Episode 03:すきま風みたいに
何事もなく過ぎる時間。悠太にとってそれは苦痛でしかなかった。かと言ってなにかを望むこともできなかった。明治には次の出勤日に何事もなかったかと訊ねられたが、悠太は薄く笑って店の外で普通に別れたと嘘を吐いた。
明治が芳野と知り合いだったからということもあったが、明治にこの顛末を話すのはなけなしの自尊心がそれを許さなかった。悠太にとってあの夜は出逢いの日以上に恥でしかなかった。
まだ事実を受け入れ切れていないということもある。二週間の間、悠太はSNSの繋がりを一方的に断つか断たざるかを迷い続けてはため息と共に指を下ろす、を繰り返した。
無論、連絡はただのひとつもない。
あの晩の芳野の「またな」はいい大人の社交辞令であると悠太もわかり切っていた。
(いい加減、あの人のことで悩むのは嫌だ。なにか、新しい出逢いでもあれば、きっと)
悠太が新しく手を付けたのは、ゲイコミュニティのSNSだ。地域を絞って近隣のゲイと出会うことができる出会い系サイト。明治にそれとなく訊いた時も、その評判は上々だった。
「柾のことは諦めたのね?」
「諦めるっていうか……止めとけって言ったの明治さんじゃん。オレだってノンケ相手にする気なんてねーですもん」
(嘘ばっかり)
自分で言いながら、内心振り切れない芳野への気持ちに悪態を付かずには居られない。一刻も早く、この意識を別の何かに移す必要があった。
美容室でツーブロックにカットして、ゆるくパーマを当てたその日に自撮りの写真をアップする。プロフィールは簡素に、【抜き合い歓迎】として後はお眼鏡に適う相手を探したり、連絡を待ったり。
反応は少なくなかったが、やはり悠太自身の好みでどうしても見送りすることも多く、結局ちゃんと連絡を繋げられたのはたったひとりきりだった。
会って五分でチェックイン。シャワーを一緒に浴びる榮井の体躯は、明治や芳野に比べるとやや細い。左手薬指に光る指輪に、悠太はすぐに気付いた。
「結婚してんだ、榮井さん」
榮井は隠すでもなく、頷いて見せる。
「気になるなら外すけど」
「……いや、いいよ平気」
そう、と返事した榮井はそれきり気にする素振りもなく、またそれ以上話を拡げることもしなかった。
駆け引きゼロの取引き。互いにとって大事なのは今この瞬間の性欲を如何に満たすか。それだけだった。
同性に口淫されるのは初めてだった悠太だが、想像よりずっと気持ちが良かった。積極的な榮井に倣って、真似るように口に含むことも興奮の前にか臆することもなく、楽しささえ覚える。
駅前に着くより前に「それじゃあ」とどちらともなく別れるそのドライさも。全てが、悠太にとっては都合が良かった。
(こんなことなら、もっと先に遊び相手作っておくんだった。……そしたら、あの人のことなんてきっと)
忘れてしまえるのに。
悠太はスマホを取り出して、榮井に短なメッセージを送る。謝意と、また今度を繋げる言葉。榮井からの返事は更に短いものだったが、ほぼ即答のイエス。上々だった。
梅雨がじきに明ける七月の上旬。悠太は少しずつ芳野のことを考える時間を減らそうと努めて、できる限りひとりの時間を減らした。
お決まりの閉店後の酒盛りや、バイト組との家で飲み明かし。その中で、明治は一度だけ悠太にポツリと訊ねた。
「最近柾見ないけど、あれから連絡取ってるの?」
「まさか。一宿一飯のお礼だけっすよ。もう、会うこともないでしょ」
「……ふうん」
芳野に触れた会話はそれきりだったが、明治のその返事はなぜか悠太にわずかな引っ掛かりを残した。
そしてある晩。
仕事を終えた悠太が店を出て間もなく、降り出した雨が強くなった。
容赦ない風も相まって避けようのない雨を前に、悠太は一種の諦めを覚える。
