あの背中に恋をした
紺野しぐれ
形容
Episode 01:ワンチャン
ひどい頭痛がして
そういえば、昨晩は店長がバックヤードで試作した自作カクテルをしこたま飲んだ気がする。まだ朦朧とする頭で悠太は途切れた記憶を遡りながら上体を起こした。
身体を支えようとして付いた右手に、生温かいものが触れる。
「………ッ、だれ」
それが人の腕であると咄嗟に気付いた悠太はベッドを転がるように降り、その持ち主をじろりと見た。
上半身裸でこんこんと眠る男の横顔は、ああきっと女の敵と言われる類だ、と同性にも思わせる風貌をしている。
「なに勝手に人と同衾してンだコイツ」
昨晩の記憶はまだあやふやにしか戻らないままだ。そういえば雨がひどいのに傘を持たない男を助けたような気もする、が。
(まだ誰も連れ込んだことねーのに)
にわかに沸き立った苛立ちが、そのまま未だ目覚める気配のない男の背を蹴り上げさせる。一度ぐらいでは起きそうにもない。二度、三度と続けざま蹴ったところで男は寝返りと共にベッドから落ちた。
(あぁ、そういやあの時おれすげぇ気分よくて、コイツ体いいしワンチャンとか馬鹿なこと考えてた気がする)
酔っ払いの思考というのは、基本ろくでもない。それを良い訳にするのは悠太自身嫌悪することだったが、自分で泊めた男を蹴り起こした現状を前に自分への後悔と言い訳ばかりが頭を占めるのだった。
「オハヨーゴザイマス」
憮然とした表情で、身体を起こした男に声を掛ける。
「……おはよ。昨日と打って変わってメチャクチャ好感度下がったみたいね」
「昨日の自分を殴りたい気分」
「まぁまぁ、そうカリカリしないで。お兄さんが珈琲でも淹れてあげよう?」
「……自分でやるからいい」
目の前の飄々とした態度の男を見ていると、悠太の苛立ちの矛先は段々と自分へ向いて来るのだった。
(ああ、むかつく。体がいいってなんだよそれ。……どうせ女が好きなフツーの男のくせに、体格好みなのが尚更むかつく)
悠太は高校を卒業するまではいわゆるノンケだった。彼女もいたし、そんな自分になんの疑いもないはずだった。それが、大学を出た今になって男にも惹かれる自分が居ることに気付いてしまったのだ。まだ、その折り合いをつけている最中だった。
欠伸を噛み殺しながらまるで慣れた家のように洗面台に向かう男の背をひと睨みして、悠太は小さなキッチンでケトルに水を入れ火を点けた。
男の背の肩甲骨には、蓮の刺青があったことに今更気付いてほんの少しヒヤリとしたが、若気の至りというのも充分に有り得るし、筋者にしてはささやかすぎるワンポイントだと思い直した。
本当なら自分の分しか淹れない珈琲だったが、予備のマグを準備する。相手の機嫌がいいうちに家を追い出そう、と考えながら。
「俺、ブラックでいいから」
いつの間に戻ったか、気配のないまま肩越しに耳元へ声がして悠太は飛び上がりそうになった。いや、実際は肩が跳ねるぐらいのリアクションをしてしまったのかも知れない。肩越し振り返る先の男はワイシャツを羽織りながらどこかニヤニヤとしていた。
「おれ、これ飲んだら家出るんだけど。一緒に出てもらっていい?」
「そりゃ勿論。一宿の恩はまた近いうち返させてもらうぜ。……助かる」
雨に濡れていたテーラードは、鴨居に掛けて干してあった。まだ乾き切っていないのか、男はテーラードを腕に掛けたまま悠太の差し出すマグを受け取った。
「ユウくん、その様子じゃ昨日のことなにも憶えてないんだな。俺ちゃんと名乗ったのに」
「はあ、酒癖がよくないもんで。……なんかおれだけなんも憶えてないのすげえむかつく。説明してよ」
完全にその点については自分に責があるのだが、未だ二日酔いの頭痛が醒めない悠太は相手の機嫌のよさに乗っかることにした。
テーブルを挟んで真向いにお互い腰を下ろすと、男は頬杖ながら切れ長の瞳で悠太を上目に眺め、少しの間を置いてふっと呼気だけで微笑った。
「雨がひどかっただろ、昨日の夜は。俺は深夜の突然の雨に打たれてずぶ濡れだった。タクシーを使えばよかったんだけどな、丁度金を切らしていたし、仕事でむしゃくしゃしていた。駅まで歩いてずぶ濡れのまま電車の中で好奇の目を買うのはうんざりだろ。週末だからそのまま徒歩で帰ろうと思ってたとこで、ユウくんが声を掛けて来たんだよ」
