Episode07:女しか抱けないくせに*

 目覚めた悠太はスマホの時計を見て文字通り飛び起きた。時刻は昼を回っていた。あの後そのまま芳野とベッドに入ったところまでは覚えているものの、さっぱりきれいに寝落ちたようだった。平日のこの時間、勿論芳野の姿があるわけもなく、ダイニングの冷蔵庫にある増えた酒を確認しなければまた夢オチだと考えたくなるところだった。


(でもなんかちょっともったいないことした気持ちになってる辺りがバカにされる所以だっつの)


 酒を飲んで挑んだメリットもデメリットも充分な夜だった、とため息を吐く。朝まで眠れなくても、記憶にないほどに熟睡しても結果はそう変わりないことが実証されたとも言える。

 結局、芳野が昨晩訪れた理由すら聞き出せなかったままだ。しかし体のいい仮宿と呼ぶには、普通の男には荷が重いはずだった。

 さすがにもうこれで懲りて家に来るようなことはないのではないか。悠太は考えたが、昨晩のことでほんのすこし諦めが付いていた。逆に積極性を見せたらどんな反応が返って来るのか興味を持った悠太は、スマホ片手にメッセージを送ることにした。


『今晩は来ないの?』

(なぁんて縋るようなオンナ、いるんだろうな)

 

 芳野にそんな相手がいるのを想像するのは難しいことではない。それを面倒くさそうに扱う姿も。実際の芳野の恋愛事情など知る由もなかったがそういう男であると仮定すると今までの仕打ちにも一定の説得力が出るというものだ。

 どんな返事が返ってきても今なら面白がれる気がした。

 真顔のまま打ち終えると、悠太はそのまま起き抜けのシャワーを浴びることにした。

 明日は榮井との約束の日だった。既婚者故なのか性分であるのか、一度約束が決まると榮井は当日の場所を報せる以外の連絡をしてくることがない。今度も、場所こそ違えど繁華街のラブホテルの側で落ち合うことが決まっていた。


(おれも結構な性格してんな。……返事返ってこないって確信してるとはいえ、やってることは似たり寄ったりだ。でも、それぐらい許されたって、いいよな?)


 期待できないんだから。唇だけで刻んでだれにともなく笑う。

 湯上がりに見たスマホにはやはりお決まりのように連絡はない。この調子なら今晩中には連絡が来ることがないだろう。そう決めつけて悠太はのんびりと身支度を整え、夕方の勤務に備えた。

 金曜の夜は客足が伸びる。無駄話もそこそこに仕事に明け暮れ、日付を過ぎた頃、明治とふたり閉店作業をこなした。


「悠太、なんか今日は機嫌いいじゃない」


 明日に備えてできるだけと早く切り上げようとしていたのがバレたのか、帰り際に明治に目敏く声を掛けられた。


「明日おれのバージン卒業かもしんないんで」

「バージン? マジで言ってるのソレ」

「まじまじ、……多分すけど」


 店を閉めた後のふたりきりだからこそできる会話だった。明治の声に無意識へらりと返してはじめて悠太は自分でもその浮つきに気付く。


「休前日ならともかく、若いってタフで羨ましいわ。腰の下に枕入れてねェ」

「……うす」


 ロッカーから手荷物を取り出して、スマホ片手に返事した悠太は返信をポップアップが報せていることにぎくりとしながらひとまず見なかったことにした。

 戸締りを任せて挨拶を済ませた悠太は足早に店を離れ、どきどきしながら人のいない場所で改めてスマホを開く。

 予想より早い、芳野からの返事だった。


『急な出張で地方まで出てる。また土産でも持って行く』


 ホッと胸を撫で下ろす。

 今夜来たら来たで、明日の榮井との一件に後ろめたさを感じずにはいられなかっただろうという懸念と、「また」の約束がされたことへの確かな安堵。

 

(出張がんばってね、と)

 

 そんな思いで了解のスタンプをひとつだけ送るに留める。その晩は珍しく憂いなく、穏やかに過ごすことができた。明日に備えて万全と言える状態だった。




「痛くなかった、平気?」

「ん、だい……じょうぶ」

「自分でスる時にも触る癖付けたらそんな時間掛からず慣れるよ。……もっと嫌がるかと思った」


 シャワーでぬる付いた手を洗いながら榮井が笑う。笑う時にはにかみ笑顔になるその表情がかわいい、と悠太は思っていた。ホテルに着くなり二時間丸々を風呂場で過ごしたことも、ナニを挿れるより先に仕込みに時間が掛かることも、指の二本だけで事が済んだこともあまりに想定外ではあった悠太だが、時間を掛けて手荒なことをしない榮井の動作には心の底から感謝した。

