Episode09:サイテーナイト*
月曜の夕方、いつものように仕込みをしながら悠太は有線の邦楽をハミングする。明後日が楽しみで仕方がなかった。明治に突っ込まれることさえ見越して機嫌がよかった。
「ちょっとぉ……そこまで機嫌いいと逆に不気味なんだけど。昨日の男と楽しめた?」
「いや、もっとイイ男に声掛けられたンす」
「え、あの後しっぽりしたんじゃないの? まさか連荘? やるわねーアンタ」
悠太はニシシと歯を見せて笑い、控えめながらブイサインを見せた。
「そのイイ男とまた水曜あそこで会う約束したんで、今日のおれはサイコーにテンアゲなんです」
「それはなによりだわ。仕事にも精が出るってモンね」
「明治さんこそ、ワカさんと久し振りにイチャイチャできたンでしょ?」
「……んふふ。たまにはああいうのも悪くないね」
明治の表情から、同じくいい思いのできた夜であるのはわかる。悠太は二人が絡み合う姿を一瞬想像したものの、想像はすぐにあの男と入れ替わった。
(マジ、いい身体してたな。顔わかんなくても、いいぐらい。……そっか、だから照明暗くていいんだ)
大切なのは身体の相性だったのだろうか。そんなことをぼんやり思いながら悠太は仕込みを終える。
月曜の夜は人入りもまばらな方で、バイト組と談笑ながら仕事を捌いた。
榮井はあの晩以来連絡を寄越していなかったが、仕事終わり悠太がスマホを開くとそこには丁寧な謝罪と、次はホテルで会った後に食事を奢ると約束を取り付けるメッセージが入っていた。
(亮介さんとの関係、なんとかしなきゃな)
どうやって。反射的に思ってはため息が漏れる。こうやって不倫関係というのは続いて行ってダメになって行くのだと頭では理解していた。なにか切っ掛けが必要だった。このまま連絡をしないだけではきっと、榮井は納得するような男ではない。手短な、感情を感じさせないメッセージを返した後、ひとりで悠太は罪悪感を募らせた。
再び『クリムソフト』。男と出会った時間に合わせて悠太は店を訪れバーカウンターにひとり席に着いた。
バーテンの中に若林の姿はない。訊ねると、彼の本職は別にあってここに立つ日はそう多くないということだった。
酒を注文して、グラスを受け取る。この頃は酒に強くなった自負もあって、度数の高い物を敢えて選んだ。
「待たせたな、行こうぜ」
グラスを半ばまで減らしたところで、あの男の声がした。グラスを奪って、残りを飲み干す。悠太が呆気に取られているとその手を引いて先日と同じ個室トイレに悠太を押し込んだ。悠太の両手を拘束したまま、その首筋を唇が順になぞって行く。
距離を削ぐと香るムスクが、それだけで体温を上昇させる。堪らず、悠太は両手が自由になった瞬間を狙って男の身体を抱き締めて、匂いのひと際強い首筋へ鼻を埋めた。
「おれ、この匂い好き」
文字通り酔い痴れた頭で紡ぐ言葉は語彙力なんてものを奪う。甘たるく零して悠太は、期待で満ちた熱を男に寄せた。相手のそれが同じように熱を持つことに気付いたら、そっと手で触れて、硬さが増すまで刺激を与える。
「こないだはシてもらったじゃん。今度はおれの番」
「……じゃあ咥えるか」
「いいよ」
ふたつ返事で頷いて、男の股間へうずくまる。唇で奉仕するのは得意だったし、なにより、好きだった。匂いや形、感触を楽しみながらじっくりと男を快楽に導く。
吐き出されるものを零さず啜り上げる姿に男が眉を寄せたのが上目に見えたような気がした。が、表情を確認するより先に、それまでにいきり勃っていた熱を手で扱かれて意識をそちらへ奪われてしまい、悠太が音を上げるまで許してもらえなかった。
ぐったりと脱力して便座に腰を下ろした悠太を見下ろす黒縁の向こうの目は冷めている。そんな眼差しに気付いた悠太は、じわりじわりと現実感を取り戻して行く。
(……なんだ、この既視感)
男の頬を、手で撫でる。表情ひとつ変えずに男はその手を取って下ろし、悠太の首筋へ唇を当てた。
「また来るだろ。……待ってる」
(またが、あるんだ)
男の一瞬の表情が胸を占める。挙動とは裏腹な冷めたそれは、まるでその行為を楽しんでいるものではなかった。それに、ようやく気付かされる。
先日と同じように男はトイレットペーパーで手にこびりついたものを丁寧に拭う。その仕草にも、わずかに違和感を覚えるが感覚的なそれは言葉にはならない。