その時の様子を思い出してか、含み笑いをされて悠太は思わず口を挟んだ。
「酔ってなかったらアンタに声なんて掛けてなかった。昨日のおれは本当のおれじゃないから」
口走っていて自分でも苦しい言い訳だと思う。ああ、段々と記憶の断片が甦る。人の好さそうなフリをして、この目の前の男の濡れ姿に、その裸体見たさに声を掛けたんだった、と。
「だろうな。初対面の人間前にあんな無防備で逆に心配もしたけど、今の様子見るにあれが通常運転じゃないならよかった。深酒は止した方がいいのには変わりないけどな。昨日、大事そうに名刺財布にしまってたから、後でもう一度見とけよ」
悠太の脳裏にはうやうやしく名刺を受け取った光景がフラッシュバックする。
「……ああ、ほんとマジ、やめる」
男の様子を見るに、自分がフィジカルに何かをしでかした、というような事実はなさそうだったのが救いか。ただやたらに人懐こいお人よしで済んでいると思いたかった。その時点で悠太にとっては充分な屈辱であったが。
テーブルの端に、無造作に置かれた長財布の中を開くと、確かに札入れに厚めの名刺が挟んであった。
「
洗面台で軽く整えたであろうオールバックの髪や、襟をラフに崩したシャツの着方、腕のブランド時計は夜職のそれだと悠太は思いながらに訊ねた。名刺に書かれた社名は広告代理店とあることにふうん、なんて息が漏れた。
「風俗情報誌の、とか言ったら納得しそうだな。違うけど。俺もそろそろ落ち着いた格好に変えた方がいいかな」
(いや、そういうのがおれは好きなんだけど、なんて言えるはずねーし、素直に言いたくもねーや)
芳野は腕時計を一瞥して珈琲を流し込む。
「とにかく、世話になったな。また連絡入れるから」
それじゃ、と手を軽く掲げると芳野はそのまま玄関へと出て行く。連絡交換までちゃっかりしていたらしい自分の下心を突き付けられたようで、悠太は返事を返す気力すらない。
(酒はやめよう。マジで。酒はやめよう、マジで……)
何度も反芻して決意をしてみせるが、悠太の勤め先は酒を出す店だ。加えて店長は自作の酒を振舞うのが好きと来ていて、この決意が数日後には崩れるのが目に見えていた。
(だからこそだ。酒は、やめよう……)
いつも通りひとりになった部屋で、はぁぁぁと深く盛大なため息が響く。
好みの男との出逢いは、こうして最悪な形で始まったのだった。
「でも肝心の連絡先ゲット出来てるんでしょ。ちゃっかりしてるよねえ、お前」
「……どうせノンケの男なのに口説くだけ無駄骨でしょ。おれ、相当溜まってンのかもしんないス、
土曜日の仕込みは量が多い。大量の肉を捌きながら悠太は店長の明治に今朝の出来事をボヤいていた。明治は隠そうともしないオープンのゲイで、悠太が学生の頃から頼りにしている恋愛の先輩だった。逆に言えば悠太がゲイの道に迷い込んだのもこの人の所業だったとも言えるが。
さくさくと串を仕込む隣でキャベツを刻む明治の風貌はどことなく芳野に似ていた。
「まあねえ、悠太にはちょっと早い相手かな。そんなに溜まってるなら知り合いがやってる店紹介してもいいけどぉ……」
語尾が少し粘つくオネエになるのが明治の癖だった。悠太は以前、明治のガタイとその容姿に惚れて当たって砕けた実績がある。
「明治さんが相手してくれてもいいのに」
「ガキはやぁよ。アンタみたいのが好きな男もいるけどね。俺には弟にしか見えなくて、悪いけど」
「ちぇ、平気で傷つけて来るンスから、明治さん。テンバは気になるけど流石に勇気がまだねぇすわ」
(誰でもいいわけじゃねーし)
心の中で呟くが、ノンケの男に声まで掛けた自分を悠太は相当危惧していた。今度、芳野から連絡があった時に、一度だけの過ちを冒してもおかしくはない。そう自覚していた。
「イエスもノーもはっきり言えてはじめてデビューがいいところね。強引な奴がいないわけじゃないし、はじめてのことで嫌な思いして欲しくないしね」
バイト組がやって来るまでの数時間、いつもこうしてゲイ談話を繰り広げているふたりだったが、流石にバイトには女子もいることもあり公にはこんな話をすることはない。