 結局のところわかりやすい結合には至らなかったことに罪悪感すら覚えた悠太はその分をいつも以上に奉仕したつもりだった。

 シャワーヘッドを渡されて、自分もローション塗れの下肢を洗い流す。その間に榮井がスポンジを泡立て、たっぷりの泡で悠太の首筋から背中をやさしく撫でるように洗う。


「榮井さんて、奥さんにもそんな風にやさしくすんの?」

「……え?」


 声が反響する。悠太はシャワーを一旦止めて改めて榮井に向き直り、じっとその表情を確認した。

 プライベートな話はこれまでにほとんどしなかった。はじめの結婚指輪以来の話題だった。面喰った榮井は、少し考えるようにしながら悠太の鎖骨に泡を塗る。


「どうかな。やさしいのかなオレ」

「おれにはやさしいでしょ。セフレにこんな根気よくレクチャーすんの、相手が相手ならもっと無理矢理にでもできたんじゃない?」

「まあ、オレでよかったねとは思うけど。オレは育てるのが好きな質だし、そういう恥じらいのある子の方が楽しめるんだよ」


 いたずらに指先で胸の先を掠めて榮井は笑う。


(出たぁ。やっぱりこの人も人を揶揄って楽しむサドの基本形じゃん。芳野さんとおんなじじゃん……)


 悠太はあからさまに唇を尖らせて見せたがそれを相手が喜ぶことは承知の上である。榮井の手からスポンジを奪って、その身体をわしわし撫ぜてから抱き着いた。

 背中をひと撫でしてから、残りは指の腹を滑らせて泡を拡げて行く。


「今日の松原君、すげえ可愛かったよ」

「……奥さんにもそういうこと言うんだ」


 耳朶を食んで零される声に悠太はそのくすぐったさを振り払うように頭を振って辛辣を返した。妬いているわけではなかったが、今自分の持つカードで一番榮井に有効的なのがそれしかなかったからだ。

 しばらく互いにくすぐるように泡を撫で付けて遊ぶ。


「気にしてる、オレが既婚なこと?」

「してない、と思ってたけどまあ、してないって言ったら噓になるっしょ」

「ちょっとは興味持ってくれたってことでいいかな」


 それは実際にその口から聞いてみるととても榮井らしいと思える、前向きな捉え方だった。つまり、このカードも榮井を突くにはちょっと弱いということだ。分が悪いと感じながら悠太は再び、今度は壁に固定したままシャワーを出した。同じ要領で泡を指で払うようにして流していると榮井が首筋を甘噛みしてくる。水音にリップノイズが混ざった。


「榮井さんて、そういうの好きじゃないと思ってた」

「そういうのって」

「もっとインスタントな関係が好きなんだろうって思ってた」


 ああ、なるほどとばかりに頷きが返る。

 指の腹がふやけた悠太はそれきりさっとシャワーを止め、バスタオルを一枚榮井に手渡して自分も水気を拭きながら先に出た。


「基本的にはね。でもそうするのもしないのも人間同士だから後は相性次第でしょう」


 三時間を区切りに借りたホテルを出るまでそう時間が残っていないのもあったが、悠太の内心は想像より近い位置にある榮井の心の距離に動揺していた。

 洗面台に映る自分の首筋に赤い跡を確認して、小さく息を吐く。


(これ以上深入りすんの、まずいかもなぁ)


 そんな悠太の様子を、榮井はちらりと一瞥こそするが気にする風はなくむしろやや誇らしささえ滲ませていた。

 上機嫌で服を着込む姿にはほんのりと罪悪感が沸く。

 帰り際、悠太は今日使った大容量のローションと下ろしたての道具の一式を紙袋で渡された。


「専用にして、次からは持参すること」

「榮井さん、おれ……」

「そうだな。その榮井さんってのも止めよう、悠太くん」

「う、……ん」


 榮井の勢いにうっかりと飲まれた悠太はじゃあまた、と既に歩き出すその背中を呼び止めることがついにできなかった。土曜の昼間、ラブホの前で立ち尽くす姿は人目に触れて欲しいものではない。頭を切り替えて早々に歩き始める。夕方の勤務に備えて一度家に戻ってゆっくりしようと考えながら。


 繁華街寄りにある悠太の店は月の不定休を持つ以外は日曜も通常通りに営業していて、客の入りも少なくはない。閉店時間は二十四時だったが、閉店作業を終える頃には一時を過ぎることが多い。

 今夜はひと際客の数が多く、いつものように焼き場に籠った悠太はようやく迎えた閉店を前に首に巻いたタオルで汗を拭った。

 

「クタクタって顔ね。ところで上手く行ったの?」

「めっちゃやさしくシてもらいました」


 これみよがし、語尾にハートのついたようにのたまってみせると、明治も嬉しそうに笑って悠太の額を小突く。


「そりゃなにより。ところで、今日柾を見たわよ」

「話したンすか」

「そんなヒマあるわけないじゃない。ドリンク出すときに挨拶したぐらい。最近何度かソロで来てるけど」

「……けど?」

 

