Episode 04:のらねこ

 悠太の朝は遅い。出勤時間が一般職のそれとは違って遅いこともあったがそもそも朝が苦手だった悠太は、芳野を泊めた翌朝も起き出したのは十時を過ぎてからだった。

 静まり返る部屋の空気にリビングに繋がる扉を開け放つと、そこには予想通り芳野の姿はなかった。ソファの上へ畳み置かれたブランケット、端へ並べられたクッションが芳野の意外な几帳面さを語る。


(あの人、今晩はどこへ泊まるんだろう)


 結局事情の少しも話さなかった。いや、聞こうともしていなかった。饒舌な芳野の渋る口振りは事の深刻さを表していたかも知れないのに。

 本人を前にするとどうしてもそんな微細な心配りができなかった。己の欲や感情の一々に捉われ振り回されては、善良さを欠いてしまう。

 

(……つったって、いい大人のことなんだから。おれが、どこまで踏み込んでいいのかなんてわかんねーよ)


 ありもしないだろうと決めつけながら、目が書置きの類を探し回り、ややもしてやはりないかと気を落とす。そんな自分の期待にも苛立ちを感じ続けている。芳野に会ってからというもの、ずっとだ。

 悠太はため息を深呼吸のように深く吐き出して、寝室のスマホを手にする。


(別に期待なんてしてない。そうじゃない。ただおれがあの人に伝えておきたいだけだ)


 はやる気持ちをけん制しても、芳野からひとつの連絡も入っていないことに心は挫かれる。

 言葉裏腹にひりつく胸に眉を寄せながら、悠太はトーク画面を開いて、できるだけ短く簡素な、感情を読ませない文章を打ち込んだ。


『ソファでいいなら貸すから』


 ぶっきらぼうで、一見して不機嫌ささえ感じられるだろう文だとは悠太自身気付いている。それでも、情感込めた言葉を選ぶのは自分らしくないし今抱く感情のすべては、伝わって欲しくなかった。

 恐らく芳野は今頃デスクに向かっていることだろう。これを確実に見るのは昼か、夕方か。それで構わなかった。

 相手がメッセージを見たことを伝える既読マークを見るのも、いつまで経っても続く未読もどちらも確認したくない。悠太はスマホが鳴るまで一切見ないことを決めるのだった。

 悠太の言葉に乗って今夜も寄せてくれと連絡を寄越すのか、大人らしく断ってみせるのか。想像もつかない。ただ、昨晩は気に留められなかった彼の事情を少し知りたい好奇とまた会いたいというほんの少しの邪。

 脳裏に明治の言葉が過ったのもすぐ忘れたふりをした。

 

(本命にしなきゃいいだけだ。嫌うにしたってまだ、おれはあの人のなにも知らない)


 寝起きの珈琲を入れながら、悠太はそれきり頭を仕事に切り替えようと試みた。花金の夜は長い。仕事から疲れて帰る頃にはきっと、早くひと風呂浴びたいと嘆いてるだろう。

 出勤してロッカーへ直す前に一度だけ見たスマホの画面には通知はなかった。店にとっては稼ぎ時の金曜日。店に入ると予想通り、明治が忙しそうに冷菜を出しながら焼き場を担っており、悠太は無言で焼き場に回った。串の焼き加減を任せられるぐらいにはなっていた。炭の熱と闘う合間にも空のジョッキがガラガラと上がって来る。無心にならずにはいられない。ひと息つく頃には上がりの時間も見えていて、嵐のような花金を乗り切った悠太はそのままスマホを見ることなく家に帰り着いた。


「……来たんだ」


 玄関の扉前へ屈み込んだ姿を前に、思わず声が上擦った。芳野は、ロング缶片手にほの赤い顔を上げると所在なさげに小さく笑った。

 慌てて悠太はスマホを取り出したが既読を除いて何の通知もない。


「大人げないだろ。ホテルでもネカフェでも行き場所はあるのにな。……人恋しいんだ」


 ここへ至るまでに飲んで来ているのか、既に相当酔っているようだった。鍵を開ける、と掲げて見せた悠太を見て立ち上がろうとする身体はふらついている。見兼ねて悠太がその左腕を掴み、空いた手で部屋の鍵を開けて中へと連れ込んだ。

