変容

Episode06:ある種の覚悟

 奇妙な添い寝は続かなかった。芳野はその日を境にまた二日、三晩と戻ることなく、悠太には連絡のないまま日が過ぎていた。

 いくら何でもこれは生存確認のひとつぐらいしても悪くはないだろうと『生きてんの?』の一言を送った悠太はその瞬間感情が濁流になるのを留めることができなくなってしまった。


(むり、無理無理無理、ムリ)


 メッセージを送った指でタタタンと画面を叩いて明治にヘルプを送る。文字通りの『へるぷ』。深夜三時近く、閉店作業を終えた明治が酒を追加している時刻だった。

 ほどなく着信が鳴る。


「やっぱり限界だったか」

「やっぱりってなに。……いいや、明治さん泊まりに行ったらダメすか」


 面倒見のいい明治は、後輩を泊めることも一度や二度ではなかった。その包容力ゆえに悠太も惚れ込んだ次第である。芳野との一件こそ話せないものの、今夜ぐらいはそのやさしさに甘えたくなっていた。

 えー、と笑いながら明治の声色は優しい。


「あんたこのところ様子がおかしかったもんねぇ。串ちょっと焦がし気味だったし。ハグしてやろうか」

「……うん。だから、行っていいすか」


 唇が子供のように無自覚に尖る。同じセリフを芳野から聞いたならば、絶対的に受け入れられないはずだった。


(違うんだよな、やっぱり)


 はたまた、榮井が相手でもうんとは言えなかっただろうと悠太は思う。弱さを見せても構わない相手というのが唯一、明治だった。そこに今は特別な感情はない。弱さを見せてもそこに付け入られる心配がないと、本能的に感じられることが大事なのだった。

 二三、買い出しの確認をしてから電話を切る。

 泣き言のお代は角ハイ一本。コンビニで調達して自転車で乗り付ける明治のマンションを訪れるのは四度目だった。

 明治は扉を開けるなり、袋を差し出す悠太の頭を撫で回して袋ごとハグする。


「お疲れ。……新しい彼氏でもできた?」

「……っス、じゃなくて。うん、でもまあちょっと気に掛かる相手ができたっていうか。あれ、今日明治さんあんま飲んでない?」


 ハグの際に触れた明治の頬が熱くないことに気付いた悠太の言葉に、明治は「だから」と袋を指差して笑った。

 さっそくとふたりで部屋に上がり、コの字型のローソファに座る悠太の隣へ、ロックグラスに氷だけ入れた明治が並んで胡坐を掻く。瓶から酒を注いで、静かにかち合わせる。


「明治さんってウケですか。タチですか」

「ぶっ」


 乾杯するなりグラスを煽った明治が、何気ないひと言にあからさまに噴き出す。

 鼻を啜るような仕草を交えてひと呼吸置いた明治は驚きを隠さない顔で悠太を見る。


「言うようになったわね。時と場所と人による。……そんなことが聞きたかったの?」

「おれ、どっちだと思いますか」

「……、それも時と場所と人によるんじゃないの、迷うってことは」


 真顔で訊ねた悠太に、明治は何のことはない正論を返す。すっきりとしない心地の悠太は、むうむうと唇を尖らせながらひと口酒を嚥下した。


「おれね、明治さん。どっちもわかんないス。明治さんのはじめてってどんなだったの。そんなすんなり、抱いたり抱かれたりしたの。すんなりいかないおれは、どうしたらいいの」

「俺のはじめては……流れよ。流れで抱かれたし、別の時には流れで抱いた。抱きたいから抱いたし、抱かれたいからそうした。……そんなに悩むことなかったけどなぁ」

「そんな日、おれに来んのかな。全然想像できないや」


 明治の腕が肩に回って、やさしくぽんぽん、と叩く。そんなやさしさに一度は惚れた悠太は、気兼ねなく明治の肩に頭を寄せる。舐めるように酒をちびりと飲んで、一方で時計の針を気にして壁のデジタルへ視線を投げた。

 

「アンタの言うヘルプってそれだけじゃないでしょ。時間気にするような、なにがあったの?」

「……野良猫が帰って来なくて。どうせ仮宿なんだから気にしなくていいはずなのに、滅茶苦茶むしゃくしゃして、どうしようもなくて。ひとりの部屋にいるのが、なんか、嫌で」

