりと考える時間が欲しかったからだった。

 明治は紙煙草を咥えて、火を点ける。


「おれ、やっぱり芳野さんのことが好きなんだ。……女しか抱けないような人だって、厄介だってわかってても」

「……うん、それで? どうするの」


 あくまで冷静に明治は答える。その表情に色はない。悠太の動向を静かに見守って紫煙を隣に吐き出した。


「おれね、セフレともちゃんと別れたンす。全部、自分誤魔化してるだけだって気付いたから」

「でも、だからって柾がアンタのことちゃんと見てくれる保証なんてないでしょ。アイツは――、今だから言うけど夏前にオンナと別れて気が動転してるのよ。ずっと長い付き合いの、面倒見のいい子だったのにね」

「そう、だったんですか」


 他人の事情をむやみに語らないはずの明治が、声を抑えて言う。

 わいわいと賑わう声が扉越し、聞こえているがこちらに人が来る気配はない。悠太は、扉へ凭れながら続きを待った。


「ワカから聞いた。『クリムソフト』で別の男ともシケ込んでたんでしょ。だったら、柾にこだわる必要なんてないはずでしょ。確かに、今のアイツはちょっと変だわ。また悪いクセが出てるんじゃないかって思ってる。……言ったでしょ、二の舞は嫌なの」

「……おれね、ホントだめだめで。芳野さんから面と向かって『女しか抱けない』って言われてるのに、その時の顔も声も思い出してイけるぐらいどうかしてて。多分もう、今更だと思う」


 別の男が芳野であることを言う必要はなかった。芳野のプライドは守られるべきだと悠太は思っていたし、それを口にしていたら明治は芳野を殴りつけに行ってもおかしくない気がした。

 明治の吐き出す紫煙は、ため息に見える。足元におざなりに置かれた水の張った一斗缶へ煙草を投げ入れた。


「今度見たら殴ってやりたいようなセリフだけど。……じゃあ、特別に一個だけ俺から悠太に教えてあげる。柾は、ゲイじゃないって言うけど、純粋なストレートじゃない。アンタがそうだったみたいに、自分の中で違和感を持ってる。確実にね。こないだ一緒に酒飲んだ時にぼやいてた。あんまり面倒だったからアンタに相手がいること言っちゃったけど」

「……それっていつ」

「『クリムソフト』に行くのが決まってすぐ、ぐらい? ユウくんユウくん煩いから、セフレもいるし立派にテンバも行くゲイしてるわって教えた」


 悠太の瞳が揺れる。「だから」芳野はあの店に現れたのだ。思い返すとその時の挙動がなにかを確かめるものであったことがわかる。専属の相手を知ろうとするのも、行為のひとつひとつも。悠太を探り、また己を確かめるための工程であったのだと。

 

「そ、れで芳野さん、どうしたんですか」

「だんまり。明らかに苛立ってたけどね。……悠太、気持ちはわかった。でも、忘れないで。あの男が自分を認められるかどうかはまだ決まってない。一生、受け入れられないで普通の男として生きていく道も、あるにはあるのよ」


 それが少なくないとばかりに明治は目を細めて話す。まるで経験があるかのようだった。いや、大学時代から芳野を見て来たからこそそう思うのかも知れなかった。恐らくは異性に囲まれて来たであろう芳野の姿が側にあったのであれば、それは知ったようなものかも知れなかった。

 覚悟を確かめるように、悠太へ視線を寄越す。

 悠太は、無意識に汗ばんだ拳を握り締めた。


「おれ、あの人がおれに靡かなくても好き」


 ひと月、ずっと逡巡した末に出せた答えをぽつりと言葉にする。明治の笑う気配がした。両腕で、しっかりと悠太を抱き締めて背を叩く。


「バッカねえ。……そういう悠太がかわいいのは俺もわかるわ」

「明治さぁん」


 馬鹿らしく、上擦った調子で明治に縋りついた悠太は、ぐりぐりと頭を肩口へ摺り寄せた。よしよしとその頭を手が撫で梳く。

 頭の中にあった点と点が、緩やかに結ばれて行く。


(……おれだけじゃなかったんだ)