 

(素直におれを頼る気になるまで、時間が掛かったんだきっと。……なにがそんなにこの人を追い込むんだろ。知りたいけど、知らない方がいいのか。聞くの、こわいな)


 無言で部屋へ上がり込んだ芳野は、悠太の言葉を真に受けたように、そこが唯一許された場所とばかりまっすぐソファへ向かって腰を下ろした。その背中はこじんまりとして見える。

 悠太は芳野の手から空の缶を奪って、代わりに水のグラスを差し出した。


「慰めてほしいの、おれに?」

「……そうじゃない。けど、ひとりで眠るのが怖くてね」


 ふと、はじめて会った日の光景が浮かんだ。

 同衾の理由は結局聞き出せず仕舞いだったが、もしかするとそれも理由の一端かも知れなかった。


「変なヤツ」


 冗談めかして笑ったものの、内心はそんな馬鹿な話あるかよと思わずにはいられない。


(ゲイでもないくせに、その言葉は男を抱きしめて寝たいんだと思われてもおかしかないだろ。それをカムアウトしたおれの前で言う? なんもかも、全部理解できねえ。企みじゃないのも、揶揄ってるんでもないのはわかってる。でも、じゃあなんでだよ)

「キスしようか」


 一瞬の間の逡巡が終わるより先に、芳野の次の句。もはや処理し切れないで悠太は面喰った顔を隠せずに持ち上げた。まるで、空言だったかのように芳野の顔は微動だにしない。悠太の目は泳いで右往左往したのち、とうとう耐え切れずに身体ごとキッチンに踵を返した。

 無意味に捻った蛇口から零れる水を手で受け止める。陽が沈んでも温い夏の水、その温度だけが現実と悠太とを結びつけている。

 蛇口を閉めるのと同時、背後に芳野の近付く気配がした。

 光源を遮って影が重なる。呼気が感じられるのは気のせいだろうか、と思う頃には片手で抱きすくめられている。テーラードを脱いだ七分袖から筋張った腕が覗く。内勤のせいか、肌は白い。

 声を出せないのか、出したくないのかもわからないまま、沈黙が続いた。芳野も反応を測りかねているのか、やはり揶揄っているだけなのか、そこから先に動く気配を見せない。


「……冗談がよかった? それとも本気?」


 しばらくの後に、悠太を抱き寄せた腕が下ろされる。芳野は元のようにソファへ戻って淡々とした口調で喋り、語尾上がりに悠太の返事を促した。

 

「おれに選ばせるのかよそれ」

「正直に言うと、わからない。俺が君に返せるものがあるなら、それぐらいしか思いつかなかった。……別に、本気で俺に惚れ込んでるんじゃないだろう?」

(それを言うのかよ)

 

 見えないのをいいことに、唇でだけ呟いた。

 立っていられなくなってその場に屈み込んだ悠太は、何だかどうしようもなく情けない気持ちになった。

 自分でも芳野との性的接触やそれに準ずるものをどういう態で扱っていいのかわからなかった。 


(冗談めかされて軽く扱われるのは嫌だ。でもだからって、腫れ物みたいに扱われるのはもっと嫌だろ)


 だったら、冗談めかしてこちらから仕掛けてあしらうのが一番、マシだと悠太は考えた。だが、あしらえるだけの力量が悠太には残念ながらないのが現状だった。


(明治さんみたいだったらよかったのにな)


 深く長いため息が漏れる。あの明治なら、こういう場を明るく冗談めかして切り抜け、どんなわだかまりもお互い感じなくて済むように、あったとしてもそれを最小限に抑えるような言動ができただろう、と悠太は考える。