「猫? 柾に続いて厄介なの引いてるのね」

(……その柾さんですよ)


 言えないまま、自嘲染みて笑って悠太はグラスを傾けた。明治の口振りから、芳野がよほど厄介な相手であることは確実らしい。忠告を無駄にしていることと、それを隠すことにほんのりと罪悪感を覚えてはそれきり明治の顔を見られなくなった。


「芳野さんて、明治さんにとってどんな人なの? 厄介ってどんな風に?」

「アイツは……、まあ見ての通り普通の男だから」

(嘘だ)


 明治の含ませた間に何故だか確信する。普通の男じゃないのは、同衾している時点でも、添い寝の時点でも違えようがない。

 普通じゃないから、厄介なのだ。

 あからさまな嘘の理由は知れなかったが、過去になにかが双方の間であったと考えるのが自然だろうか。突っ込めないままでいる悠太をよそに、明治は続ける。


「仮宿、かぁ。体のいい使われ方して傷つくのなんて馬鹿のすることよ。悠太にとって利点がないなら止めることね。人の懐に飛び込むのが巧いのなら、相手は別にアンタじゃなくてもどこにでも仮宿を作れる。猫でも、猫じゃなくてもそれは同じ。……難しいことじゃないでしょ、自分を大事にするって、そういうこと」

「……うん」

「アンタをこうして受け入れてるのも、アンタと過ごす時間が俺にとって意味のあるものだと思っているから。楽しいしね、気も紛れる。……気が紛れるって言えば、今度久し振りに知り合いとソフト寄りのハッテン場行ってみようって話があってさ。悠太もよかったら参加してみる?」

「明治さん行くんなら、行ってみたいかも」

「じゃあシフト調整しとくわ。また詳細決まったら教えるから」

「うん」


 最後に慰めるようにわしわしと悠太の襟足を撫ぜて手が離れた。そこからいくらか、他愛ない話をしたものの、明治は早々ソファに身を横たえ、悠太もそれに倣うようにソファに沈んで手足を投げ出していた。

 壁のデジタルは早朝五時の表示。


(おれ、今日休みだけど明治さんは違うんだった。ちょっと眠ったら、うち帰んなきゃ)


 思い出して、瞼を閉じる。外で始発の動く音が聴こえたような気がした。

 途中でスマホが鳴ることを心配したのも杞憂のこと、少し眠って目が覚めてもそこに通知はなかった。既読の文字だけが、そこにはあった。胸の痛みは誤魔化せない。

 

(おれのにとっての利点、か)


 そんなものはない、と言い切れない気がしていた。これ以上踏み込んでくれるなと芳野に告げるタイミングはとうに過ぎている。

 できることがあるとするならば。

 悠太はトーク画面を開いて文字を打ち込む。

 場当たり的に人を頼り続けることに嫌気はしたが、明治との会話でほんの少し覚悟ができていた。


『次いつ会える?』


 平日の朝八時。会社員をしていると言っていた榮井は今頃電車に揺られているのだろうか。そんな想像をしながら送った言葉は相変わらず簡素に尽きる。

 ごろりと寝返りを打ってはすやすやと眠る明治の顔を一瞥する間に、スマホが震える。


『今週末の午前でよければあけられるけど、いいの?』


 最後に会った日から四日ほどしか経っていなかったが、食い気味の反応に悠太は少しだけ気を落ち着けた。


(別に、芳野さんじゃなくてもいいはずなんだから。さっさとどうにかなっちまえば、気持ちに余裕も生まれるっしょ)


 そう、信じてイエスの返事を打ち込んだ。

 『いいの?』と訊ねる理由はただひとつ。悠太は改めて大きく深呼吸をする。この間の会話からのこの流れ、まず間違いなく榮井は試そうとしてくるだろう。


(……それでも。燻るぐらいならさっさとこだわりを捨てるべきだ。おれの、ために)


 目を閉じて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

 明治のスマホのアラームが鳴る頃、悠太はすっかりと気持ちを落ち着けて明治の「おはよう」に笑って返すのだった。




 芳野には合い鍵を渡すような真似はしていない。それは、悠太の中でまだその人を受け容れたつもりはないという確固たる宣言であり、他人としての線引きをしている事実でもあった。

 朝帰りの部屋は当然無人で、誰が触れた形跡もない自分がいた時のままの姿をしている。そんな、当たり前のことに妙な安堵があった。

 

