受容
Episode10:アデプション*
悠太はひどい頭痛で目覚めた。無理もない、二日連続で許容量いっぱいの飲酒をしたのだから。顔を歪めつつ、隣を見るとそこには眠る芳野の姿がある。
思わず時計を確認する。午前七時。
珍しく早起きできた理由は、隣で眠る芳野のせいだろう。
(ああ、デジャ・ヴだ)
はじめて芳野と会った翌朝と同じ状況再現。昨晩、芳野は悠太を抱き締めたままベッドに入った。それ以上のなにもしないし、されない。言葉もろくに交わさなかったことを思い出して、やりきれないような笑みが零れた。
背中を蹴り起こすような真似はもうしない。するつもりになれなかった。音を立てないように腕を抜け出して起き上がり、ダイニングに立って悠太はふたり分の珈琲を淹れた。
(この人がここにいるのはきっと今だけだ)
そんな気がしていた。少しの満足感と、少しの侘しさ。それでもそれ以上をもう求めてはいけないと自分で釘を刺す。
芳野があの場所にいた理由はわからないままでも、その行為を心から楽しんでいたわけではないことがなんとなくわかったからだ。あの冷えた眼差しは、それに対する確かな嫌悪感だったと悠太は確信していた。
その相手が明治だったら。榮井だったら。他の誰かであったなら。きっと苛立ちも怒りも悔しさも、その理不尽さをぶつけられていたはずだったが、芳野相手にそんな気持ちは露ほども湧かない。
(ほんと、理不尽な話なのにな。おかしいよおれ)
マグをふたつ並べる頃、芳野は起きて来た。同じく、頭痛に顔をしかめて。そんな顔を見て思わず悠太は破顔した。
「おはよう」
芳野は頷くだけだ。そのまま対面に座って、しばらく呆けている様子を前に胸の疼く感覚は勘違いでは済まされない。
(それでもやっぱり、好きなんだなあ)
どうしようもなさに眉を垂れるしかない。苦い珈琲がより一層苦く感じられた。芳野は珈琲を飲みながらなにか考えるように黙り込んでいる。
「しこたま飲んだんだ、仕事なのに」
「……シラフじゃいられない気持ちが少しはわかった」
「なんだそれ」
「ああ、なんで今日休みじゃないんだろうな」
その姿は昨日の自分を悔やんでいるように見えて、悠太は口を噤む。昨晩のことに繋がる話はこれ以上すべきでないと思った。
珈琲一杯を飲み干したら、芳野は立ち上がって身支度を整えた。
「さすがにこのナリで出社するのはどうかと思うから、一度帰るよ。……また連絡していいか」
その言葉は意外だった。悠太は思わず言葉に詰まる。
「芳野さんが、いいなら。またいつでも連絡してよ」
その言葉をひり出すまでに時間が掛かった。それでも、言えたことに安心した悠太は、うれしそうに口元を緩める芳野を見上げて同じように笑みを返す。
芳野を送り出して、再びベッドに入ることにした。微睡みの中、胸を占めるその思いがずっとこのまま続けばいいのにと願った。
それきり『クリムソフト』には出向かなくなった悠太は、控えた榮井との逢瀬を前に悩んでいた。
榮井の連絡に週末の人の多い臨海公園での待ち合わせとその側のホテルをリザーブしたという内容の変更があったからだ。
(重たいでしょ、そのチョイスは)
確かな詫びたいという気持ちの表れであったが、誰にどんな風に目撃されたものだろう、それが一般の人間であってもきっと榮井のことだ、人前で腰を抱くぐらいのことはするだろうと想像が付いて悠太にはため息しか出て来ない。
それでも、悠太には榮井に会って思いを告げるという覚悟ができていた。ただひとつ、その目標を叶えるためだけに会うつもりだった。そのために、悠太は榮井に電話を掛けた。
「亮介さん、……悪いけど会うのは明日で最後にしよう」
予め夜半に掛けることを伝えた悠太の仕事上がり。榮井は電話の向こうで第一声に声を詰まらせた。
「どうして、って聞く権利ぐらいはある?」
「おれ、好きな人ができた」
「……嘘、じゃないね。はじめからそうだったんでしょ」
これまでの独占欲を隠さなかった榮井であるだけに、落ち着いたその言葉に悠太はどこかホッとする。
「それじゃあ明日会うっていうのは? どうして」
「当日言われたんじゃ堪ったもんじゃないなっておれなら思うから。じゃあもう会わなくていい、って言う?」
「……なるほど、やさしいのか残酷なのか。そういうことならオレは最後なんだからって調子づくけどね」
「ごめんね、……って先に言っておきたかったんだ」
この段組みをしたからといって、榮井が当日粘らない保証はなかったが、精一杯なりの悠太の気遣いのつもりだった。
(こっから先は野となれ山となれ、じゃないけどさ。榮井さんだっていい大人だから、ちょっとぐらいそこに期待してもいいよな?)
