Episode 02:酒はやめよう

 芳野と会う当日。悠太は店の住所をメッセージで送り、約束の時間の一時間前に暖簾を潜っていた。店長の明治は気を利かせて店の半個室のひとつを悠太のために取り置いてくれていた。


「今日のシフト、ユキとミソノちゃんだから安心して任せられるわ。いい男だったら、俺も同伴しようかな」

「明治さん、おれマジで怒るよ。店の売上貢献するし、ネタ元提供するンすから」


 唇尖らせて抗議する悠太の前に明治がサービス、とオリジナルカクテルのジョッキを差し出す。馴染みのお約束だった。思わず悠太は胡乱な視線を明治に返す。


「こういう日こそ俺特製・テポドンでしょ。シラフじゃない方が悠太はいい子よ」


 悪びれない様子の明治はそれじゃ後で、とキッチンに戻って行く。いや、正しくは逃げられた。

 明治特製ドリンク・テポドンは麦酒と焼酎を掛け合わせた高濃度アルコール、通称バクダンを真似て作られたものだ。ウイスキーと焼酎を混ぜたそれは濃厚すぎる上級者向けハイボール、とでも呼べるか。


「どうすんのコレ。こんなの飲んだらおれ合わせる顔ねーんだけど」


 思わず声にも出てしまう。

 スマホの時刻は約束の時間までそう長くない。加えて、芳野の務める会社は店のある繁華街から程近い位置にある。もしこれを口にしたら、芳野が来る頃に丁度出来上がっていそうだった。

 悠太はジョッキをテーブルの端へ避け両腕を投げ出し、スマホで時間を潰しながら、芳野を待った。逆に芳野に飲ませるぐらいが丁度いいかも知れない、と悠太は思う。


「いらっしゃいませー」


 キッチンからの声を何度聞いただろうか。その度上体を起こしていた。が、今度は様子が違った。なにやら会話が弾んでいるような気配に、悠太はひょいと身体を倒して入口を覗き込むようにする。