「さあ、仕事」
裏口で、ちわーす、と声がしていた。バイト組の大学生がそろそろ顔を出す頃だった。ゲイを自覚してからもう数年が経ち、自分もバイト組だったはずがいつの間にかこうして悠太は社員になっていた。
(今のところ好きになっても全敗。ノンケの男なんか、心変わりするわけもねーし、ほんとおれって男運ねーなぁ。しょうがねえ、今日は帰ったらシコって寝てやる)
有線の邦楽と店長とバイト組の歓談をよそに、悠太はそんなことを思う。
手指を消毒して気持ちを切り替え、バイト組に改めて声を掛けに加わる。
夜はこれからだ。
芳野からの連絡は七日目、誰しもが電話番号と繋げて使っているチャット型SNSにて、簡素な文で届いた。
『野球観戦とか興味ある?』
(いや、正直全く興味がねえ……どうしよ)
返事を数時間迷って、結局『ごめん、全然』とだけしか返せなかった。
『美術館も興味ないか。こないだの礼にうちのツテで手に入るチケットでもと思ったんだけど、若者向けとは言い難いかな?』
返事の遅延を感じさせず、芳野はぽんと返事を寄越してくる。ちゃんと礼儀を返そうとする態度に悠太がたじろぐことなど、芳野は勿論知る由もないのだろう。
(じゃあもっかい会ってよ、って打ちたくてしょうがねえ。なにこれバカじゃねえか)
考えてもみれば、初対面の同性の家に誘われてほいほいと敷地へ上がり、あろうことか同衾している時点で芳野という男もかなりズレた認識の男なのじゃないか。悠太は一縷の望みを捨て切れられず、スマホをソファへ投げて頭を抱える。
(明治さんならどうすんだろ、こういう時)
人生経験も恋愛経験も先輩の明治に聞けば、道が拓けるかもしれない。投げたスマホを再び手に取った悠太はリダイヤルから明治のスマホに電話を掛ける。
長い呼び出し音の後に、酔ったような声が端末の向こうに聴こえる。
「明治さぁん、助けて」
そこからこんこん一時間掛けて明治から悠太へ一目惚れ恋愛講義が始まった。
自宅で飲み直していたという明治は、悠太へ大胆にも芳野と外で会う約束を取り付けろと促した。
「どうせならうちの店に連れてくれば? 悠太が惚れ込む男の好み、俺も見てみたいし」
「もしかしたらワンチャン……ワンチャン、ノンケじゃないかも知れないしっ。そしたらおれ……、ちょっとは期待してもいいですよねッ?」
「男と添い寝できるんだもんねぇ」
思わず声が躍る悠太に、笑う呼気。しかし否定することがなかった時点で、悠太は更に良しとするのだった。
電話を切った後、悠太は芳野へ『飯でも奢って』と手短に送った。日時は店の繁忙を避けた開店直後を指定する。こればかりは相手の仕事の兼ね合いがあるため思う通りには行かないことも想定されたが、芳野はきっちりと予定を空けたと承諾の返事を寄越す。
(あー……ダメだ、考えてたらムラムラしてきた。おれのバカ……)
ここまではとんと順調である。順調すぎて臆病な悠太は逆に期待と不安、綯い交ぜの感情に苛まれてしまう。そこへ、現状寂しく片手で慰めるしかない性欲が合わさって、悠太はソファに身体を投げ出して脱力するしかない。
フラッシュバックするのは、あの朝見た芳野の引き締まった上体。ほどよく付いた筋肉は、学生時代から運動をしていたに違いない。三十路辺りに見えたところを思えば、その体型を保つからには今でも鍛える習慣があるか、ストイックに食生活を管理しているのかのどちらかだと想像する。
その肢体に指で触れたいと強く思う。肌の感触や筋肉の弾力、その凹凸を指の腹でなぞるのを考えただけで頭がクラクラとした。
悠太は一旦は擡げた刀身へ手を寄せたものの、おぼろ掛かってほとんど妄想に近い脳裏のイメージに集中できず、すぐに手を離す。
やはり、こういう時に一番有効なのは視覚からの直接的な刺激に限る、が。
(もういいや、動画も画像も気分じゃねーし。寝ちまお。……そうしよ)
抜き終わるより先に、後ろめたさと気怠さが付き纏う、いわゆる賢者タイムの訪れ。
もぞりと背を丸め、悠太は意識を夢に溶かした。
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