Episode08:アンバームスク*
『いろいろ世話になっておいて悪かった』
短いメッセージを最後に、悠太は芳野との連絡を断った。厳密に言えば、芳野の言葉にどんな温度感の返事をすればいいのか、見当も付かないから既読して時間だけが過ぎ、そのまま当然芳野からも追って連絡がない状態だった。
(これでいいんだ、きっと)
深追いしてもするだけ無駄なのは、ある意味榮井より明らかだった。ただ肉欲を満たすだけの相手として見るなら、そのふたりは比べようもない。
週末ごとに一度の逢瀬を悠太は結局止められないままひと月が過ぎようとしていた。相変わらず、前戯の延長と開発にこだわる榮井に気付けば馴らされて行っていた。
盆を目の前に控えた八月の第二週、店の暖簾を仕舞ったところで明治が店に通る大声で話し掛けた。
「悠太さぁ、柾となんかあったの隠してるでしょ」
ジョッキを洗っていた悠太はひと月振り三度目の言葉にあからさまに動揺して泡塗れのジョッキを指から滑らしそうになった。いつもの通り、バイト組が帰った後ではある。動揺した様子を明治に見られていないことが救いだった。
「なんすか、急に」
「まだシラ切るつもり? たった一回や二回会っただけの人間のシフト知りたがるほど、あの男が同性に興味持つなんて俺は信じらんないワケ」
(……シフト?)
明治の言葉を反芻して、悠太は首を捻るしかなかった。そんなことは知るはずもない。洗い流したジョッキを乾燥機へ大量にぶち込んだ後で、悠太はカウンターを拭く明治の横に並んだ。
「そんなの、おれも初耳ですけど」
「六月ぐらいからかな、やけに頻繁に来るようになったと思ったらなんか店内きょろきょろしてるし、挙句いつ休みなんだって聞くから。……止めとけって言ったでしょ」
「だから、おれはちょっと送ってもらったりしただけスよ。おれだって、わかってるから他に男作って……」
無言で明治はメニュー表を悠太に手渡す。その表情は決して怒ってはいなかったが、ほとほと困った様子である。責められる謂れはないはずだと思いながら、悠太は明治の無言の指示通り各テーブルのメニューを集めて回り、アルコールを含んだ布で拭き上げた。
「柾はさ、自覚的だから始末が悪いのよ。自分がモテることを知ってるから寄って来た人間を簡単に揶揄う。昔の話だけど、アンタみたいに引っ掛かって傷付いた子もいる」
明治の声のトーンが落ちる。昔話を自ら語るのは珍しいことだった。自分の過去なら多少は笑って話す彼が、他人の過去について話すのを悠太は見たことがなかった。
「おれみたいにって、男が?」
「だから、厄介だって言うの。手の届く範囲でそんな真似されるのはもうごめんだわ」
心底うんざりするように明治がため息を吐く。それから、切り替えるようにパンと手を叩いた。
「アイツの話はおしまい。来週の日曜、店閉めるから前に話してたテンバ行きましょ。……アレ、そういえばアンタセフレできたんじゃなかったっけ、いいの?」
「……いいの。明治さん、ついでなんでちょっと相談したいンすけど、おれのセフレ既婚者なのどう思います?」
「えぇ……」
(ですよねー)
拭き終えたメニューを戻していると、背後にあからさま残念そうな明治の声。半ば想像通りの反応に、悠太は苦く笑うしかない。
「面倒なことになる前に別に本命作ることをお勧めするわ。まだ、二か月ぐらいだっけ? そんな長い付き合いじゃないんでしょ、……まさか本気だったり」
「しないス」
即答を返してはみたものの、実際明治の口から別れることを勧められると全く後ろ髪が引かれないわけではない。それは気持ちの上でというよりもっと単純な肉欲がそうさせる。既に他者を介した快楽に悠太は慣れすぎていた。一方で、榮井との関係がいつ自分を破滅に導くか知れない事実も充分な懸念材料ではある。
別れられる勇気はないが、気持ちの上で続けたいと思わない。それが悠太の本音だった。
