Episode 05:テンパーチャー*
「オレ本当は松原君のこともう少し知りたいんだけど。そういうのって、迷惑だったりする?」
何度目だっただろう。いつもの軽い戯れの後に、ソファで榮井がウェルカムドリンクのアイスコーヒーを片手にそう零した。
榮井は普段から囁くように話す癖がある。おかげでその言葉を自分の中で受け止めるには少し時間が掛かった。悠太はベッドの上で伸びていた身体をゆっくりと起こして榮井を窺った。眼差しはまっすぐと悠太を捉えていた。
「あー……え? どしたの、急に」
「イエスかノーか。そういう質問だけど」
「……イ、イエス? 嫌じゃない、……と思う」
睨んでいるわけではないはずだが、榮井の眼差しはいかんせん鋭く、居心地が悪い悠太は目を泳がせてしまうし用もなく立ち上がっていた。
自分の分のウェルカムドリンクのアイスティーは氷が融けて汗を搔いている。そういえば喉が渇いたなと思い、濡れたグラスを手に取った。
「はじめて会った時からだけどさ、結構シてる最中意識飛ばしてるでしょ。気持ちが遠征してる」
責める声色ではないが、悠太の心臓は跳ね上がる。ますますもって萎縮せずにはいられない。
「ご、めんなさい」
「謝るよりその理由が聞きたいんだって。例えばそれがオレ以外の人間の話でも全然構わない。だけど、その正体は知っていたいと思うって話」
おいで、と手招きをする榮井の傍へ、迷いながらも悠太は腰を下ろす。シロップを入れ忘れたアイスティーは少し温く、苦かった。悠太が口を潤わせている間、榮井はじっと沈黙を守っている。本当に無駄話をしない男だった。
その秘密主義っぽさがどこか芳野と被って、悠太としてはやり辛さと憧憬がない交ぜになる、……と吐き出せればよかったのだろうが、それはできなかった。
「榮井さんはなんで結婚したんですか。自分はゲイだって知っているんでしょ、だったらどうして、女と結婚したんですか?」
「正直に答えを言う気にはなれない? オーケイ、だったら多少の疑問には答えよう。オレの場合、世間体と環境を鑑みた上でそうする方が条件が良かったからかな。同性愛者だからって異性と一緒にならない理由もない。夫婦って会社みたいなものだから」
悠太が口を挟むことなく、慣れた質問か前もって決まっていた言葉のようつらつらと榮井は続けた。夫婦仲は悪くはないのか、それともそれを取り繕っているのかを測る技量は悠太にはない。こういう時は相手の言葉を信じたまま話を続けるのがいい。
「おれはまだ自分でもよくわからないんだ。ただ男が好きなのか、好きになったのが男だっただけなのか。でも時々こう、ムラってくる。それを、確かめるためにあそこに登録して、榮井さんに出会ったんだ。だから……まだ答えが出てないというか。最近は、手軽で気兼ねないのがいいやって思って、て」
言葉に直しながら、榮井の反応をちらり見る。
気を損ねないか気にしながら、それでも一度舌に乗せた言葉はころころと真っ直ぐに転がって正直に紡がれてしまう。
(だけど、手軽な相手って条件で会ったのは承知だし)
「だから、抜き合い歓迎、か。初々しさの訳も把握した。まあその点は珍しくないんだ。がっつかないところに不思議さがあったんだけど、それも初心者ならね。……最後までヤるのに抵抗はある?」
「……それは」
榮井が微笑みつつ、イエスかノーで、と付け足したことで、悠太は言葉を続けられなくなってしまう。
興味自体はなくはない。しかし自分が挿れるのか? はたまた挿れられるのか? を想像するのは難しく、頭を捻る他ない。出会い系サイトにもそれを明らかにする表記はあったが、空けたままでいた。
そして、まるでサブリミナルのように思い浮かぶ、あの日見た芳野の裸体、肌蹴た腹部へ舌を滑らせた夜にふるりと震え、悠太は唇を噛んだ。
(ああ、考えたくない)
想像を掻き立てられて一気に腹立たしさが増して行く。誰に。自分自身に。
そんな落ち着きのない悠太を横で見ている榮井は肩を揺らして笑っていた。
「まあいいや、そういう考えだって知っておいて。松原君が嫌だって言うならそれを無理矢理にとは行かない、――多分、きっと、恐らく」
「なんでそこそんなにふわつくンですか!」
「一応、保証し切らないよって」