男は悠太の頬を手の甲でひと撫ですると、先に個室を後にした。その背中に悠太は息を飲む。
蓮の刺青。
(なんで、おれ気付かなかったんだろう)
全身から血の気が引いて行くのがわかる。なぜ、どうして。疑問は次々に浮かんだが、それを搔き消すように今し方の行為がオーバーラップする。
(人違いだって言ってくれ)
皮肉にももう一度あの男に会うチャンスは約束されている。気が動転した悠太は、ぐっと込み上げる物を堪えられずに便器の中にしたたか吐いた。胃の中のものを全部丸ごと、吐き出す。
しばらくその場を動けそうになかった。まだ実感が薄い。
(あんなこと、するわけないじゃん、……芳野さんが。こんな場所、いる理由がないじゃん、あの人が。全部悪い夢だろ、勘違いだろ、そうだって言ってくれよ)
次に会った時、あの男の背中をもう一度、確認して自分が正気でいられるだろうか。迷いながらもそれをせずにはいられないだろうと確信する。
悠太は店を出た後、スマホを取り出して芳野とのやり取り画面を開いた。
『水曜の夜、開けておくからうちに来て』
芳野と思しきあの男が、悠太を悠太本人とわかって声を掛けていたか自体が定かではない。まだ、希望はあると考えた悠太は迷いながらもメッセージを送った。
(おれだってわかってて声を掛ける理由なんてあるか? ……気付いてンなら、このタイミングのメッセでわかるはずだろ)
あの男が芳野でない可能性は低い。あの刺青を見間違えることはないだろう。それにしても、あの不特定多数を集めた店で悠太だけをそれと気付いて声を掛けるなんてのは、非現実的すぎる。気付いていないのであれば、今度を皮切りにその正体を打ち明けよう、と悠太は考えた。
『わかった』
返事の速さに不規則に強弱をつけたように鼓動がひどく乱れる。
躊躇う間のひとつも持たないようなその速度は、悠太の予想が当たっているのか、外れているのかもわからせない。
ああもう、と息を吐いた。芳野相手にはまるでペースを保てない。それは、出会ったはじめからずっとそうであったように。
(ほんと敵わないや。なに考えてンだよ芳野さん)
スマホを仕舞い掛けたその時、今度はけたたましく着信音が鳴った。画面表示には『榮井』の文字。ひと呼吸置いてから悠太は応答する。掛けてくることははじめてだった。
「どうしたの亮介さん」
「どうしたの、じゃないよ。……また『クリムソフト』にいたんだって?」
「なんで知ってんの」
「顔見知りが多いって言ったでしょ。ねえ、こないだのこと怒ってるのはわかるけどさ」
榮井の声には焦りが見える。いつもより早口に急いては、どこか苛立ちも隠さない。
悠太は自分が監視されたような気になって、眉を寄せた。
「亮介さんさ、自分だって既婚者じゃん。なんでおれのこと縛れると思ってるわけ。なんでおれの彼氏面できるわけ。おれ、アンタのこと嫌いじゃないけど、そういうの好きじゃないよ」
近くにあった自販機へ寄り掛かりながら、悠太は淡々と言葉を紡いだ。電話向こうで、考えるような間が開く。
「この間からそればかりだな、既婚だから嫌になった?」
「それもあるけど、おれは縛られたくない。これ以上そういう詮索するなら、もう会わない」
「……わかったよ、譲歩する。だから来週の土曜は会って欲しい。本当はすぐにでも会いたいところだけど。……頼むよ」
「……うん」
悠太は頷きながら、榮井と会うのは次が最後になりそうだと思う。次を最後にしなければ、ずるずると続く関係が面倒くささを増すのが目に見えていた。
返答を待たずに電話を切って、スマホを仕舞う。
『柾に深入りするのはやめなさいね』
明治の忠告の言葉が頭の中でリフレインする。
(でもさ、明治さん。……やっぱりおれは自分で答えを出すよ。傷つくことになっても、いいから)
火曜の夜、仕事を終えた悠太は半日後を思うと落ち着いていられず、明治を口車に乗せ、久しぶりの自作カクテル作りの実験台を申し出た。結果、帰宅と同時に意識を飛ばして玄関で寝るという体たらくで朝を通り越して昼過ぎに目を覚ました。焼け石に水のようにウコンのドリンクと頭痛薬を飲み、夕方までをそわそわと落ち着きなく過ごした。
どんな顔をして会えばいいのかそれこそわからなかったが、店内の暗さがそれを助けてくれると信じた。実際に、一度ならず二度までも眼鏡という小道具ひとつで容易く相手を見抜けなかったのだから。