 秋深まる十月。晴天の空模様に忘れ物のように夏日が続いていた。芳野からふた月振りの連絡が入った時、悠太は予想より穏やかにそれを受け止めることができていた。


『うまい土産があるから一緒に食わないか』


 相変わらず、突拍子がない調子に笑ってしまう。ふたつ返事に『いいよ』と送って、詳細な日取りを詰めた。

 約束は悠太の定休になりつつある水曜の晩。いつか芳野が置いて帰ったままの地酒用に間に合わせで揃いの切子硝子のグラスを買った。

 芳野は夕方、十九時きっかりに部屋を訪ねて来た。

 慣れたように、久々と思えない要領で鴨居のハンガーにテーラードを掛け、テーブルの上に紙袋を置いた。


「冷めちゃったから温めてくれ。酒は……」

「芳野さんがくれた地酒、冷えてるよ」

「さすが」


 今日は総菜しか買って来なかったと袋の中身を取り出す芳野。悠太は地酒を冷蔵庫から取り出して、振り返り様に交換するように総菜の紙箱を受け取った。

 有名中華の飲茶だった。


「ヨコハマ? また出張だったの?」

「今日の昼過ぎまでみなとみらいの写真撮影に付き合ってた。今度新しいスポットができるからその取材」

「へえ、なんかそういう話聞くのも珍しい」

「そうか?」


 久し振りに会うにしては会話もたどたどしさがない。ごく自然を装える、というより悠太自身が自然に振舞えていた。そんな波長が伝播したように、芳野もまた気を楽にしているのが窺えて、悠太は人知れず相好を崩す。

 温め直した飲茶と、芳野が以前寄越した干物を炙ってアテにする。まるでちぐはぐな献立にも、文句を言う人間はいない。

 ただこうして並んで再び酒を酌み交わせること、会話ができることがすでに奇跡だった。


「酒が強くなったな、今なら明治のあの酒も飲めるんじゃないのか」


 ほの赤い顔を晒しながら、芳野が微笑う。

 確かに、この半年間で急激に強くなっていた。手持ちの酒を舐めるように空ける。


「……うん。芳野さん、言ってもいい?」

「なにを」

「おれ、芳野さんが好きだよ」


 芳野は虚を突かれたような顔をする。そんな反応にも笑って、悠太は干物を箸でつついた。ただそう宣言しておきたいだけだった。

 息を飲むようにして言葉を探しあぐねている芳野を前に、なんでもない顔をして料理を口にする。

 どんな答えが返ってきても、ただひとつ変えられないもの。


「明治さんから色々聞いた。なんであの店にいたのかも、わかった。全部、自分で自分を試してたんでしょ。すげえ辛そうな顔しちゃってさ。そんなことしてでも、おれに会いに来てくれたこと、キスしてくれたことも、抱き締めてくれたことも全部。おれは、すげえうれしかったんだよ」


 芳野が箸を下ろす。手元を見つめながら長考している様子を上目に見て、悠太はふ、と息を吐き出した。


「こうやってさ、会ってくれてるだけでどんだけ勇気いんのかなって。……思う。それだけのことだけどさ、おれはうれしい。今ここに、一緒にいてくれるのがうれしい」

「……ユウくん」

「そんな顔しないでよ。もう、十分でしょ自分を試すのは。嫌なものは嫌でいい。あんなこと、もうしなくていいから」


 芳野の表情は、悠太には辛そうに見えた。思い出させているのは自分だったが、それでも今大切なことを伝えたい。まっすぐに言葉を紡ぐ悠太に、芳野の視線が上がる。


「俺は、君が好きなんだと思うよ」


 今度は悠太が言葉に詰まる番だった。

 それは期待こそすれど与えられることのないだろうと思っていた言葉だった。戸惑いと躊躇いの交差する眼差し。揺れ合って、耐えられずに先に反らしたのは悠太だった。


「もういいって。女しか抱けないなんて言われて、それでもこんなこと言ってるおれがおかしいんだって。おれはそういう芳野さんを好きになっちゃったんだからさ」


 へらりとかわしてグラスに酒を注ぐ手を、芳野が止めた。


「城之崎から状況聞き出そうとして、逆にその情報にあてられた。傷ついたりショック受ける道理はないのにな。昔を思い出すみたいでさ、なかなか踏ん切りがつかない。……オンナのひとりも大事にできないような男が、どうやってこんな歪なもんを大事にできるんだって……自信がないよ、今も。気の迷いだって言われたら、そうかも知れない。答えが欲しくて、今日も会いたかったんだ。俺が迷惑を掛けてるのはわかってる」