(家を出る前はここにあの人がいないことが苦しかったのに、だよ)


 連絡がないままのスマホは充電器に繋いで放る。

 いっそこのまま連絡がなければ、接触がなければ悠太にとっての日常は元通りになる。そこまで思い至れば、これまで自身がどれだけその存在に振り回されているのかということが浮き彫りになって自己嫌悪が滲む。

 

(だけど、それじゃ榮井さんに深入りしていいのかって言ったら、それも違う。……あの人もある意味ただの男だ)


 最初は気にも留めなかった榮井の左手の薬指の指輪。その重さはスパイスと呼べるほど本当に軽いものであるのかを考えると悠太は少しめまいがした。


(おれはもしかしたらとんでもなくバカなんじゃないか)


 気持ちがあるのかと聞かれれば現時点ではノーと言える自信があるが、それと事実は切り離されない。既婚者であるということの意味をあまりにも軽んじていた、なんてあまりに今更な考えだった。

 頭に手を当てて考えても、なにかよいアイデアが浮かぶでもない。尽きないため息と考え事が煩わしくて、悠太は寝室に移ってしばらく寝かせていたアコギをケースから取り出して線を張り直すところからはじめ、意識を逸らした。

 学生時代の彼女はいつも音楽が連れて来たものだった。学祭、ライブハウスの前座席。女の噂の絶えないメンバーに囲まれながら、ささやかに紡いだ時間が懐かしい。

 指先で弾くアルペジオが好きだと微笑った彼女のことも記憶に古くはないが、ざらついて輪郭がぼやけ始めている。

 そんな記憶の層の上に明治に憧れた時間があり、そしてたった数日数時間のはずの芳野の存在がその上に更に鮮明に乗っかっているのだった。


(まだ明治さんに憧れてた時の方がマシだったんじゃ……)


 ひと通りの手入れを終える頃、再び意識はそこに回帰した。なぜとどうしてを幾度繰り返しても、悠太が出せる答えは、「ただの男じゃないか」、そこにしか辿り着けない。

 基本コードをおさらいするようにメジャーコードからマイナーコードまでひとつひとつを弾いて音の確認をすると、音はくぐもりも少なくいい塩梅の重さを持っているのが余計に裏腹自身の不安定さを突き付けられたように感じた。


(琴線、か。……本命は女しか抱けないフツーの男、頼みの綱は既婚者。これのどこが頼みの綱なんだ。明治さんはおれを相手にしない。詰んでるじゃねーの)


 半ばやけくそに懐かしいバンド時代にひっさげた曲を端から端までかき鳴らして、ようやく陽が傾くという具合に時間を費やすことが修行のようだった。

 そして夕刻を迎える頃、水分補給にリビングへ戻った際に放置していたスマホの画面を見た悠太は目をひん剥いた。


『今晩寄ってもいいかな』

(なんで聞く? ダメって言ったら諦めるのかよ。ちょっと待て、なにかおれ肝心なこと忘れてる気がする……考えろ)


 芳野から一時間以上前に入っていたメッセージを前に悠太は頭を捻り、当然のように忘れていた大事なことに気付く。

 鍵を渡していない芳野が来る予定を伝えて来るのは当然のことではあるが、ではなぜあの晩当たり前のようにベッドへ滑り込んでいたのか。


(おれが鍵掛けないまま寝てたからだ。……違う、このところずっとだ。帰ってくるかもってどこかで思っていたから、掛けようとすら思ってなかった)


 悠太はさほど几帳面な性格ではない。男のひとり暮らし、意識して鍵を毎度掛けていた記憶も、ない。が、この数日に限っては違った。意識して、鍵を開けておいてそのまま眠り落ちる日が続いていた。だから、あの日の添い寝にも意外性こそありすれ、そこに警戒をすることがなかったと言える。安堵すらした、あの朝。

 思い出して、悠太は震えながらスマホを握り締め座り込んだ。他人としての線引きすら、危うくしている意識がなかった自分には呆れるしかない。

 

(どんな顔して会うつもりだよ、あの人は。お互いになにもありませんでしたって顔で、会えると思うのかよ。おれが、考えすぎなの?)