それを明治が汲めたかはわからなかったが、ひと通りの閉店作業が終わるまで会話は一旦止まる。
次に明治が口を開いたのは悠太がロッカールームに引っ込んだ時だった。
「くどいようだけど、柾に深入りするのはやめなさいね」
「じゃあ、その傷付いたやつの話詳しく教えてくださいよ」
「それは言えない。とにかく、店の外で会ったりプライベートで会うようなことはしないほうがいい。もう遅い忠告なのかも知れないけど」
ぎくりとするのを隠して涼しい顔をしてみせる。実際に見られたわけではないから、バレようがないはずだった。芳野が直接口にしていなければ。
明治が後輩思いなのはよく知れたことではあったが、これだけこんこんと言うからには相当ななにかがあったのが窺えた。それを語らない理由は、明治の芳野へのせめてもの情けなのかも知れなかった。あれこれと事細かに語って言い含めるのが一番有効的であるのにそれをしない。
「明治さん、やさしいんスね」
「心配してんの。悠太も大事な後輩だからね」
「もう、本当に会うこともないと思いますよ。……そんなだからおれ、勘違いしたンじゃんね。明治さんのバカ」
(アンタのやさしさだって、時々痛いぐらいだよ、おれは)
言えない言葉が胸の中で重い澱のように沈んで行く。四方八方を塞がれたような気分だった。どちらを向いてもまともにその相手が悠太を受け止めてくれることはないのだ。心の隙間に入り込むくせに、するりと掴めずに逃げて行く。
困ったように微笑う明治は返す言葉もないとばかり。お先ですと側を通り抜ける悠太をもう呼び止めることはなかった。
八月二十日、日曜日。明治から直接住所の送られてきた場所『クリムソフト』へ向かった悠太は店前で待つ明治と、明治より上背のある男を見つけた。二人は明らかに睦まじく、遠目にもそれがカップルであることがわかる距離感で談話している。声を掛けるのを戸惑う悠太に、明治が先に気付いて手招いた。
「紹介するわ、俺の相方の『ワカ』。この店のバーテンしててね、今日は休みなのに付き合ってもらってるけど」
「若林です、よろしくね悠太クン」
若林は白い歯を見せて笑って手を差し出した。人見知りを発揮した悠太は頭を下げて握手に応えたため、顔をまともに見ることができなかった。
(まさか男連れだなんて、思わないじゃん)
ほんのりと気まずさを感じたが、それは明治とふたりきりでも同じだったかも知れないとすぐに思い直した。今日は、あくまで悠太にとっては新しい相手を探すことが目的なのだ。
夕方十八時、夕方の部として入口でチケットを買った三人はロッカールームで指定のハーフパンツ一枚に着替え、店内入口に設けられたラウンジのバーカウンターで乾杯した。
薄暗い照明とピンクのネオンサイン、指定のドレスコード。入口で買ったチケットはケミカルライトのブレスレットと交換された。水色は『タチ』、ピンクは『ウケ』。その時々の気分で選ぶのよ、と明治に言われて戸惑いながら悠太はひとまず経験のある方としてピンクを選んだ。そこではじめて、明治が同じピンクのブレスレットを選ぶことに気付いて妙に納得する。
「明治さんウケなんだ」
「ワカ相手だとその方が慣れてるだけ」
久しぶりのデートだという明治は少し上機嫌でグラスを空けていた。若林も明治も同席の悠太のことを気遣っているのがわかったが、やはりいつまでも一緒にいるのは躊躇われる。
悠太はトイレの場所を訊ねるとそれとなく席を離れ、店内を回ってみることにした。
個室に区切られたトイレが数個並ぶ奥にはマットレスを敷いた狭い部屋がいくつか並び、その入口は犯罪防止なのか、はたまた嗜癖に対応しているのか大胆にも開いており、窓まである。ひとつの部屋の前で数人が立ち見をしているのをよそに、悠太はそっとその場を離れた。部屋からは息遣いと漏れる声がしていたからだ。