真面目な話だからと榮井は言いながら立ち上がる。腕時計を一瞥して身支度を始める姿はこの時間に執着を感じさせない。隙間時間に手軽に欲を満たしているだけ。それ自体に変わりはないのだと悠太は感じさせられた。それが安堵にも繋がる。
悠太も身支度を整えてふたり一緒にホテルの部屋を後にするものの、出口を出たところでそれじゃあ、と軽い挨拶だけで別れるのもいつも通りだ。
(結局聞きそびれたな、タチかウケか)
ぼんやりと、小さくなっていく榮井の後姿を見つめながら思う。どちらでも想像ができそうで、かと言って自分がその相手になるにはやはりどちらも想像が付かなかった。
榮井との一件でもやつきを抱えたまま帰宅した悠太は芳野を前にどんな顔をすればいいのか、平静を保てる自信がなかったが、その晩とうとう芳野が悠太の部屋に戻ってくることはなかった。
SNSにも連絡は入らず、トーク画面を開いたままこちらから連絡をしたものか頭を悩ませてついにそのまま時間は過ぎていた。
(なんとなくシャクだとも思うし、大の大人捕まえて今日は帰らないの、なんてオンナかよって話。帰って来ないのはむしろ願ったりだ、今日みたいな日は特に。……そうだろ)
シャワーを浴びてももやつきはあまり収まらず、ため息を吐きながら結局最後に頼るのは冷えたアルコール。プルタブ押し開けて一気に傾けてぐびり、ぐびりと思いを胃の中へ押し遣るように飲み込んだ。
(野良猫みてえ。濡れネズミだったり家の前で待ちぼうけてたり、帰って来なかったり。そうだ、おれは野良猫を飼ってるんだと思えばいい。きまぐれに振り回されて堪るかよ)
キッチンのシンクへ空いた缶を置く。手慰みにテレビのリモコンを弄ったもののどれも興味をそそられなかった。時計はとっくに夜半を回り、終電もなくなったこの時間は部屋の外の環境音ひとつ聴こえない。時計の秒針の音を、アルコールを受けて大きく響く鼓動音とが重なってはそれを追い越して行った。
吐き出す呼吸ひとつ。眠れる保証はなかったが、悠太はベッドに横になった。
こんな生活が長く続くわけはないのだ。それなのにどうして情緒を揺さぶられているのか、とそこまで自問した後で半ば強制的にその思考を放り投げる。
(考えたく、ない)
ばかばかしい、と唇で呟いて瞳を閉ざした。
寝室まではあの煩い秒針も聴こえやしない。深呼吸のように息を繰り返しているうちに意識は融けた。
――温もりを背に感じるまでは。
どれぐらいの時間が経ったのか、背を包むような確かな温度と項に掛かった吐息に悠太はぱっちりと目を見開いた。
遅れて鼻孔に届くのは甘ったるいムスクの匂い。反射的に悠太は身体を固くして息をするのさえ忘れそうに縮こまった。
芳野と会う時にその匂いを意識したことはなかったように思う。それでも、悠太は確信を抱いた。
(芳野さん、だ)
薄闇に慣れた目を凝らしても、視界には部屋の隅が映るだけ。しかし、その身体がその人の腕に抱かれていることは分かる。事実に頭が弾けたように真っ白になり、善も悪も夢も現も判断ができなくなる。
匂いと体温が、逃げ出したい悠太を現実に縫い留める。
止まっていた呼吸に耐え兼ねて開いた口から喘ぐような呼吸をした。身体の振動で背の人が起きてしまわないように、起きませんようにと祈る。
何度か繰り返して行くうちに少しずつ平静を取り戻し、なぜ、なにを考えるぐらいの余裕が生まれてくる。それを考えてひとり答えが出る訳じゃないことにも気付く。
(やだなあ、ホッとしてやんの)
まだ、頭の混乱は収まり切ってはいない。むしろ、考えれば考えるだけ数えきれない感情の波に溺れてしまいそうだった。ぎゅっと、唇を食んで悠太は堪えた。
(ばかだなぁ、おれ)
悠太はそのまま、気付かなかったことにしようと決めた。問い質すことそのものが今の自分には重荷だと判断した。
幸いにも陽の昇る頃、そっと音を立てずに芳野は寝台を抜け出した。その瞬間まで眠れなかった悠太は、目を伏せたまま寝室が閉まる音を待ち、そうしてはじめて意識を手放すことができた。
再び悠太がアラームで目覚めた時には、芳野の姿はリビングになかった。
キッチンに洗いたてのマグがなければ夢で済ませられそうな出来事だった。
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