 心臓が煩いほどに音を立てている。会わなくてこの始末、会ったらどうなるかを考えるのは容易いだろう。それでも、既に悠太の気持ちは決まり切っていた。

 震えるままに、『いいよ』と三文字どうにか打つ。

 

(おれに、断る勇気あるわけ、ねーじゃん)


 これはもう酒の力を借りる他ない。こういう時こそだろう、と半ば自棄になりながら冷蔵庫を開いて買い置きの缶ビールに手を伸ばす。こうやってアルコールで自我を丸め込もうとすることが悪い癖だとは自身でも気付いている。それでも。

 缶を数本抱えてテレビの前に陣取り、『笑ったらあかんで二十四時間』のスペシャルDVDを垂れ流した。笑えば笑うほど、酒は回りやすい。仲間を囲んで酒盛りする時の定番をひとりでやるのは気が引けたがそれもやむなしだと考える。DVD四枚目が半ばに差し掛かった頃には悠太はしっかりとできあがり、酔っている時お決まりの笑い上戸になっている、はずだった。

 

(……やばい、ちょっと酒に耐性ついて来てる気がする、この頃特に)


 芳野とはじめて会ったあの晩のような酔い方をしたいわけではなかった悠太は空いた缶をビニール袋にまとめたが、残っている酒瓶の酒に手を出すつもりはなかった。明治が出すような強いちゃんぽんの酒を飲みたいとは思わなかった。

 ため息ひとつ、トイレ休憩を挟んで戻った時。インターホンが鳴った。

 アルコールでも誤魔化せない心拍、唇に少しだけ浮かんでしまう笑みをどうしてやり過ごそうか、考えた挙句、悠太は玄関が開くなり見えた芳野を大きくハグして迎えた。


「おかえり、芳野さん」

「……ただいま。もう酔ってるのか」

「シラフのおれを相手するのとどっちがいい?」

「シラフじゃ言いたいことも言えない、だっけか」

 

 芳野の表情は見えなかったが、笑っているのが語調でわかる。左手に鞄と、ビニール袋を握っているのが見えた。あやすように背を数度叩くと、芳野はそのままの姿勢で部屋に上がり、靴を脱ぐ時以外悠太はその表情を見ないように、見られないようにまとわりつくようにして芳野に続いた。

 

「飲み直しするか、とは誘えないなその感じだと。今日はもう寝るか?」


 テーブルの上に置かれた袋の中身は、お約束のように酒だった。芳野の背後に回ってべたべたと腹部に腕を回してくっつく悠太を、芳野は引き剥がそうとはしない。

 

(とりあえず、誤魔化せそう、かな)

「一緒に寝てくれるなら」


 それは、先日の添い寝に対するカマを掛けたつもりでもある言葉だった。芳野は、袋の中身を冷蔵庫へ移しながらしばらく沈黙した。

 純粋にどんな顔をするのか見てみたかった悠太は芳野が振り返るのを待つ。


「添い寝はしたくないんじゃなかったっけ」

「キスができるんなら、そんぐらい屁でもねえでしょ。今更、ちょっとぐらいおれにリターンあってもいいじゃん」


 酒の力のおかげだろう、するすると言葉を吐ける。キスぐらいいくらでもしてやると言ったのは芳野本人だったし、あんな後で意識ある悠太相手に添い寝もできないというのならば、オープンのゲイの部屋に何度もやって来るのはあまりに相手を馬鹿にした話だった。

 ゆっくり振り向く芳野の表情は痛いところを付かれたとばかり弱々しかった。

 悠太の肩に手を置き、じっくりと覗き込むようにして首を傾いだと思うと頬に唇が触れる。自分のものとは違う体温に意識を奪われそうになる。


「してやれるのはそれだけだよ。それでいいなら」


 耳元のささやきは重い。身体が震えそうになった悠太は反射的に芳野のシャツを掴んでいた。それは縋るような姿であると続けざまに思い知らされて唇を噛むしかない。

 脳裏にはいつかの言葉がこだまする。


『俺は女しか抱けないよ』

(わかってる。わかってンだよ。鏡を突き付けられたみたいに、いつだってそこに映るのは、自分の姿。おれがどれだけアンタを想うのか、それだけだ)


 辛さと、少しの苛立ちと、それでもそれを上回るのは愛しさだった。懐へ忍び込んでその胸を鷲掴むような真似をしていることに、芳野は気付いているのか、いないのか。

 悠太はシャツを掴んだ指をゆっくりと浮かせて、再び芳野の背を添えるだけの力で抱いた。


「いいよ、……それでいい」

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