「わかったよ、心づもりだけはしておく。……またね」
「おやすみなさい」
妻の目を搔い潜って今も電話に応じているのだろうか、と考えると悠太の気持ちは後ろ暗くなる。それももう今度で最後だと思い直して、電話を切った。
土曜の臨海公園にはやはり家族連れやカップルの姿が目立った。先に連絡を入れておいたおかげなのか、榮井は接触を最小限に留めてしばらく静かに波止場を眺めていた。
夏の盛りを過ぎ始めたとはいえ、まだまだ日差しが暑い。
「最後のお願いしてもいい?」
訊ねる榮井の声は海風に飲まれそうに小さかった。
悠太は隣へ並んで、視線を投げ掛ける。
「もう一度だけ抱かせて欲しい」
「……おれ」
「オレに諦めさせてくれよ。……どんな男が好きになったのか、教えて欲しい」
頼むよ、と榮井の唇が言う。納得が行っていないという顔で悠太を見つめ返す。
今にも腕を掴みそうなその切実さに、周囲の目を恐れた悠太は頷き返していた。
大衆の前でそんな会話を交わすぐらいなら、それを気にせずともいい場所のほうがずっといいと考えたからだ。
(それに。カラダひとつでもう変えられないんだっておれも感じたい。それで絆されるようなものじゃないはずだから)
それは悠太の自分勝手な望みでもあったが、巡り巡っては榮井自身が望むことでもある。海沿いのシティホテルで鍵を受け取ったふたりはオーシャンビューの部屋へ上がった。
さぞ、夜景も綺麗だろうと思われる部屋だったが、ふたりとも景色には目もくれなかった。
確かめるように触れ合う。その意図がそれぞれ別のベクトルを向いていてもなにかを探すように指で
(嫌いなわけじゃない。それでも、本当に欲しいものを誤魔化してこんな風に消化するなんてのは、不幸でしかない)
互いにとって。確かな悦楽の端で悠太は考えた。
フィニッシュを迎える瞬間に思い描くのはあのムスクと、
『俺は女しか抱けないよ』
その、言葉だった。
「…………ッ」
幻聴と同時、腰が跳ねて白濁が散る。予想外のことに悠太は目を瞠った。胸を突き破りそうな勢いで鼓動が跳ね、動揺した姿に榮井が鋭く目を光らせた。
「その男のなにがいいの。……一途に抱いてくれもしない男なんでしょ、きっと」
だからこんなことを繰り返しては意識を飛ばしていたんだろう、と榮井は暗に言う。
肩で息をして、悠太は息を整えた。
「おれを相手にしないところ」
(……ああ、そうだ)
唇から転がった言葉に、悠太は自分で驚いていた。そして心の底から納得した。ずっとつっかえていた思いの正体を、ようやく明かせた。
榮井は眉を寄せたが、長くひとつ息を吐いて首を小さく振った。
「……どうしようもないな。確かに、オレが代われるとも思えないけど。バカだな、君は」
「わかってるよ。バカですよ、どうせ」
くしゃりと髪を撫でる手をやさしく払って、悠太は身体を起こした。これ以上のやさしさも気遣いも、必要がなかった。
「またあの店で会ったら、誘うよ?」
「本当にしそうだから、亮介さんは。……奥さん大事にしなよ」
「それとこれとはまた話が別。特定を作るのはやめにするよ。やっぱりオレには一期一会が合うみたいだ」
懲りない様子の榮井だが榮井には榮井の事情があるのかも知れない。そこを善悪で裁くのは悠太の範囲ではない。浴室でひとり、身体を洗い流して戻り、身支度を整える。
榮井はその間に入れ違いに浴室へ入った。
「別れ話になるってわかってたのに、予約通しちゃうんだもんな。折角の部屋なのにもったいないよ」
「……オレの人脈を舐めるなよ、ひと晩くらい呼べば来る相手はいるさ」
バスローブ姿で上がって来た榮井はそのまま残るつもりなのだろう。ソファに腰を下ろして、スマホを弄る姿を見せる。
「それじゃ、……元気で」
「ありがとう、悠太くん」
「……ありがとうは、おれのセリフだよ」
また、とは言えない。薄く微笑って、悠太は部屋を後にした。ロビーを出ると夕風が頬を強く打った。
泣きたい衝動に駆られるのはなぜだろうか。深呼吸でほんのりと香る潮風を吸い込んで、歩き出す。
身軽になった弾みで、風に飛ばされる糸の切れた凧のような気分だった。
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