「やッッだ、マジかよ信じられない!」


 姿が見えないまま、明治の驚愕する声だけが聞こえて、堪らず悠太は席を立って声の元に近付いた。

 そこには、先日と同様の姿の芳野と、目を剥いている明治の姿がある。


「なに大声出してんだよ城之崎きのさき。予約客だって言ってるだろ。……あ」

「お疲れっす」

「悠太、あんた本当にこの男なの?」

「……なんスかその反応」


 なにを騒いでいるのか分からないままの芳野と悠太をよそに、明治は信じられない、と何度も繰り返す。


「知り合いなのもびっくりだけど、ねぇ」


 おしぼりをウォーマーから取り出した明治は納得が行かない顔のまま、芳野の背中を押し、二人を予約席まで案内した。


「大学のサークル仲間なんだよ。当時から城之崎はここで働いてたから、よくここでクダ巻いてた」

「今も、でしょ。……まあ、半年ぶりの顔だけど。偶然にしては気味が悪い……まさか悠太、知ってて声掛けたの?」

「まさか」


 店の常連であることに気付いていたなら尚更、声は掛けなかっただろうと悠太は思う。  

 芳野はテーラードを内側へ畳んで側へと置いた。


「そっちこそどういう繋がりなんだ。っていうのはこれからユウ君に聞けばいいよな」

「とりあえず生でいい? アンタは、それでいいでしょ」


 腰から注文端末を取り出した明治が芳野には確認をしつつ、悠太には顎で端に寄せられたジョッキを示す。

 思わず、悠太は抗議の声を上げた。


「えぇ、そりゃないっスよ。せめてチェイサーぐらいください、お願いですから」

「残すの禁止ね」


 にんまりと笑って、明治はドリンクのサーブに行く。


「なにかの罰ゲーム?」

「恒例っス」


 ジョッキを手元へ寄せながら、悠太がため息を吐くのを芳野がなるほどな、と笑って肩を揺らす。

 ジョッキは中の冷たさと外気温の差に揉まれてびっしょりと濡れていた。

 悠太は、時期に合わせて温めのおしぼりで手を拭うと同時、その結露を拭いた。


「おれ、ここで働いてもう四年になるのに、芳野さんがここ使ってることなんてまるで知らなかった」

「まあ、昔と違って今は同僚と来るばかりだし、予約入れずの飛び込みが多いから。城之崎の中での常連という感じでしょ」


 倣うように芳野もおしぼりで手を拭っている。骨張った手指、その甲のフォルムが美しい。派手すぎないチタン製の腕時計。そんな小さなことに悠太の心拍数は上がる。

 が、ドンと置かれたジョッキの音の前に心臓は冷静さを取り戻した。


「はい、生ひとつとチェイサー。お通し。……よっぽどビールにしてやろうかと思ったけど、少しは後輩思いなところ見せないとね」

「明治さんいつも鬼すぎ」


 ブーイングに明治と芳野が揃って笑う。

 注文はまだ決まっていなかったから明治には後で、と芳野が告げた。

 ひとまずの乾杯を済ませて、メニューを広げる。芳野がどれがいい、と訊ねるのを悠太は適当に指差して注文を通した。


「……ところでそれ飲んで大丈夫なの?」


 特製テポドンをひと口、ふた口と恐る恐る口にする悠太を前に芳野は言う。


「だいじょばない。から、芳野さんが飲んでくれてもいいんだけど」


 悠太が差し出すより前に、芳野がジョッキを奪う。どれ、とひと口飲んで、行けそうだと思ったのかジョッキの半分ほどまでをぐびぐびと飲み干す。


「芳野さん、それ、さすがにヤバくない?」


 アルコール度数はかなり高かったはずだった。悠太も明治の元で強くなった方ではあるが、この特製についてはこの後の記憶を憂うような代物だった。


「…………ん、美味くはない」


 唇を拳で拭って、冷のジョッキをまた勝手にひと口嚥下する顔は渋い。

 口直しのように芳野は胸ポケットから電子タバコを取り出して、咥えはじめた。


(あ、紙じゃないんだ)


 悠太は時代だな、と思う。芳野なら紙巻きの方が似合う、という謎の根拠を思いながら芳野が飲んだ冷のジョッキを、敢えて飲み口を変えて口に付けた。


「もしかして、ユウくんもゲイ?」

「…………!」

「明治がゲイなのは知ってたけど。へえ、そうか。あれはナンパだったわけか」

「ちょ、っと」


 芳野の突然の言葉に悠太は含んだ水を鼻孔に誤飲してしまい、ゲフンゲフンと咽ながら顔を覆う。顔は真っ赤だし、喉も鼻も痛くてヒリヒリする。しまいには生理的な涙と鼻水まで垂れて来る始末。悠太は、芳野が差し出すおしぼりを頭を振って断り、手の甲で色々を拭った。

 深呼吸をひとつ。


「……芳野さんは違うんですか」


 まだ、顔の熱は引きそうになかった。進行形で耳まで熱を持つのを感じながら、悠太は勇気を振り絞って訊ねてみたつもりだ。

 恐々と視線を上げると、少し頬の紅い芳野が電子タバコを燻らせている。少し遠くを見遣ってからゆるりと微笑った。


「俺は女が好きだよ」

「お、おれだってまだゲイじゃないですっ。……女と付き合ってたこともある」


 余裕のある返事に当てられて思わず声が上擦ってしまう。


(……やっぱり、ただの男だった)


 そんな分かり切ってたはずの事実に打ちのめされそうになるのを、唇を噛んで堪えた。


「お待たせー、…………なに?」

「いやちょっと」


 間が悪く料理を運んできた明治が、皿を置きながら芳野に訊ね、芳野がぼそぼそと小声で耳打ちしている。なんだか急に自分が情けなくて居た堪れなくなった悠太は、残りの酒を一気飲みした。


「明治さん、この酒チョー不味い」

「……悠太、悪いことは言わないからコイツだけは止めときなさいね」

「………おかわり」


 頭がぐらっと揺れるのを自力で支える傍らの明治の言葉は悠太には届かない。届いていたが、その言葉を大人しく受け入れることができなかった。


(うるせえ、おれだってわかってるよ)

「おかわりッ」


 明治の前に空になったジョッキを差し出して再度の催促をすると、明治は呆れた様子で前髪を掻き上げた。それから仕方なくといった態でジョッキを受け取った。


「柾、お願いだから悠太を苛めないで」


 自重で身体を支えられなくなった悠太がテーブルへうつ伏せる耳に、うっすらと聴こえる明治の声は珍しく真剣みを帯びていた。

 芳野がその言葉になんと返したのか。悠太の記憶にはない。

 お代わりとして持ってきたレモン酎がべらぼうに薄く感じられたことに怒り、更に焼酎ロックを運ばせたこと。

 べろべろの泥酔状態になった悠太を、芳野が肩を貸してくれて二人でタクシーに乗り込んだこと。ここまでが記憶の限界だった。





「ひっ」


 悠太が声を上げたのは、首筋にひどく冷たい物が当たったからだ。意識が戻ると同時に、ズキズキと頭が痛んで自然と眉が寄る。瞳だけでその正体を探ろうとすると、辺りは暗くテレビの灯りが目に染みた。


「起きた?」


 芳野の声が頭上でした。起き上がろうとして、芳野の腕がそれを押さえてくる。手の中に、冷えたミネラルのボトルを握らされた。


「寝てろよ、あんなひでえ飲み方したんだから。明日の二日酔いが楽しみだな」


 声色は言葉の割にやさしい。

 よいしょ、と側へ胡坐を掻く芳野の姿が目に入ってようやく、悠太はここが自分の部屋で、自分がソファに寝かされているのだと把握した。

 まだ思考がふわふわしていて、妙に物寂しい気持ちや人恋しさが胸を占めた。

 酒に酔うと悠太はいつも人恋しかった。それが酒のせいなのかと聞かれたら違うが。普段は隠せているそれが剥き出しになるのは、その感情の種類こそ違えどだれしも同じだろう。


(そうか、おれ、なにも言う前にフラレたようなもんだっけ。さみしーなァ)