 すまない、と零して悠太の手を離す。

 悠太は酒を注ぐのを止め、グラスを置く。おもむろに立ち上がると、椅子を引いて芳野の隣へ並ぶようにして腰を下ろした。

 乾いた唇を舌で潤してから口を開く。


「その昔の話、してよ。明治さんは教えてくれなかった。……彼女とも、別れたって聞いたけどいつ?」

「別れたのは、ちょうどユウくんと会ってすぐの頃だよ。君の関係じゃなくて、前から拗れていた。潮時だったんだ」


 打ち明け話は視線がかち合わない方がすんなりと進むものだ。芳野は今更隠すこともないとばかりに、話した。口論の翌日、彼女が姿を消していておざなりになっていた関係のはずがショックを受けたこと。ひとりの部屋に帰ることが怖くて、悠太を頼ってしまったこと。悠太が、昔手慰みに揶揄った後輩と似ていたこと。


「はじめて会った日のこと、忘れてるだろ。俺は君が人懐こそうに近付いたのをいいことに裸同然でベッドで抱き締めた。キスもした。……やけくそでやったなんていい大人のやることじゃない」

「……後輩のこと、好きだったの?」

「どうだろうな。俺に懐いてるのがかわいくて仕方なかった。でもどこかで俺はあいつを――同性愛者をバカにしてたんじゃないかと思う」


 独白は重い。思い出しているのだろう、眉間に皺を深く刻んだ芳野は片手に顔を覆って、唇を噛んだ。

 悠太はその肩にやさしく手を置く。


「俺は女が好きなんだとずっと思っていた。そうあるべきだと。でもな、振り返った時にそこにあるのは傷つけて来た思い出ばかりなんだよ。そもそもが俺に人を愛するだけの資格があるのか? レンが出て行ってからはそればかり思うようになった。君が側にいると、心地がいいのに辛くて堪らなかった」

「芳野さん、……芳野さん」


 拳を強く握り締めている手に気が付いた悠太がその手に手を重ねる。芳野の呼吸が乱れていた。その心中を察することはできる。背を撫でて、やさしく声を掛けた。彼女の名前をぽろりと零すぐらいには、ほどよく酔っているのがわかった。


「芳野さん、おれも自己中だよ。だって突っぱねられたってこの気持ち変えられないんだ。ごめんね。芳野さんがおれのこと愛せなくても、誰かを愛しても愛せなくても。多分もう変えられないんだ。……そんなに自分責めないでよ」

「あの日最後にここに泊まった後、ずっと考えていた。君と距離を持つべきだ、持とうって。それがこの体たらくだろ、久し振りに会ったら気のせいにできるなんて、少しでも思ってたんだ」


 頑なに拳を握るその手を、悠太は上から解すようにして握り込んだ。反対の手で芳野の肩を抱いて、肩口に顎を預ける。


「ごめんね、芳野さん。突き放してあげられたらよかったのかもだけど。……おれ、そんなの聞いたら逃がしてあげられないかもしんない」


 ゆっくりと手の緊張が緩んで行く。ホッと安堵した悠太はもう一度、今度は両腕でその肩を抱き締める。芳野の手が悠太の肩に添えられた。少し迷うようなその指先に、ゆっくりと力がこもる。


「今はもうなにも考えないで。おれは、芳野さんに会えてるだけで幸せだよ。芳野さんは? 会ってみてどう思う?」

「……会いに来てよかったと思うよ。本当に」

「なら、もうそれでいいんじゃん。うまいメシ、うまい酒。一緒に寝てくれなんて言わないからさ」

「俺が、そうしたいと思ったら?」

「……そんときは、そうしたらいい。また寝惚けて蹴落とすかもしんないけどさ」


 はじめて、芳野が小さく笑った。もう一度、しっかりと抱擁をしたら悠太は腕を解放した。見上げる芳野の顔はほんの少し、すっきりして見える。

 歯を見せるように笑って、今度はふたりのグラスに酒を注いだ。合図し合うように目配せで持ち合って、今一度かち合わせる。

 

(これははじまり。まだ、はじまってさえいなかったんだ)


 ほんのりと常温に戻った酒は甘く柔らかに喉を滑り落ちて、胃を温めた。心を温める、この感情のように。

 この軌跡は続いて行く。その行き先は未知数だ。それでもどこか、今だけはなんの恐れもなく未来を信じられるような気がする悠太だった。

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