約束の時間より少し早く訪れたその日の『クリムソフト』には若林がバーテンに立っていた。顔を見るなりすぐに爽やかに挨拶をする若林は、やはり明治の隣によく似合う人柄のよさと懐の大きさを感じさせた。
「おれ、人を待ってるンだ。よかったらその間付き合って、ワカさん」
「いいよー。悠太くんまだゲイ初心者だって明治からは聞いてたけど、順応早いよね」
カクテルの注文をして、しばしの談笑。
悠太は若林が明治のはじめての恋人であることを知り、驚いた。明治が長らく相手を作らずにいたということにもどこか納得ができたが、若林を見ていると悠太には明治が明確な理由を持って恋人になったのだというのがわかり、少し羨ましい気分になった。
グラスを数杯空ける合間も、話に花を咲かせつつ店内の動きから目を離さないように気を付ける。今日は自分から声を掛けようと決めていた。その姿が入口から見えた時、悠太はするりと席を立って男の側に立った。
今日も、男は分厚い黒縁の眼鏡をしている。髪を下ろしていることも印象を変えている要因だったということがわかった。
「待ってた。……今日は部屋に行こうぜ」
男の返事を待たずに先を歩いて、空いた部屋のひとつに入る。そこでなら、男の身体をしっかりと確かめられると思ったからだ。
固いプレイマットの上に男と二人寝転がる。
男のしなやかな筋肉を指でなぞって、抱擁する。
「酔ってるな。飲みすぎじゃないのか」
悠太の頬に男の指が触れる。触れる指の冷たさで自分が酔っていることに気付いて、悠太は少し微笑った。
「シラフじゃいられなくて。……アンタに会えるのを楽しみにしてた」
「俺が来る前に誰かと相手してたのか」
「……してないよ」
改めて顔をじっくりと見ることができないまま、悠太は肩口へ顔を埋めて応える。肩越し覗き込む肩甲骨の間には、確かに小さな蓮の刺青。指でそれをなぞって、悠太は息を漏らした。諦めと、覚悟。
「
その言葉で男が自分のことに気付かないかと呟いてみるが、男はそんな素振りを見せない。その代わり先週とは打って変わって消極的に見えた。まるで、躊躇う悠太のことを慮るかのように。
「……気になるか?」
「なんで入れたの」
「昔の恋人の名前。……とか言ったら笑うだろ」
「……笑わないよ」
それが本当の話かどうかも確かめようがない。ただ話題を探しあぐねて受け答えして間を持たせているようなものだ、と悠太は思う。
ただ抱き締め合うだけ。今更そんなプラトニックに走る意味はなかったのかも知れない。それでも、悠太は動けずに、また男も動かなかった。
「なにもしなくていいのか?」
しびれを切らしたというより、気遣うように男がやさしく訊ねる。
悠太はゆっくりと顔を上げて、男の唇を唇で塞いだ。
早々に目を伏せて、意識的に男の表情を見ないようにする。先日とは明らかに違う空気感に、ようやく男も気付いたようだった。唇が離れると、ゆっくりと身体を離す。
暗がりの中、レンズ越しに合わせた視線は複雑な色をしていた。それはきっと、悠太とて同じであった。
「……また、後でね芳野さん」
ぼそりと小さな声で呟いて立ち上がり、男の背の蓮をなぞる。悠太には精一杯の表現だった。
まっすぐにシャワーも浴びず店を出た悠太は気付けば走り出していた。背中を追われることが怖かったのだ。
そうしてひとり帰った部屋で、飲み直しをしながら芳野が来るのを待った。
(帰ったのが八時。……来ないつもりなのかな)
じきに十一時になろうとしていた。テレビを付ける気にもなれないまま手慰みのようにまた酒に逃げている。ひとりクダを巻いてインターホンが鳴る頃、すっかり悠太はできあがっていた。
ふらふらとおぼつかない足で玄関まで行くと、そこには既に上がり込んだ芳野の姿がある。
「おかえり、芳野さん」
声を掛けた瞬間に芳野の腕が悠太に伸びる。驚くより先にその腕がしっかりと悠太を抱き締めた。その腕の強さと、触れた首筋の熱さに、彼もまた酔っているのだとわかる。
鼻先にまだ微かに残るムスクの匂い。腕の感触。答え合わせのような抱擁だった。
「女しか抱けないんでしょ」
「……ああ」
悠太の軽口に、苦々しく芳野は答える。それでも、抱き締めた腕の力を抜こうとはしなかった。そっと悠太がその背に腕を伸ばすと、腕の力はより一層強まった。
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