 考えながらボトルを開けようとする指が滑る。もたつきながら苦戦して開けるのを横で見た芳野が笑う気配。

 テレビは音量を絞って、明日の天気予報を伝えている。横目に見ながら口にしようとしてつるりと濡れた容器が指から零れて。


「バカ、なにやってんだ」

「……熱いから、脱ぐ」


 慌てた芳野がボトルを拾い上げたが、中身は半分ほど悠太が丸々被ってしまった。酒が抜け切らない身体は熱くて、心地いいと思えるほどだった。

 のそりのそりのスローモーションで悠太はシャツを脱いで、床へ放る。


「水、まだ飲む?」


 訊ねる芳野に、うん、と返したつもりが上手く声にならなかった。心配したのか、芳野が顔を覗き込んで来る。暗さに少し慣れた目で見る表情は、それでもよく読めない。


(キスしたい)


 思うのが先か、芳野が動いたのが先か。ボトルを煽った芳野の唇が躊躇なく触れて来た。

薄っすらと開く隙間から冷たい水が舌と一緒になだれ込んだ。

 ちゅ、とリップノイズが鳴る。悠太は事実と水を飲み干す。驚きより、悦びの方が勝っている。そんなことに動揺した。

 芳野の指が悠太の下唇を撫でる。


「こういうのが、お望みだったんだろ」


唇が笑っている。余裕振りに、悠太の理性の糸は容易く途切れた。ミネラルのボトルを奪ってサイドテーブルに置き、そのまま芳野の肩を自重を傾けて床に押し倒す。

 芳野はまだ笑っている。


(……なにその態度。バカにされた分、楽しませてもらおうじゃん芳野さん)


 もうどう思われようと、今更だった。バイ寄りのゲイである事実も、芳野に対しての好意も知った上でこういうことを持ち掛けて来るなら、悠太にだって見返りがあってもいいはずだった。

 じろり、芳野の崩れない不敵な目を上目に唇に嚙み付いた。慣れた様子で食み返して来るのをこれ幸いと悠太はキスを深めた。舌先絡めることすら厭わないことに、期待した刀身がわずかに熱を持つ。腹立たしさと、期待とが綯い交ぜになったまま、悠太は股間の熱を芳野に分かるように擦り付けた。


「……そうだよ。あんたがどんな気持ちでこんなことすんのかわかんねーけど、おれはこうなっちまうんだよ、バーカ」


 悪態が自然と口をつく。少しずつ意識がしっかりして来ていて、この事態の異様さに悠太自身の動揺が燻りだす。


「やめた方がいいぜ、俺は。城之崎もそう言ってただろ」

「知らない」

(それでもこんなこと許されるんなら、おれはそれでも)


 ――いいと思ってしまった?

 止まりたくない本能の後ろから声を掛ける理性。それでも悠太の身体はそんな声を無視して芳野のシャツをスラックスから引っ張り出して下からいくつかボタンを外して行く。       

                

「気持ちなんて要らないから性欲だけ満たしたいって?」

「あ?」


 鼻先で笑う芳野の声に、悠太は苛立つ。


(自分の状況分かってるくせに抵抗ひとつしないで挑発? どれだけバカにしてンの)


 あの日、触れられなかった腹筋が目の前にある。芳野の反応を待たずに指腹で触れて押してなぞる。躊躇なく、唇を触れさせたところで、さすがにぴくりと芳野の身体が震えた。


「……怖いんじゃん、デカい口叩くくせに。そりゃそうだよな、ただの男なんだから。気持ち悪いだろ、気持ち悪いよな」


 唇で肌を食む。芳野の手が悠太の頭を軽く掴むのを気にせず、悠太はそのまま舌を這わせた。


「怖くないよ。……でも気持ちよくはない。もう止せよ、俺じゃ役に立たないんだから」

「……いやだ」


 悠太は半ば自棄になっていた。繰り返し言葉に出されると、心が搔き乱されて挫けそうになる。悠太はシャツの端を握り締めて、芳野にとって恐らくは不快感しかないはずの愛撫を続けた。


「ほんと、ガキだなお前」


 優しい声が頭上に降る。と同時に、頭を掴んだ芳野の手が髪を掴んで強引に顔を上げさせた。嫌でも視線が合ってしまう。

 その瞳は、憐憫に満ちている。


「悠太」


 優しい声色に腰が震えるのが分かった。悠太はその目が恐ろしくて目を伏せる。唇に熱い感触。熱い、唇が触れるままの距離で芳野は呟いた。


(なんで、そんなことすんの、芳野さん)

「俺は女しか抱けないよ、悪いな」

(……なんで)


 シャツを掴んだ指から、力が抜けて行く。残ったのは燻ったままの身体の熱と、行き場を失くした苛立ちと想い。

 芳野が立ち上がろうとするのを、もはや拒めなかった悠太は大人しく芳野の上から退いて、項垂れた。


「ちゃんとベッドで寝ろよ。……またな」


 シャツのボタンを留めて、ジャケットを拾い上げた芳野は、まるでなにもなかったかのように声を掛けて玄関へ消えて行く。

 悠太はその姿を追うこともできなかった。


(またなんて)


 遠く、ドアの開く音と締まる音。


(……あるわけないじゃん)

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