(わかっちゃいるけど改めて見ると覗く勇気ねえなあ)
多くの客はラウンジで寛ぐか飲むかしている。そうして気に入った相手を見つけたら奥に誘って行くのだろうか。照明の暗さは絶妙で近付かないと顔がわかりにくい。そんな仕様であるに関わらず、引っ込み思案の悠太には他者に声を掛ける勇気がなかった。
明治は若林と楽しそうに飲んでいる。きょろきょろと店内を見回して空いた席を探した悠太は新しくジンフィズのカクテルを受け取って人の空いたスタンド席に着いた。
「なんか見覚えがあると思ったら、悠太くんじゃん」
声を掛けられるまで時間は掛らなかったように思う。するりと腰に手を回されたと思うと、聞き覚えのある声がした。
悠太が顔を上げて目を凝らすと、そこにはドレスコードに倣って半裸の榮井の姿があった。
「りょ、亮介さん?」
「こういうところで会うのも不思議な話じゃないけど、悠太くんに限っては意外、……ちょっと残念な気分」
「亮介さんだって、こういう場所来るんじゃん。おれも、はじめてだけど」
いつもより声を潜めがちに、顔を近付けて榮井は零した。珍しく拗ねたような語調だった。
「オレはここで飲むのが好きなの、知り合いも多いからね。……よかった、だれかに目を付けられる前で」
肩に腕を回して、ぴったりと身体をくっつけて来る。少し肌寒い空調に人肌がちょうどよく温かくて、悠太は空調が効いている理由に納得した。
『クリムソフト』の常連だという榮井は、この店で知人友人と情報交換をしているのだと言う。一杯分をゆっくり話しながら空けたところで、待ち兼ねたように榮井は悠太の腰に手を添えた。
「あっちで詳しく聞かせてよ、なんでここに来る気になったのか。ついでにわからせてあげようか、オレだから安心して身体任せられるんだってこと」
「……あっちって、あの見える部屋?」
返事の代わり、唇が笑うのだけがしっかりと見えた。悠太の返事を待たずに歩き出す榮井の手首を軽く引く。
「待って、亮介さん。一瞬だけ。ツレに声掛けて来るから」
「ツレ?」
「明治さん、おれちょっと外しますンで後はおふたりでごゆっくり」
明治の肩をトン、と叩くと明治は少し酔った顔で悠太とその横に並んだ榮井を交互に見てにこにこと笑った。さっさと行きなさいとばかり手で追い払う。
「また休み明けにね」
背中に掛かる声。榮井がぴったりと身体を密着させながら、恐らく明治の見えている位置で首筋に唇を寄せてくる。独占欲を剥き出しにすることがこのところ顕著だと悠太は思う。
(それが、困るんだけどな)
「オレあの人知ってるよ。向こうは憶えてないかも知れないけど、前に一度手合わせしたことあるぜ」
「マジ、それ」
意外な接点に素っ頓狂な声を上げた悠太を、榮井が部屋のひとつに押し込んで組み伏せる。柔らかいとは言えないマットレスの上に寝転んだまま、悠太は視界の端に映る窓の外に人が来ないようにと意味のない祈りを捧げるしかない。部屋の照明は廊下の方が明るいとはいえ、やはりギャラリーが付くことがあるのは先ほど確認済みだ。
「この店で見たのははじめてだけどな。案外可愛い人だよ。……ってのは置いといて。オレに触られるだけじゃ不満?」
腰の下にすっと硬い物が差し込まれて腰部が持ち上がる。マットレスと同じビニール素材の枕だった。はじめての動きに、悠太は戸惑うしかない。
「誘われたンすよ、……付き合いみたいなもん。正直自分から声掛けるような勇気はなかったって」
「知ってるよー、最近慣れて来たからちょっと刺激が欲しくなったんでしょ。オレ悲しいなあ、だれかに触られるの嫌だなあ」
罪悪感を煽るように榮井は寂し気に眉を寄せる、がその手はちゃっかりと動いて枕元に常設されたローションのポンプを手に取りながら、片手に悠太のパンツに手を掛けてやる気に満ちていた。
(こんなはずじゃなかったのになあ……結局亮介さんとヤってるんじゃなんも意味ないじゃんね)