(まあ帰ったらソッコーシャワー浴びたらそれでいっか)
そんな呑気な態で、帰路に就く。濡れた髪から滴り落ちる雫が顔を濡らすのを時折拭いながら、仕事先と家の距離がそう遠くないことに感謝した。
アスファルトの上を行き先失う雨水を蹴散らしていると後ろから不意に影が重なり同時、頭上の雨が止む。差し向けられた傘の影。
振り返った悠太は驚きに思わず眉を寄せていた。
「……ちょっと遅かったな」
「なんでアンタが」
「通り掛かりだって言ったら信じる?」
「どっちでもいい、けど。何で声掛けられンの」
あんなことがあったのに。
複雑さを隠せない悠太をよそに、芳野は変わらず飄々とした態度で平然と悠太の肩を抱き寄せる。
「これから帰り? ちょっと寄せて欲しいんだけど」
「なにしに。下心ナシでおれがアンタを家に上げると思うのかよ」
肩を抱く手を振り解く。たったそれだけのことが、悠太にはできずにいた。そんな自分が歯痒くて下唇を噛む。傘に降る雨音が煩い。成人男性用の傘とはいえ、このままでは芳野も同じように濡れるのは避けられない。会話を打ち切りたい気持ちもあるのに、悠太は自分の唇から零れる言葉の駄々に苛立ちを募らせた。
「ちょっと訳有りで。……キスぐらいならいくらでもしてやるよ」
だからさ、と芳野は悠太の肩に置いた手を下ろして傘を畳む。傘を差すことの無意味さを彼も思ったのだろう。
次の瞬間、芳野は悠太の左手を取って走り出していた。悠太のマンションまで徒歩五分。男ふたり、傍目には異様に映ったろうが上がる息と心拍数がそれを忘れさせた。
マンションのロビーを潜ったところで、ようやく芳野は悠太の手を解く。
芳野の自慢のオールバックも雨に乱れて髪が無造作に降りている。そんな横顔にどきりとさせられる悠太は、気を紛わせたくて視線をついと逸らしてポストの中のチラシをゴミ箱へ放る仕草を混ぜた。
「あーあ、やっぱりびしょ濡れだな。一緒に入るか、風呂?」
芳野の、あっけらかんとした言葉が悠太の神経を逆撫でる。久し振りの出会いに、本来なら少しでも平気を装って接したいところが、先程から理想とは程遠い反応しかできずにいた。
「おれの事揶揄いたいだけなら帰れよマジ」
どストレート、ど真ん中を放った悠太は子供っぽい自分の顔を見られたくなくて足早に廊下を歩いて部屋の鍵を開けた。芳野がこんな言葉ひとつで帰るとは思ってもいない。後ろから続く足音が止まるのを待って、扉を開けて、先に入るように促した。
靴の中までぐずぐずに濡れた悠太は、玄関先で下着一枚まですべて脱いだ。芳野が横で、その潔さにか歯を見せて笑う。
「漢らしいな」
「芳野さんも濡れてるなら脱いで。タオル取って来る」
別に見せたくてやっている訳ではなかった。あまりの濡れネズミで、部屋が濡れることを嫌がっただけだ。「へーい」と返事をして靴下を脱いでいる芳野を置いて先に部屋に上がり、脱衣カゴに濡れた一式を放る。悠太はその手でバスタオルを一枚取って戻り、芳野の方へ投げて寄越した。そのまま悠太は芳野の言葉を待たずに風呂場へ行き、シャワーを浴びる。突然のことに鳴り止まない鼓動と、無意識に感じる罪悪感のような思いを降り落としたかった。
(モヤる、必要なんてないだろ。あの人は女しか抱けないんだから。おれはおれのために建設的に生きてるだけ。誰にもおれの行動を責められる理由なんてない)
仕上げに冷水を浴びて心身共に引き締めて上がると、芳野は所在なさ気に部屋をうろうろとしていた。
「……それで。なにかあったの」
座れよ、と暗に顎で示してテーブルの席に着いて訊ねると、芳野は困ったような顔で微笑って対面に座る。
「うん、まあ。いきなりこんなこと頼むのは不躾だろうけどさ、しばらく泊めて欲しい」
「は?」