 店内をほうきで掃いていた明治が手を止める。

 悠太は妙な間に首を傾げた。明治が屈みながら上目を送って来る。芳野との関係を疑う目。


「こないだからよく聞きますけど、おれなんもないスよ。あるわけ、ないっしょ」


 嘘を吐くのはあまり得意ではない。それでも、悠太にはそう返すほかなかった。芳野が飲みに来ているということ自体は悠太に表向きの関連性は低いはずだった。

 が、今夜芳野が店にいたという情報は悠太にとっては有益だ。


(そんなすぐ出張戻れたんだな、今日来んのかな)

「まあいいわ、今日はもう上がって。また今度、ゆっくり聞かせてもらうわ、セフレの話然り」

「うっす、お疲れさまっす明治さん!」

 

 早々に明治が諦めてくれたのはありがたいことだ。上司へのそれらしく足を揃えて頭を深く下げて一礼した悠太は、首のタオルを解いて足取り軽く店を後にした。

 夜道にスマホを一度確認したが、特段誰からの連絡もない。

 

(なあんだ)


 浮足立っていた歩調が緩まる。人知れず落胆している自分に肩を竦めた。来なくて当たり前と考えていたはずなのに、店を訪れていたと知った瞬間の無意識な期待に変な笑いが漏れた。

 そのまま真っ直ぐ帰っていつものようにポストのチラシをゴミ箱へ放って、上がる階段の先突き当り。人影に気付いた悠太はすぐに立ち止まった。


「お疲れ」


 玄関前には芳野がタバコを咥えて佇んでいた。足元には土産らしい大きめの紙袋と鞄。悠太の顔を見て笑った芳野は電子タバコをシャツの胸ポケットに仕舞った。


「店、来てたって聞いた。出張っていうから、今週末は来ないと思ってた」

「出張してたよ、昼までは。早めに切り上げて直帰したの」


 当たり前のように扉を開いて芳野を部屋に引き入れる。驚きこそあったが、部屋に上げることについてはすっかり悠太も慣れていた。改めて土産、と差し出された紙袋を覗くと、そこには地方地酒の酒瓶が一本と肴に合いそうな干物が入っている。

 悠太がお礼を言うより先に、芳野の手が首に伸びた。

 顔を上げるとそこには表情の読めない真顔の芳野がいる。


「……派手に喰われたもんだな」

「え?」


 ゆっくりと芳野の眉が寄って行く。

 首筋にくっきりと残った、虫刺されにしては大きい跡。その存在を悠太はすっかりと忘れ去っていた。冷めた顔を前にようやく事態を飲み込んだ悠太は緊張に息を飲んだ。


「隠そうともしないで、見せたがったみたいに」

(待て待て待って、……っていうか、そんなの)

「理不尽じゃん、芳野さんがそんなこと言うの」

「……そうかもな」


 言葉とは裏腹に、芳野は如何ともし難い空気を放っていた。たじろぎながらも言い返せた悠太はそのままの勢いで芳野の手を払う。じっとりと湿気を含んだ重い空気に、汗ばんで行くのがわかる。


「そうだよ、……おれもうっかり忘れてたけどさ、そんなの芳野さんには関係ないじゃん。おれが、いつまでもアンタのことばっか追い駆けてるバカだって思うのは勝手だけど」

「言えるじゃないか、シラフでも」


 芳野の言葉は煽りにしか聞こえなかった。

 苛立った悠太は芳野の視線がまだ刺さる気がして、仕事で使っていたタオルを再び首に巻く。

 それを見てか鼻で芳野が笑う。


「……帰るよ。邪魔したな」


 鞄を拾い上げて、悠太を振り返らないで部屋を出て行く。悠太も追う気にはなれなかった。首のタオルを解いて、床に投げつけて奴当たる。


(ンだよ、一丁前に彼氏面かよ。……もう少しで言いそうだった、女しか抱けないくせにって)


 洗面台に立ち、改めて首のキスマークを確認する。思う以上に大きく感じられて、悠太は重く息を吐き出した。

 たったひとつ、これさえなければ、今日は平穏に過ごせたんだろうかと考えると榮井の無遠慮さにも少し腹が立ってくる。


(あの人だって自分勝手だ。なんだよ、どいつもこいつも。おれを本気で相手する気なんてないくせに。むかつく)


 芳野と榮井の確かな共通点。もうもうと立つ煙のように苛立つ悠太は冷蔵庫を開き、昨晩芳野が詰めた缶を開けた。そのまま一気にぐびぐびと空けて、シンクに投げるように缶を放ったら、もうベッドへ飛び込んだ。

 みんなみんな無責任だ、と罵りながら意識を融かそうとした。眠りはあっさりとやって来たが、妙な夢を見る羽目になった。

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