愚痴を零すのは心だけに留めて、悠太は榮井の挙動を見守る。濡れた感触が肌を滑ると、自然と身体はその気になる。反射的に仕込まれた技はそれが榮井だからなのかどうか、それを知る術を悠太は持たない。ただその身を任せていれば確実に気持ちよくなれるということが、わかっているから抵抗する気にもなれない。
裏切りを許さないように、はじめてを侵すそのことにも。
榮井の丁寧な開発の成果か、苦痛を感じることはなかった。ただ、それだけで快楽を得ようとするのはまだ難しいことがわかった。
だらだらと涎を零すそれを触らせてもらえないままもどかしい時間が過ぎる中、息遣いと喘ぎに満ちた空間を割くバイブレーションの音。
現実に引き戻された二人は顔を見合わせる。
音の元は榮井のスマホだった。バイブを止めて、榮井が盛大にため息を吐く。心底、残念そうに。
「……すっかり忘れてた。行かなきゃ、オレ」
「え、まさかこんな状態で置いてくの?」
「ごめんね、埋め合わせは絶対するから許して欲しい」
中途半端なのは榮井も同じだったが、既にその音ひとつで刀身は萎えてしまっていた。軽く始末を終えて、ハーフパンツを履き直して悠太の手を取り、立ち上がらせる。
唇にキスを一度して、悠太の頭を優しく撫でるとあっさりと立ち去った。併設のシャワーブースに入って行く背中を見守って、悠太もひとつ息を吐いた。
(なんだよお……めっちゃもどかしいじゃん。なんかもう誰でもいいから一回抜きたいンだけど)
「……ッ」
ぼんやりし過ぎて、すぐ側に人が立っていることに気付かなかった悠太は肩をぶつけてはじめてその存在に気付く。男の立ち位置は今し方悠太のいた部屋のガラス窓の側で、今の様子を覗いていたことが明らかだとわかって悠太は身を硬くした。
黒縁の厚い眼鏡を掛けた男が、唇だけで笑う。自然とその肢体に目をやった悠太は肉付きのいいほどよい筋肉に息を飲んでいた。
「間の悪い男だな。……俺が相手してやろうか」
(ああまずい、タイプど真ん中だ)
低く囁くような声に、無意識に震える。好みの男だと本能でわかった悠太は目のやり場に困って視線を右往左往させながら小さく頷いていた。
手を引かれた先は個室トイレだった。
同じく照明の明るいとは言えないそこで壁を背に立たされた悠太は男の手だけで快楽を得てしまった。焦らされ続けたそれは堪え性もなく壁に染みを作っては羞恥と惨めさに顔を俯けるしかない。
そんな悠太に男は耳元でじわじわといたぶるように罵り、潔癖そうに手と壁を拭って笑っていた。
「ここにはよく来るのか?」
「……今日がはじめてです」
「じゃあ、あの男が専属じゃないんだな。また遊びたいなら、今日と同じ時間にここに来いよ」
耳元まで顔を近付けられてはじめて悠太は男の纏う香水に気付く。鼻孔を擽るムスクの匂いに微かな煙草が混じる。痺れるように胸を掴む匂いに、息を深く吸い込んでしまう。
(あまい、匂い。脳が溶けそう)
「おれ、いつもはこの時間仕事だから……」
「じゃあいつがいい? 空けてやる」
「……水曜」
「わかった、水曜のこの時間だ。今度は先に食われるなよ」
耳朶をやわく食んで、男は離れる。放心状態の悠太はそのまま便座に座り込み、男の背をただ見送った。
いや、実際にはその目は男の背など見えていなかった。しばらくの間、恍惚と、少しの怠惰に酔っていた。記憶にしっかりと刻み込まれたのは、ムスクの香り、それだけだ。
悠太がラウンジへ戻る頃、時刻は夜半に差し掛かっていて明治や若林の姿もそこには見当たらず、悠太は入口のシャワールームでさっぱりしてからのろのろと帰宅した。
いい男との次の約束に、すっかり気をよくしていた悠太は久し振りにぐっすり眠れるような気がした。
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