 長い沈黙を前に芳野が微動だにしなくなったところでようやく、悠太は首だけを向けた。サイドテーブルに空のグラスを残して、芳野はソファで横になって目を閉ざしていた。

 飲み疲れて眠ったのだろう。芳野が眠っていると確認できたことで悠太はようやくと立ち上がることができた。足音を殺して寝室からタオルケットを運び、そっと芳野の身体へ掛ける。床に置いたままの空き缶と袋は音を立てるぐらいなら明日まで放って置こう、と考えながらせめて芳野が身じろぎしたときに蹴飛ばしたりしないようにと端へ寄せる。

 屈んだ位置ですぐ近く、寝息を立て始めたその顔に何気なくやる一瞥。少しだけ目に掛かったさらりとした髪が頬に掛かるのを、そっと指で避けた。


(ホント、あなたはずるい人だよ、芳野さん)


 冗談とも本気とも知れない。悠太はその頬へ唇を一瞬だけ寄せて離れた。邪に唇を奪う気にはなれなかった。ほんの、駄賃を貰うような気持ちだった。

 また朝になったら悠太が起き出すより前にいなくなるのだろうか。悠太はサイドテーブルの上に一枚の書置きをしてから眠った。


『芳野さんへ

お礼をしたいのならうまいメシかうまい酒で。

長くいてくれても構わないけど、その時は家賃折半ぐらいの気持ちで』


 本当に伝えたいことは、言葉にはできなかった。彼の本当に考えることもわかりそうになかった。

 それでも、今の自分にとっての最善を尽くしたつもりだ。それだけが、今自分にできる最低限で最大限のことなのだと、そう思うことにした。




 翌朝。部屋のノックの音に悠太は飛び起きていた。これはとても珍しい現象だったが、跳ね上がった心臓の音は、扉を開ける頃には更にひどくなっていた。

 芳野しか正体はあり得なかったからだ。


「……おはよ」


 顔を見るなり、芳野が相好を崩した。慌てて両手で髪を撫で付ける悠太だったが、ますます相手の笑いを深めるだけだった。

 恥ずかしさと理不尽さに不遜な顔のまま部屋を出ると、芳野の手が不用意に肩を軽く叩き、更に心臓が煩くなる。


「昨日は寝坊して声掛けるどころじゃなかったんでさ。今日は声ぐらいちゃんと掛けて行こうと思って。……なに目ェ白黒させてんの」

(心不全なるッつうの)


 声に出せたら少しはこの気持ちも楽になったんだろうか。

 ふへえ、と情けない声混じりの息を零す悠太に芳野が珈琲を要るか訊ね、首だけ縦に振って応えるのが精一杯だ。

 材料は目に入る位置にあるとはいえ、まるで自分の家のように慣れた手つき、その姿に一瞬自分の家であることを忘れそうになる。


「結局なにも話さないままになってるのは悪いと思ってるんだ」

「言わなくていい。……今はまだ」


 芳野の口が続きを紡ぐよりいち早く、悠太は告げていた。その言葉の響きが互いに予想外に大きく、少しの間を挟んで苦々しく気持ちを吐き出すことになってしまった。

 ひと口、珈琲を啜ってから芳野が口の端を上げる。


「俺も今はまだ、だ。ユウくんがそう言ってくれてちょっと助かった気がするよ。ちゃんと落ち着かせてから話そうと思う。……それまでもう少しだけ、世話になってもいいかな」


 改めてと頭を下げるので、悠太も反射的に小さく頭を下げ、何やらむず痒い空気が二人の間に流れる。


「うまいメシ、は時々でいいからさ。クダ巻く相手になってよ」

「酒はやめた方がいいんじゃなかったか。いや、君の場合飲んだ方が面白いからいいか」

「シラフじゃ言いたいことも言えない」


 最後のセリフはさすがに悠太自身も驚くほど素直な本音だった。この緊張が解れるほど長く一緒にいられたら、何かが変わるのかもしれない、なんてぼんやりと思う。芳野のゆったりとした笑みを前に、これからを少しだけ心待ちにする悠太だった。

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