(なにがどうなってそうなるんだよ)
驚きのあまり言葉のほとんどを飲み込んだまま、悠太は呆けてしまった。芳野の表情から何か読み取れないかと窺っても、いつもの飄々さがあるだけだ。
「おれがいいよ、って言うと思うの? マジさ、馬鹿にするのも大概にしろよ。確かにアンタはおれの好みの男かもしんない。でも、だからってなんでもハイハイ言うこと聞く奴隷じゃねーし。おれになんのメリットがあんのソレ」
珍しく唇がつらつらと言葉を吐く。自分自身でも意外に思いながら悠太は目の前の芳野を見据えて目を細めた。芳野が、降参するように、または宥めるように両手を掲げて差し挟む。
「――待った、悪い、今のは……いや今までの全部だろうが、俺に全面的な非があるのは認めるよ。悪かった、本当に。……はじめからユウくんに頼もうって腹だった訳じゃないのは知ってて欲しい。けど、そうだな……俺が浅はかだったよ。虫の良すぎる話だった。駅近のカプセルホテルでもネカフェでも、頼ることにする」
芳野がはじめて動揺の色を見せた瞬間だった。目を泳がせて説明した後、口元を押さえて自身の言動を省みるような仕草。
そうなると今度は反対に悠太の親切心とも言うのだろうか、芳野に親切を分けたいような気持ちが生じる。
芳野が席を立つより先に、口を開いた。
「今日一日ぐらい、別に構わねーけど」
驚きというよりは、困惑に近い表情で芳野が静かに瞬く。瞳を左右へ泳がせて、罰の悪さを隠せない様子でしばらく口を噤んでいたが、数分の間を置いて、悠太に頭を垂れた。
「助かるよ」
普段の芳野なら、それだけの言葉を紡ぐのにそう時間は掛からなかっただろう。悠太に対する態度への反省にしてはやや重い。問題は一日やそこらで解決できるものではないのだろうと理解するのが妥当だった。
(最初から真面目な話だって言えば――……おれの前でそれができないプライドの持ち主だとでも?)
考えてみれば数度会っただけの悠太への芳野の態度はいつも余裕に満ちていたことに気付く。続きそうな沈黙に、悠太は冷蔵庫から習慣のように缶ビールをふたつ取り出してひとつを芳野の前に置いた。
「ダブルベッドだからってノンケの男と同衾はもうごめんだぜ」
「……俺がソファを借りるよ」
「なんであの晩おれと寝ることになったの」
思い出しついでの疑問を、場繋ぎに選ぶ。
芳野は少し笑ってから腕を組んだ。缶ビールを開ける素振りはないのを、悠太がプルタブを開けて促した。
「……なんでだったかな」
口を開いたのは、缶の中身が半分ほど減ってからのことだった。この程度でお互い酔えるはずはなかったが、それでもないよりはマシだったはずである。
「憶えてないのか、教えたくないのかどっち。おれは未だに思い出せねーんだけど」
「憶えてるよ、……憶えてる。教えたくないし、知らない方がいいかもな」
芳野の唇が少しだけ緩む。
(やっと笑った)
芳野の口振りから予想すれば、残るは悠太自身がベッドへ誘ったかそうなるように促したかしかないだろう。悠太にとっては羞恥でしかないことだったが、今はそれも気にならなかった。この男の感情の機微のひとつひとつに心が揺れている。
(悔しいけどやっぱり好きなんだ)
揶揄を受けるそのことさえ、目の前の相手が自身に興味を示している証としてくすぐったくもうれしい思いが確かにあった。
缶の中身を飲み干しながら、悠太はそんな心をはじめて認めた。
「それ、飲んだら風呂入りなよ。おれは先に寝る」
「ありがとう、そうさせてもらう」
おやすみ、は小声で伝える。ベッド端に転がっていた小さなクッションを枕代わりソファへ置いてやって、悠太は寝室の扉をゆっくりと閉めた。
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